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コロナウイルス騒ぎで、人間活動の多くが急停止して、公害の弊害が一気に後退して、見違えるように美しくなった。
開発進歩の美名の元に、傍若無人に、宇宙船地球号を、切った張ったと蹂躙して来た人間に対して、静かにジャングルに眠っていた原初のウイルスが叩き起こされて、コロナウイルスの鎧を着けて猛威を振るう、まさに、大自然の報復に、世界中が戦いている。
その結果、おそらく、ほんのつかの間であろう、自然の脅威によって、北京や上海に青空が戻り、地球が、こんなにも美しいことを見せてくれている。
限りなく美しい自然のエコシステムに蘇ったこの素晴らしい地球環境を前にして、人類が、営々と築き上げてきた文化文明とは、一体何であったのかを、真剣に考える機会になることを祈るのみである。
さて、ピンカーは、第10章 環境問題は解決できる問題だ と言う1章を割いて、楽観的な環境未来論を説いている。
まず、冒頭で、環境問題の真実を科学的に認めることが必要だとして、「グリーニズム」を半宗教的なイデオロギーでその黙示的予言はことごとく外れていると批判し、エコモダニズムを説いている。
エコモダニズムの考え方は、ある程度の環境汚染は避けられない、工業化が人類に利益をもたらしている、人類が環境に与えるダメッジは技術の力で小さく出来ると言う価値観に立った思想で、実際にも、人間の生活条件は、時代とともに、どんどん良くなっており、様々な面で、地球環境は改善されている。と説く。
豊かになり教育を受けて、寛容や平等、思想と言論の自由と言った開放的な価値観を持つ人々は、リサイクルに積極的で、政府や企業に環境を保護するよう働きかける傾向が強いとも言う。
確かに、ピンカーが説く如く、人類は、資源不足の問題一つを取っても、多くの障害や沢山の不都合を、科学技術の進歩発展よって、解決し続けてきたのだが、しかし、どう贔屓目に見ても、公害問題は、どんどん、進行しており、地球環境の悪化は明白であり看過できなくなりつつあることは無視できなくなってきている。
ピンカーは、人々の生活や生産活動を高密度化・脱物質化することが重要だとして、遺伝子組み換え作物や都会への集中移住、デジタル技術活用やシェアリングエコノミーによる高度な脱物質化など例を挙げて、その科学技術のなせる技をを説いているが、人間の活動そのものが地球の限界に差し掛かりつつある今日、どこまで、人類が、このような対応を成功し続けて行けるか、疑問であろう。
石油の流出事故が減る一方で原油の輸送量は増え、タンカー事故を減らそうとする石油会社と環境保護とは利益は一致し、環境保護と経済成長は両立できるのだとか、
「部分的核実験禁止条約」の締結で死の灰の危険が取りのけられたり、「長距離越境大気汚染条約」で酸性雨の脅威除去の一助になるなど、世界政府がなくても、世界の国々は地球保護の対策に合意できるのだと言うのだが、エコモダニズムの肯定論には、やはり、こじつけのような無理があって、地球環境が、徐々に悪化してゆくことへの解決にはなっていない。
環境を改善しようと努めた先人たちの、地球環境保護の議論や運動、法整備、規制、条約、技術的な工夫などの御陰は、甚大なものがあるが、これらの進歩の成果を維持推進し、進歩の後退を防ぎ、さらに、深刻な海洋汚染や大気中の温暖効果ガスなど現在直面する難問題を解決するために、、我々は決死の努力をする必要がある。
流石の楽天的なピンカーも、啓蒙主義的環境主義が、有望だとしても、温暖効果ガスが地球の気候に及ぼす影響は、間違いなく憂慮すべき事態を示していると認めている。
国連の気候変動政府間パネルの調査見解以上に厳しい現状を説き、確固たる科学的エビデンスを否定し人間の活動が原因であることを認めない気候変動に対する懐疑論者を強烈に非難している。
アメリカの政治的右派は、科学的証拠を完全に無視して、石油ガス業界から巨額の支援を受けて「温暖化効果ガスが地球温暖化を促進しているわけではない」とする「ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ病)」に毒された悪質な陰謀論で、政府に経済を乗っ取らせようとする政治思想を展開していて、馬鹿馬鹿しいにも程があると糾弾してる。
しからば、この温暖効果ガスによる気候変動を、どのようにして阻止するのか。
ピンカーは、
「カーボンプライシング」が脱炭素化の第一の鍵
原子力発電が脱酸素化の第二の鍵
として、カーボンプライシングと原子力発電を勧めている。
これについては、流布している一般論とそれほど違わないので、論述は避ける。
ただ、核アレルギーの強い日本人として解せないのは、殆ど手放しの原発推進論であって、福島の悲劇については、チェルノブイリ原発事故の死者31人の記述の際に、(他の二つの大事故、1979年のスリーマイル島原子力発電所事故と2011年の福島第一原子力発電所事故では、直接の死傷者は出ていない。)と一言触れただけで、その深刻さを一顧だにしていないことである。
「環境問題は解決できる問題だ」という理論に期待して読んだのだが、
