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イギリスでの最終日である。ストラトフォードの街から間単に行けるのに、行けなかった場所:シェイクスピアの妻アン・ハサウェイのコテージと母メアリー・アーデンの家を訪ねることにした。
母の父は、富裕な大地主であったので、メアリーの家は大きな農場を持った今でも立派な家であるが、アンのコテージは、今では少なくなって希少価値の萱葺き屋根の絵心を誘う牧歌的な家なので、この方が人気が高く、観光客が多い。
街を出て西方向へ1マイル、郊外のショタリー村にアンのコテージがある。道路標識がしっかりとしているので道標に導かれてすぐに着いた。
草深い田舎であった、そんなところに道路沿いにヒッソリと建っている。コテージと言っても、かなり大きな萱葺き屋根の家で、昔は家畜小屋や農地があったであろう庭が、夏の草花が咲き乱れる典型的なイングリッシュガーデンのコテージ・ガーデンになっている。スイトピーの花や赤や紫の花が風に揺れている。ルリタマアザミの薄紫の玉に虫が戯れている。薄い褐色の煉瓦壁を背にしてタチアオイが咲いている。記念写真を撮るために場所を占めて動かない日本人観光客が立ち去るまで、そんなショットを撮りながら待って、静かになってから庭をゆっくり散策した。
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アンはここで生まれ、1582年シェイクスピアと結婚するまで26年間ここで暮らした。アンのことは殆ど何も分かっていないが、ごく普通の女性で読み書きは出来なかったようである。シェイクスピアが結婚まもなくロンドンへ単身赴任してしまって、殆どストラトフォードを留守にしていたので、一人で子供を育てて家庭を守っていたのであろう。その間に、頻繁に里帰りして野良仕事もしていたのかも知れない。19歳のシェイクスピアよりも8歳年上の姉様女房であったが、不思議にも、シェイクスピアの戯曲には何の影響も痕跡も残しておらず、長い間留守を守り、夫が引退してロンドンから帰ると、また、何でもなかったように静かに一緒に暮らした。そんなアンという女性は、一体、どんな人だったのであろうか。
建物は庭から観て、右側の広い低層部は、16世紀のオリジナルで、左側の高層部は、17世紀にアンの兄が増築したと言われており、19世紀まではハサウェイ家の人たちが住んでいたようで、ほぼ現状のままに残っている。内部の装飾、家具、調度なども、総べて骨董で当時の雰囲気を残すべく努力されている。一階には、ホール、台所、食糧貯蔵室、冷蔵室等があり、二階にはいくつかの寝室がある。ホールの暖炉の側に、楡の板を張った木製の長椅子があり、解説者が、交際中のシェイクススピアとアンが、座ってよく話したところだと説明し、間をおいて、その可能性があると言って、意味ありげににっこりと微笑んだ。二階の主寝室には、場違いなほど立派な彫刻を施したオーク製のベッドがある。この家は、二階建ての細長い建物で、かなり広い立派な農家であることが分かった。
外に出ると果樹園に続いている。シェイクスピア戯曲に登場する木々は、殆ど植えられているという。アンのコテージを出ると、道路を隔てて、小さなショッテリー川が流れていて、森に通じる。これがオフィーリァが溺死した場面や、「お気に召すまま」の「この世は舞台、男も女も総べて、登場しては消えて行く役者に過ぎない All the world’s a stage, And all the men and women merely players. 」の舞台のモデルだと言われている。アンとのデートの場が、シェイクスピアの深層心理として残っていたのかも知れないと思うと面白い。尤も、このあたりでは、このような風景はいくらでもあるのだが、ストラトフォードの回りを歩いていると、シェイクスピアを身近に感じ、その戯曲のあっちこっちの場面がいつか何処かで見たような気がして、無性に懐かしくなるのが不思議である。
今度は、道路標識にしたがって、シェイクススピアの母メアリー・アーデンのいえに向かった。
