熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

神田神保町の老舗古書店の閉店

2010年11月07日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   最近は、何となく神田に足が遠のいて、今年の古書店祭りにも行けなかった。
   今日、イタリア文化会館での「ダンテフォーラム」までに時間があったので、神保町に立ち寄ったら、老舗古書店「巌松堂書店」の前に人が集まっていて、張り紙を見ると閉店とかで、6日から月末にかけてセールをしている。
   単行本などはすべて一冊300円で、全集などセット本は、値札の半額と言うことで、読書家と思しき中年から初老の男女で、店内は込み合っている。
   棚の本はかなり売れていて、大分空間が出来ていたが、まだ、店内には、いつものように沢山の本がうず高く積まれている。

   私は、大体、余程のことがない限り、古書を買うことはなく、神保町の古書店で買うのは、殆ど新刊書ばかりである。
   したがって、この巌松堂で本を買う場合は、店頭のワゴンに時々並ぶ経済や経営関係のかなり新しい出版の本ばかりなので、店内に入るのは、何か、特別な本を探す時に限られており、殆ど中に入ったことはなかった。

   今回、店内に入って良く見ると、奥の書棚には、膨大な法律書や経済、経営関連の本がびっしりと並んでいたのにはびっくりした。
   JIMBOU BOOK TOWNのホームページを開くと、巌松堂の記述は、生きたままで、50年の歴史を持つ老舗で、法律、政治、経済、文学、芸術、宗教、哲学、歴史と言った社会・文科系の書籍の専門店だと言うことである。
   しかし、中の書棚を見て感じたのは、たとえば、経済や経営に関する本は、歴史的な価値はあるかも知れないが、大半は、本当の古書ばかりで、私には興味を感じる本は全くなかった。
   シュンペーター関係の本やイノベーション関係の本があるかと思ったが見つけ出せなかった。

   私は、経済とか経営関係の本は、特別な古典ならいざ知らず、非常に賞味期限が短い典型的な分野の学問なので、時間が経った古書には、あまり価値がないと思っている。
   したがって、出版されて5年程度も経ってしまった本には、殆ど食指が動かない。
   早い話が、たとえば、リーマン・ショック関連やブッシュ関連、まして、9.11関連本などに、間違っても手を出さない。
   とにかく、どんどん世界や経済社会情勢が変わってしまうので、後ろを振り向いている暇などないのである。

   結局、私が、この日、巌松堂で買った本は、
   岩波書店の「近松浄瑠璃集」上下
   集英社刊・堀田善衛著「ミシェル城館の人」第3部 精神の祝祭
   パバロッティ「マイワールド」 の4冊である。
   ミシェル城館は、第1部と第2部は、持っているのだが、第3部を買いそびれていたためで、そして、パバロッティは、英語版を持っているのだが、綺麗な本が残っていたので買ったのである。
   近松浄瑠璃本は、他にも持っているのだが、やはり、これは趣味の深さと言うか、あればさからえないのである。

   一般の書店の閉店や倒産は、結構、見て来たが、はっきりと、神保町のしっかりした老舗書店が閉店するのを見るのは初めてで、神保町ファンの私には、非常にショックであった。
   ブックオフの台頭で、既存書店には、その影響が大きかったと思うが、ブックオフの競合店は、むしろ、新しい書籍を売る一般書店だと思っていたのだが、やはり、インターネットの普及やデジタル本の登場、そして、最も影響の大きな国民の本離れなどから、その書籍不況の大波が、古書店をも襲ってきたのであろうか。
   帆船効果で、書店が大型化するなど、起死回生のために大変な試みがなされてはいるが、デジタル革命で、新聞でさえ風前のともしびで消えて行く運命だと、「クリック!」の著者ビル・タンサーが言っているように、紙製の本そのものも、どんどん淘汰されて、デジタル化して電子化されて来ると、書店そのものも、流通革命に煽られている百貨店のような運命に遭遇せざるを得ない。
   公立図書館や学校図書館さえ、古書の寄贈を迷惑がる世の中になってしまったのであるから、古書店の存在価値も薄れて行くのであろう。