これだけを見ても、ピンカーの楽天主義というか、能天気の理論展開に、一寸、違和感を感じ始めている。
開発進歩の美名の元に、傍若無人に、宇宙船地球号を、切った張ったと蹂躙して来た人間に対して、静かにジャングルに眠っていた原初のウイルスが叩き起こされて、コロナウイルスの鎧を着けて猛威を振るう、まさに、大自然の報復に、世界中が戦いている。
その結果、おそらく、ほんのつかの間であろう、自然の脅威によって、北京や上海に青空が戻り、地球が、こんなにも美しいことを見せてくれている。
限りなく美しい自然のエコシステムに蘇ったこの素晴らしい地球環境を前にして、人類が、営々と築き上げてきた文化文明とは、一体何であったのかを、真剣に考える機会になることを祈るのみである。
さて、ピンカーは、第10章 環境問題は解決できる問題だ と言う1章を割いて、楽観的な環境未来論を説いている。
まず、冒頭で、環境問題の真実を科学的に認めることが必要だとして、「グリーニズム」を半宗教的なイデオロギーでその黙示的予言はことごとく外れていると批判し、エコモダニズムを説いている。
エコモダニズムの考え方は、ある程度の環境汚染は避けられない、工業化が人類に利益をもたらしている、人類が環境に与えるダメッジは技術の力で小さく出来ると言う価値観に立った思想で、実際にも、人間の生活条件は、時代とともに、どんどん良くなっており、様々な面で、地球環境は改善されている。と説く。
豊かになり教育を受けて、寛容や平等、思想と言論の自由と言った開放的な価値観を持つ人々は、リサイクルに積極的で、政府や企業に環境を保護するよう働きかける傾向が強いとも言う。
確かに、ピンカーが説く如く、人類は、資源不足の問題一つを取っても、多くの障害や沢山の不都合を、科学技術の進歩発展よって、解決し続けてきたのだが、しかし、どう贔屓目に見ても、公害問題は、どんどん、進行しており、地球環境の悪化は明白であり看過できなくなりつつあることは無視できなくなってきている。
ピンカーは、人々の生活や生産活動を高密度化・脱物質化することが重要だとして、遺伝子組み換え作物や都会への集中移住、デジタル技術活用やシェアリングエコノミーによる高度な脱物質化など例を挙げて、その科学技術のなせる技をを説いているが、人間の活動そのものが地球の限界に差し掛かりつつある今日、どこまで、人類が、このような対応を成功し続けて行けるか、疑問であろう。
石油の流出事故が減る一方で原油の輸送量は増え、タンカー事故を減らそうとする石油会社と環境保護とは利益は一致し、環境保護と経済成長は両立できるのだとか、
「部分的核実験禁止条約」の締結で死の灰の危険が取りのけられたり、「長距離越境大気汚染条約」で酸性雨の脅威除去の一助になるなど、世界政府がなくても、世界の国々は地球保護の対策に合意できるのだと言うのだが、エコモダニズムの肯定論には、やはり、こじつけのような無理があって、地球環境が、徐々に悪化してゆくことへの解決にはなっていない。
環境を改善しようと努めた先人たちの、地球環境保護の議論や運動、法整備、規制、条約、技術的な工夫などの御陰は、甚大なものがあるが、これらの進歩の成果を維持推進し、進歩の後退を防ぎ、さらに、深刻な海洋汚染や大気中の温暖効果ガスなど現在直面する難問題を解決するために、、我々は決死の努力をする必要がある。
流石の楽天的なピンカーも、啓蒙主義的環境主義が、有望だとしても、温暖効果ガスが地球の気候に及ぼす影響は、間違いなく憂慮すべき事態を示していると認めている。
国連の気候変動政府間パネルの調査見解以上に厳しい現状を説き、確固たる科学的エビデンスを否定し人間の活動が原因であることを認めない気候変動に対する懐疑論者を強烈に非難している。
アメリカの政治的右派は、科学的証拠を完全に無視して、石油ガス業界から巨額の支援を受けて「温暖化効果ガスが地球温暖化を促進しているわけではない」とする「ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ病)」に毒された悪質な陰謀論で、政府に経済を乗っ取らせようとする政治思想を展開していて、馬鹿馬鹿しいにも程があると糾弾してる。
しからば、この温暖効果ガスによる気候変動を、どのようにして阻止するのか。
ピンカーは、
「カーボンプライシング」が脱炭素化の第一の鍵
原子力発電が脱酸素化の第二の鍵
として、カーボンプライシングと原子力発電を勧めている。
これについては、流布している一般論とそれほど違わないので、論述は避ける。
ただ、核アレルギーの強い日本人として解せないのは、殆ど手放しの原発推進論であって、福島の悲劇については、チェルノブイリ原発事故の死者31人の記述の際に、(他の二つの大事故、1979年のスリーマイル島原子力発電所事故と2011年の福島第一原子力発電所事故では、直接の死傷者は出ていない。)と一言触れただけで、その深刻さを一顧だにしていないことである。
「環境問題は解決できる問題だ」という理論に期待して読んだのだが、
これだけを見ても、ピンカーの楽天主義というか、能天気の理論展開に、一寸、違和感を感じ始めている。