この本は、現代語訳でもなければ、学術書でもない。
仏文学者である著者が、豊かな学識と蘊蓄を傾けた随想風の平家物語であり、実際の平家物語のみならず、関連知識や情報を総動員して語りかける解説平家物語であって、非常に興味深い。
前世紀末の出版で、既に、20年以上経っているのだが、出版当時は話題を集めた本で、読みたくて買っておきながら、長い間、積ん読であったのを何の気なく、倉庫から引っ張り出して読み始めたのである。
平家物語は、学生の頃、岩波の古典文学大系「平家物語 上下」を一度読んだだけで、その後は、気が向いたときや、歌舞伎や文楽、能狂言の鑑賞時などで、何度も引っ張り出して読む程度で、通読したことはないのだが、この本は、「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり・・・」から、通しての物語なので、殆ど忘れてしまっているストーリーが多く、あらためて、「平家物語」は、凄い文学だなあと感激している。
この本と同時に、安野光雅画伯の「繪本 平家物語」が出版されていて、その原画を、「安野光雅の世界」展で観て、その素晴らしさにも、強烈なインパクトを受けた。
京都時代に、この平家物語と源氏物語がいわばバイブルとして、古社寺を片っ端から巡り歩いていた私の歴史散歩のガイドであったから、重要な本なのである。
最初の関心事は、やはり、俊寛に関する項目である。
さて、俊寛などが島流しになった鬼界が島だが、地獄絵図にみられる牛頭のような、色黒くて牛のようで、体は毛だらけ、言葉も全く通じぬ異様な人間がうろつき回り、食べるものも着るものもなく、殺生によって食いつなぐしかない異土で、なかには高い山があり、永劫の火が燃え、硫黄ばかりの絶海の孤島というイメージだが、
実際には、当時、日宋貿易船のうちには、この硫黄が島の沖合を通過するものも少なくなかったらしく、都から観ると気の遠くなるような遙か海上の小島とはいえ、この島は船便も絶えるほどの孤島ではなかった。と言うことのようである。
また、「康頼祝言」には、成経のしゅうと門脇の宰相教盛の領地、肥前国鹿瀬庄から島へ、「衣食を常に送られければ、俊寛僧都も康頼も、命生きて過ごしける」と記されていて、幸い、都から遠く隔たっているので、六波羅の監視が行き届かなかったと言うことである。
それに、もう一つ、「源平盛衰記」の「康頼熊野詣附祝言事」には、成経は蜑の女と契りを結び、子を一人儲けたと言う話が出ていて、この話を脚色した近松門左衛門が、蜑の女千鳥を登場させた「平家女護嶋」を書いて、これが、文楽や歌舞伎の舞台となって、平家物語をベースにした能「俊寛」とは違った人間味豊かな舞台になっている。
私が問題にしたかったのは、真実がどうだと言うことではなく、同じ鬼界が嶋の俊寛の話であっても、平家物語と能「俊寛」のストーリーのように、俊寛の究極の孤独を浮き彫りにした舞台から、俊寛が重盛の好意により帰還が許されながら千鳥に乗船権を与えて嶋に残る近松の浄瑠璃のような舞台、それに、以前に紹介した菊池寛の「俊寛」や芥川龍之介の「俊寛」などのバリエーションもあって、創作の妙を与えてくれる格好のテーマであって興味深いと言うことである。
鬼界が嶋に一人残った俊寛を、俊寛の侍童であった有王が、艱難忍苦に堪えながら訪ねて行く「有王」は、感動的で、何故、芝居にならないのかと思っている。
俊寛の一人息子の死についで、妻も死に、一人残った娘「姫御前」の手紙を元結いの中に隠して鬼界が嶋に辿り着く。痩せ衰えた俊寛は、有王のよってもたらされた現世の有様に、ようやく仏にすがる心となり、かっては「不信心第一の人」だったのが、食を絶ち、ひたぶるに弥陀の名号を唱えつつ息絶える。
「有王と一緒に帰ってきて欲しい」と手紙に書いた娘の不憫さに泣く俊寛、あまりにも悲惨な俊寛の生き様に断腸の悲痛の有王、
有王は俊寛を荼毘に付して遺骨を携えて高野山にのぼり、全国行脚、
姫は尼となり、奈良の法華寺に入った。と言う。
末尾に、「かやうに人の思い嘆きのつもりぬる平家の末こそおそろしけれ」