このあたりの細かい道路地図がないので、懇切丁寧な標識が全く有り難い。イギリスの道路標識は、世界一であるが、これまで、全く交通ルールも異なり言葉も違うヨーロッパ、ドイツやベネルックスやデンマークやフランスなどを運転してきたので、標識を見るのは慣れているのだが、日本の標識の方が分かりにくいと思っている。2車線の綺麗に舗装された田舎道を、街から北西へ3マイル、すぐに、メアリー・アーデンの家に着いた。ここに来ると日本人の観光客はいない。
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母の家は、「アズビーズ」と呼ばれる16世紀の木骨造りの2階建ての落ちついたチューダー様式の農家である。
母屋の他に、色々な別棟が付属するかなり大きな農家で、一部は、シェイクスピア田園博物館として利用されていて、多くの農機具や馬車等が展示されている。母屋は、褐色の石のスレートで葺かれ、基礎と腰板は、この地方やコッツウォルドで普通に産する青灰色の石灰岩の薄い煉瓦様のブロックを積み重ねており、その上に載った太い木骨フレームの白壁に太陽の光が映えて美しい。アンの家も、同じチューダー朝だが、この家の方が遙かにしっかりとしている。
これらの建物は、20世紀の初期に財団が買い取るまで、農家として使われていた。表玄関が閉鎖されていたので、裏口から入ると、右手に台所、左手にホール兼リビングがある。家具調度、調理機器等は勿論、内装も当時の模様を現出している。台所の炉の上には、鳥や兎を吊すゲーム・クラウンがあったり、ホールには、一方が接吻している図案の彫像パネルの2枚付いた16世紀初期のオームブリ食器棚があるなど結構興味深い。2階は寝室になっている。
面白いのは、中庭の片隅に、600を越える巣穴のある鳩小屋があることで、当時、普通の庶民には飼育が許されていなかったので、アーデン家はかなりの特権階級であったことを示すと記されている。1556年の記録には、乳牛、牡牛、羊、馬、豚、鶏、ミツバチなどが飼われていたとあり、かなり、大規模な農場であった。財団が買い取った大規模なグリーブの農場が隣接しているのだが、時間がなかったので、ほどほどにして退散した。
夕刻までにヒースローまで突っ走って、JAL便で東京へ帰るのである。
(追記)当時の写真は探し出せないので、口絵写真などは、ウィキペデイァとネット画像から借用した。
母の父は、富裕な大地主であったので、メアリーの家は大きな農場を持った今でも立派な家であるが、アンのコテージは、今では少なくなって希少価値の萱葺き屋根の絵心を誘う牧歌的な家なので、この方が人気が高く、観光客が多い。
街を出て西方向へ1マイル、郊外のショタリー村にアンのコテージがある。道路標識がしっかりとしているので道標に導かれてすぐに着いた。
草深い田舎であった、そんなところに道路沿いにヒッソリと建っている。コテージと言っても、かなり大きな萱葺き屋根の家で、昔は家畜小屋や農地があったであろう庭が、夏の草花が咲き乱れる典型的なイングリッシュガーデンのコテージ・ガーデンになっている。スイトピーの花や赤や紫の花が風に揺れている。ルリタマアザミの薄紫の玉に虫が戯れている。薄い褐色の煉瓦壁を背にしてタチアオイが咲いている。記念写真を撮るために場所を占めて動かない日本人観光客が立ち去るまで、そんなショットを撮りながら待って、静かになってから庭をゆっくり散策した。
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アンはここで生まれ、1582年シェイクスピアと結婚するまで26年間ここで暮らした。アンのことは殆ど何も分かっていないが、ごく普通の女性で読み書きは出来なかったようである。シェイクスピアが結婚まもなくロンドンへ単身赴任してしまって、殆どストラトフォードを留守にしていたので、一人で子供を育てて家庭を守っていたのであろう。その間に、頻繁に里帰りして野良仕事もしていたのかも知れない。19歳のシェイクスピアよりも8歳年上の姉様女房であったが、不思議にも、シェイクスピアの戯曲には何の影響も痕跡も残しておらず、長い間留守を守り、夫が引退してロンドンから帰ると、また、何でもなかったように静かに一緒に暮らした。そんなアンという女性は、一体、どんな人だったのであろうか。