   それよりも、私自身のかなり膨大な蔵書だが、娘二人は、邪魔なので、すぐにでも処分すると言っており、どうするのか、その方の心配が先かも知れない。
   経済や経営本は、ともかくとして、シェイクスピアや歌舞伎・文楽、芝居や音楽、芸術関係など、思い入れのある本が結構あるので、孫を手なずけて、と思っているのだが無駄であろうから、死んでしまえばどうでも良いと諦めている。
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歌舞伎の悪~「加賀鳶」の團十郎の道元

2010年11月05日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   先月の新橋演舞場の歌舞伎について、ブログを端折ってしまったのだが、今回、「天衣紛上野初花」の舞台で、片岡直次郎や河内山宗俊の悪を見て、団十郎と仁左衛門が演じた「加賀鳶」、特に、團十郎の道玄の悪辣ぶりと歌舞伎の悪の美学について書いておくべきだと思って筆を執った。
   手元にある演劇界の「歌舞伎の悪」の中の記事で、この本への執筆者9人の選んだ「悪人ベスト5」の中の3悪人の一人が、道玄なのである。
   ほかの二人は、藤原時平と蘇我入鹿で、これらは、実悪、天下を覆すとか言った大きな社会悪とも言うべき存在だが、道玄の方は、ヤクザなしがない一般庶民と言うか市井のどこにでもいるような人物であるから、その悪度さが分かろうと言うものである。

   この團十郎が演じた道玄だが、路上で持病に苦しむ百姓太次右衛門を介抱する振りをして殺害して金を奪うのだが、その妹おせつ(右之助)を女房にしながらも殴る蹴るの狼藉、女按摩お兼(福助)を愛人にして毎日酒と博打に入りびたり。
   太次右衛門の娘お朝(宗之助)を近所の豪商伊勢屋に奉公に出しているのだが、おせつの病気に同情して主人伊勢屋与兵衛(家橘)に5両を恵んで貰ったのをネタに、お兼と強請を企んで伊勢屋に乗り込む。その前に、帰っていたお朝を苦界に売り飛ばす。
   お兼と偽手紙を拵えて、主人がお朝を弄んだと因縁をつけて強請る。成功しかかったところへ、日蔭町松蔵(仁左衛門)が駆けつけて、筆跡から偽手紙を暴露し、現場で落とした煙草入れを示されて御茶ノ水での太次右衛門殺しの一件を仄めかされて、すごすごと退散する。
   赤犬が、軒下に隠しておいた血染めの衣類を掘り出して長屋は大騒ぎ。結局、お兼と道玄は、捕縛されるのだが、終幕の加賀藩江戸屋敷表門での闇夜の世話だんまりで、捕り手たちに追いかけられながら逃げ回る道玄の滑稽さが、悪辣さの解毒剤ともなってご愛嬌と言うところであろうか。
   
   同じ悪太郎でも、近松の女殺油地獄の与兵衛には、多少、良心の呵責があるのだが、この道玄に至っては、悪の意識とか罪の意識などは勿論、人を思う意識など欠片もなく、これだけ自分勝手に生きられる人間がいるのかと言うことだが、相棒のお兼も似たり寄ったりで、正に、類は友を呼ぶである。
   したがって、やはり、この歌舞伎の山場は、竹町質店の場での道玄とお兼の強請の舞台で、二人の手前勝手な強弁と、その後に登場する松蔵によるどんでん返しである。
   前に見たのが、幸四郎の道玄、秀太郎のお兼、吉右衛門の松蔵だったが、やはり、役者が変わると、同じ芝居でも印象が全く違って来るのが面白い。

   初代の父・菰の十蔵が、当時の侠客、男伊達の一人であったことからも、團十郎家の伝統である荒事の中には、江戸アウトローたちへの思いが流れているのであろうが、この時の悪は、強いとか正義感に似たものがあったが、この道玄の世界は、それとは違って、全く恰好の悪い悪辣なチンピラの悪の世界で、世話物の芝居。
   しかし、性格的にもまじめ一方と言うか、大きな目にモノを言わせた團十郎の道玄は、実に味がある。不思議にも凄みを全く感じさせない、しかし、俗に言われている小悪党と言う感じではないが、器用に世渡りをしながら泳いでいる倫理観道徳観全く欠如の欠陥人間を地で行くように巧みに演じている。
   このあたりの團十郎は、お家の芸である荒事の豪壮な世界を現出する團十郎ではなく、正に、等身大、しかし、人間の真実に迫ろうとする気迫と思い入れが脈打っていて感動的である。
   どこかインテリヤクザ的な雰囲気のある幸四郎の道玄とは違った團十郎の、不器用さが隠れて人間そのものをぶっつけている芸が、道玄の救いようのない悪を、同じ悪を展開しながらも、実に後味の良い芝居に仕立てているような気がしたのである。