仏文学者である著者が、豊かな学識と蘊蓄を傾けた随想風の平家物語であり、実際の平家物語のみならず、関連知識や情報を総動員して語りかける解説平家物語であって、非常に興味深い。
前世紀末の出版で、既に、20年以上経っているのだが、出版当時は話題を集めた本で、読みたくて買っておきながら、長い間、積ん読であったのを何の気なく、倉庫から引っ張り出して読み始めたのである。
平家物語は、学生の頃、岩波の古典文学大系「平家物語 上下」を一度読んだだけで、その後は、気が向いたときや、歌舞伎や文楽、能狂言の鑑賞時などで、何度も引っ張り出して読む程度で、通読したことはないのだが、この本は、「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり・・・」から、通しての物語なので、殆ど忘れてしまっているストーリーが多く、あらためて、「平家物語」は、凄い文学だなあと感激している。
この本と同時に、安野光雅画伯の「繪本 平家物語」が出版されていて、その原画を、「安野光雅の世界」展で観て、その素晴らしさにも、強烈なインパクトを受けた。
京都時代に、この平家物語と源氏物語がいわばバイブルとして、古社寺を片っ端から巡り歩いていた私の歴史散歩のガイドであったから、重要な本なのである。
最初の関心事は、やはり、俊寛に関する項目である。
さて、俊寛などが島流しになった鬼界が島だが、地獄絵図にみられる牛頭のような、色黒くて牛のようで、体は毛だらけ、言葉も全く通じぬ異様な人間がうろつき回り、食べるものも着るものもなく、殺生によって食いつなぐしかない異土で、なかには高い山があり、永劫の火が燃え、硫黄ばかりの絶海の孤島というイメージだが、
実際には、当時、日宋貿易船のうちには、この硫黄が島の沖合を通過するものも少なくなかったらしく、都から観ると気の遠くなるような遙か海上の小島とはいえ、この島は船便も絶えるほどの孤島ではなかった。と言うことのようである。
また、「康頼祝言」には、成経のしゅうと門脇の宰相教盛の領地、肥前国鹿瀬庄から島へ、「衣食を常に送られければ、俊寛僧都も康頼も、命生きて過ごしける」と記されていて、幸い、都から遠く隔たっているので、六波羅の監視が行き届かなかったと言うことである。
それに、もう一つ、「源平盛衰記」の「康頼熊野詣附祝言事」には、成経は蜑の女と契りを結び、子を一人儲けたと言う話が出ていて、この話を脚色した近松門左衛門が、蜑の女千鳥を登場させた「平家女護嶋」を書いて、これが、文楽や歌舞伎の舞台となって、平家物語をベースにした能「俊寛」とは違った人間味豊かな舞台になっている。
私が問題にしたかったのは、真実がどうだと言うことではなく、同じ鬼界が嶋の俊寛の話であっても、平家物語と能「俊寛」のストーリーのように、俊寛の究極の孤独を浮き彫りにした舞台から、俊寛が重盛の好意により帰還が許されながら千鳥に乗船権を与えて嶋に残る近松の浄瑠璃のような舞台、それに、以前に紹介した菊池寛の「俊寛」や芥川龍之介の「俊寛」などのバリエーションもあって、創作の妙を与えてくれる格好のテーマであって興味深いと言うことである。
鬼界が嶋に一人残った俊寛を、俊寛の侍童であった有王が、艱難忍苦に堪えながら訪ねて行く「有王」は、感動的で、何故、芝居にならないのかと思っている。
俊寛の一人息子の死についで、妻も死に、一人残った娘「姫御前」の手紙を元結いの中に隠して鬼界が嶋に辿り着く。痩せ衰えた俊寛は、有王のよってもたらされた現世の有様に、ようやく仏にすがる心となり、かっては「不信心第一の人」だったのが、食を絶ち、ひたぶるに弥陀の名号を唱えつつ息絶える。
「有王と一緒に帰ってきて欲しい」と手紙に書いた娘の不憫さに泣く俊寛、あまりにも悲惨な俊寛の生き様に断腸の悲痛の有王、
有王は俊寛を荼毘に付して遺骨を携えて高野山にのぼり、全国行脚、
姫は尼となり、奈良の法華寺に入った。と言う。
末尾に、「かやうに人の思い嘆きのつもりぬる平家の末こそおそろしけれ」