建物は庭から観て、右側の広い低層部は、16世紀のオリジナルで、左側の高層部は、17世紀にアンの兄が増築したと言われており、19世紀まではハサウェイ家の人たちが住んでいたようで、ほぼ現状のままに残っている。内部の装飾、家具、調度なども、総べて骨董で当時の雰囲気を残すべく努力されている。一階には、ホール、台所、食糧貯蔵室、冷蔵室等があり、二階にはいくつかの寝室がある。ホールの暖炉の側に、楡の板を張った木製の長椅子があり、解説者が、交際中のシェイクススピアとアンが、座ってよく話したところだと説明し、間をおいて、その可能性があると言って、意味ありげににっこりと微笑んだ。二階の主寝室には、場違いなほど立派な彫刻を施したオーク製のベッドがある。この家は、二階建ての細長い建物で、かなり広い立派な農家であることが分かった。
外に出ると果樹園に続いている。シェイクスピア戯曲に登場する木々は、殆ど植えられているという。アンのコテージを出ると、道路を隔てて、小さなショッテリー川が流れていて、森に通じる。これがオフィーリァが溺死した場面や、「お気に召すまま」の「この世は舞台、男も女も総べて、登場しては消えて行く役者に過ぎない All the world’s a stage, And all the men and women merely players. 」の舞台のモデルだと言われている。アンとのデートの場が、シェイクスピアの深層心理として残っていたのかも知れないと思うと面白い。尤も、このあたりでは、このような風景はいくらでもあるのだが、ストラトフォードの回りを歩いていると、シェイクスピアを身近に感じ、その戯曲のあっちこっちの場面がいつか何処かで見たような気がして、無性に懐かしくなるのが不思議である。
今度は、道路標識にしたがって、シェイクススピアの母メアリー・アーデンのいえに向かった。
このあたりの細かい道路地図がないので、懇切丁寧な標識が全く有り難い。イギリスの道路標識は、世界一であるが、これまで、全く交通ルールも異なり言葉も違うヨーロッパ、ドイツやベネルックスやデンマークやフランスなどを運転してきたので、標識を見るのは慣れているのだが、日本の標識の方が分かりにくいと思っている。2車線の綺麗に舗装された田舎道を、街から北西へ3マイル、すぐに、メアリー・アーデンの家に着いた。ここに来ると日本人の観光客はいない。
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母の家は、「アズビーズ」と呼ばれる16世紀の木骨造りの2階建ての落ちついたチューダー様式の農家である。
母屋の他に、色々な別棟が付属するかなり大きな農家で、一部は、シェイクスピア田園博物館として利用されていて、多くの農機具や馬車等が展示されている。母屋は、褐色の石のスレートで葺かれ、基礎と腰板は、この地方やコッツウォルドで普通に産する青灰色の石灰岩の薄い煉瓦様のブロックを積み重ねており、その上に載った太い木骨フレームの白壁に太陽の光が映えて美しい。アンの家も、同じチューダー朝だが、この家の方が遙かにしっかりとしている。
これらの建物は、20世紀の初期に財団が買い取るまで、農家として使われていた。表玄関が閉鎖されていたので、裏口から入ると、右手に台所、左手にホール兼リビングがある。家具調度、調理機器等は勿論、内装も当時の模様を現出している。台所の炉の上には、鳥や兎を吊すゲーム・クラウンがあったり、ホールには、一方が接吻している図案の彫像パネルの2枚付いた16世紀初期のオームブリ食器棚があるなど結構興味深い。2階は寝室になっている。
面白いのは、中庭の片隅に、600を越える巣穴のある鳩小屋があることで、当時、普通の庶民には飼育が許されていなかったので、アーデン家はかなりの特権階級であったことを示すと記されている。1556年の記録には、乳牛、牡牛、羊、馬、豚、鶏、ミツバチなどが飼われていたとあり、かなり、大規模な農場であった。財団が買い取った大規模なグリーブの農場が隣接しているのだが、時間がなかったので、ほどほどにして退散した。
夕刻までにヒースローまで突っ走って、JAL便で東京へ帰るのである。
(追記)当時の写真は探し出せないので、口絵写真などは、ウィキペデイァとネット画像から借用した。