文楽に恋をした女性作家の文楽雑感。
語られている文楽に関する情報知識については、それ程差がないので、私が興味を持って読んだのは、女性ファンとしての感想なり考え方で、私などより遙かに好奇心や感性が豊かなので非常に興味深くて面白かった。
第1章の「わが愛しの文楽」では、文楽に恋する切っ掛けとなった近松門左衛門の「女殺油地獄・豊島屋の段」から文楽の名舞台について書いている。
まず、豊島屋の段の与兵衛とお吉の殺戮の地獄絵を観ていて、人形遣いが消え、大夫も三味線も消えた、初めての感覚を覚えて、これこそが、「三位一体」、語り、三味線、人形がまさしく一つになった瞬間なのだ。と悟ったと書いている。江戸時代の人々が創り上げ、守り育ててきた文楽という芸能が持つ凄まじいパワーにひれ伏したい気持ちだった。畏敬と言ってもいい。さらに、人知を超えた、いわば、”神”の存在すら感じた。と言う経験。
私など、鑑賞眼がないのか、熱心さが足らないのか、25年以上は文楽に通っているのだが、あまり、熱狂することもなければ、こんな経験など逆立ちしても無理であろうと思うと、何を見ているのかと反省している。
次の「伊賀越道中双六」では、政右衛門の妻でありながら、仇討ちの助太刀のための妨げになると離縁され、生まれた子供を見せたいばかりに遠い旅先まで追っていきながら、政右衛門に子供を串刺しにして殺され、殺された乳飲み子を抱きしめて慟哭する悲劇のヒロインお谷について、滅私奉公、忠義一途に突っ走る武士の悲しい性に泣く女性の運命に焦点を当てて書いていて、非常に身につまされる。
劇評もそうだが、「岡崎の段」では、荒木又右衛門たる唐木政右衛門を遣う玉男の芸にばかり焦点が当てられて論じられるのだが、ストーリーとして考えてみると、理不尽というか、何故、この芝居が、現在好評を博するのか分からなくなるが、通し狂言は、「沼津の段」もそうだが、傍系の話の方が味があって面白いのが、浄瑠璃の良さでもあろうか。
「生写朝顔話」の深雪の悲恋、「艶姿女舞衣・酒屋の段」の処女妻お園、「菅原伝授手習鑑・寺子屋の段」で主役は女だと言って語る殺された子供の首をかき抱いて慟哭する千代、
文楽の凄さ素晴らしさを語りながら、ヒロイン像をビビッドに活写するのは、流石である。
第2章 「文楽の男たち」は、文楽そのものが男の世界であるから、「黒衣の誘惑」から語り初めて、大夫、三味線、人形遣い、介錯などの世界を描写しながら、主遣いの「出遣い」、楽屋の様子、たった一度のリハーサル、二尺八寸の手摺りと船底、等々、文楽の裏話を開陳していて面白い。
何故、三人遣いの人形が上手く動きを合わせられるのか、
舞台の上で、手摺りの向こうの客席から見えないところで、男たちが体を触れあって繋がっていたとは。ひとつになって一体の人形を動かしていたとは。それも接点が「腰」だとは!
男たちだけの芸能、しかも、共に舞台を創り上げる師弟、仲間は、肉体的、精神的に深いところまで関わり合っている。そこで生まれる芸が、人間の情感をよりリアルに表現できないはずがないではないか。
ああ、いけない。こんなことを知ってしまったなんて・・・。
ああ、もう文楽から離れられない。と言うのだが、何を考えているのか。
とにかく、面白いのである。
第3章は、「文楽追っかけ日記」
第4章は 「文楽の新しい波」で、織太夫、清志郎、簔紫郎をレポート
最後は、簔助が病気で「忠臣蔵」を休演の話
そうだ、この本は、1999年9月出版、20年前の本であった。
語られている文楽に関する情報知識については、それ程差がないので、私が興味を持って読んだのは、女性ファンとしての感想なり考え方で、私などより遙かに好奇心や感性が豊かなので非常に興味深くて面白かった。
第1章の「わが愛しの文楽」では、文楽に恋する切っ掛けとなった近松門左衛門の「女殺油地獄・豊島屋の段」から文楽の名舞台について書いている。
まず、豊島屋の段の与兵衛とお吉の殺戮の地獄絵を観ていて、人形遣いが消え、大夫も三味線も消えた、初めての感覚を覚えて、これこそが、「三位一体」、語り、三味線、人形がまさしく一つになった瞬間なのだ。と悟ったと書いている。江戸時代の人々が創り上げ、守り育ててきた文楽という芸能が持つ凄まじいパワーにひれ伏したい気持ちだった。畏敬と言ってもいい。さらに、人知を超えた、いわば、”神”の存在すら感じた。と言う経験。
私など、鑑賞眼がないのか、熱心さが足らないのか、25年以上は文楽に通っているのだが、あまり、熱狂することもなければ、こんな経験など逆立ちしても無理であろうと思うと、何を見ているのかと反省している。
次の「伊賀越道中双六」では、政右衛門の妻でありながら、仇討ちの助太刀のための妨げになると離縁され、生まれた子供を見せたいばかりに遠い旅先まで追っていきながら、政右衛門に子供を串刺しにして殺され、殺された乳飲み子を抱きしめて慟哭する悲劇のヒロインお谷について、滅私奉公、忠義一途に突っ走る武士の悲しい性に泣く女性の運命に焦点を当てて書いていて、非常に身につまされる。
劇評もそうだが、「岡崎の段」では、荒木又右衛門たる唐木政右衛門を遣う玉男の芸にばかり焦点が当てられて論じられるのだが、ストーリーとして考えてみると、理不尽というか、何故、この芝居が、現在好評を博するのか分からなくなるが、通し狂言は、「沼津の段」もそうだが、傍系の話の方が味があって面白いのが、浄瑠璃の良さでもあろうか。
「生写朝顔話」の深雪の悲恋、「艶姿女舞衣・酒屋の段」の処女妻お園、「菅原伝授手習鑑・寺子屋の段」で主役は女だと言って語る殺された子供の首をかき抱いて慟哭する千代、
文楽の凄さ素晴らしさを語りながら、ヒロイン像をビビッドに活写するのは、流石である。
第2章 「文楽の男たち」は、文楽そのものが男の世界であるから、「黒衣の誘惑」から語り初めて、大夫、三味線、人形遣い、介錯などの世界を描写しながら、主遣いの「出遣い」、楽屋の様子、たった一度のリハーサル、二尺八寸の手摺りと船底、等々、文楽の裏話を開陳していて面白い。
何故、三人遣いの人形が上手く動きを合わせられるのか、
舞台の上で、手摺りの向こうの客席から見えないところで、男たちが体を触れあって繋がっていたとは。ひとつになって一体の人形を動かしていたとは。それも接点が「腰」だとは!
男たちだけの芸能、しかも、共に舞台を創り上げる師弟、仲間は、肉体的、精神的に深いところまで関わり合っている。そこで生まれる芸が、人間の情感をよりリアルに表現できないはずがないではないか。
ああ、いけない。こんなことを知ってしまったなんて・・・。
ああ、もう文楽から離れられない。と言うのだが、何を考えているのか。
とにかく、面白いのである。
第3章は、「文楽追っかけ日記」
第4章は 「文楽の新しい波」で、織太夫、清志郎、簔紫郎をレポート
最後は、簔助が病気で「忠臣蔵」を休演の話
そうだ、この本は、1999年9月出版、20年前の本であった。