   ところで、お兼だが、人気の高い秀太郎に対して、福助も上手い。
   あの万野の時にも感じたのだが、徹頭徹尾意地の悪い女を演じさせると、どこか崩れた感じの人物表現の上手い福助が光る。
   女房おせつの後釜に座ろうとしているのだが、質店の場での、道玄の強請に加勢するお兼の悪辣さぶりは、道玄の上を行っている感じで、福助演じるお兼の芸も堂に行っている。

   仁左衛門の日蔭町松蔵は、言うまでもなく、適役で、團十郎との掛け合い、相性が実に良くて、見ていて気持ちが良い。
   演技をしなくても、地で行けば素晴らしい舞台が生まれると言った印象を与えてしまうのも、仁左衛門の芸の凄さかも知れない。

   この芝居は、加賀鳶だが、冒頭の「本郷木戸前勢揃い」の場で、喧嘩を仕掛けようと子分たちと繰り出す松蔵たちを、天神町梅吉(団十郎)が、喧嘩場を納めると言うところだけしか加賀鳶が出てこない。
   河竹黙阿弥の原作を一部切り取った演出なのでそうなっているのだが、長い芝居をさわりだけで見せる歌舞伎の世界の面白さであろうか。
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野口悠紀雄著「経済危機のルーツ」

2010年11月04日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   著者本人が「私の自分史」だと言うように、謂わば、野口教授が人生を送ってきた1970年からの世界と日本の経済史を克明に記録した本と言った感じで、巻末に、1970年から、世界の動き、日本の動きが年表に記されている。
   私自身も似たような年代で、職歴等は全く違うが、欧米での勉強や生活などを共有しているので、一々納得しながら、人生を反芻しているような感じで楽しく読ませて貰った。
   正に、世界と日本の経済の動きが、手に取るように分かる参考書と言うか備忘録と言ったところでもある。

   終章で、野口教授は、「日本が停滞を打破するためになすべきこと」を提言している。
   野口教授の考え方の中には、日本経済が、いまだに工業中心の産業国家であって、ダニエル・ベルがもう何十年も前に説いていた脱工業化社会への経済社会の脱皮・転換に成功していないことこそが、根本的な問題だと言う認識がある。
   脱工業化とは、高度なサービス産業への移行であり、それを支えるための高度な知的活動が必要なのだが、経済産業構造においても、ICTや金融革命がベースとなるべきところが、日本は、この方面でも、欧米に大きく後れを取っており、未発展の段階にある。
   このダニエル・ベルの「脱工業化社会の到来」は、私がウォートン・スクールにいた時に、出版されたので愛読書の一冊だが、トフラーの「第三の波」や堺屋太一の知価革命などはずっと後で、知識情報に比重を置いた方向に進展して行ったが、このPost-Industirial Societyと言う経済産業構造の変化と言う本来の形で捉えるべきであったのかも知れない。

   今回の世界的な金融危機で、最も経済的ダメッジが大きいのは、金融危機の被害をもろに受けた欧米ではなく、貿易に大きく依存している日本で、金融業中心国で危機が生じて輸入が激減すると、一挙に製造業の生産を激減させて、GDPの激しい落ち込みを引き起こす。
   金融業中心で豊かになった国は、輸入によって豊かな生活をしていたのだが、その輸入は輸出国からの借り入れ、すなわち、「ベンダー・ファイナンス」で賄って来ており、対外資産の面では純債務国であるが、資金還流による低金利でコストが低く、金融革新で膨大な利益を叩き出していたので、所得収支はプラスであった。
   金融危機で割を食って損な役回りをしたのは、輸出激減で被害を受けた工業立国の方で、外需依存成長モデルの破綻でもある。

   野口教授は、失われた20年は、一般的に言われているように、高齢化や少子化、バブル崩壊によるデフレなどの結果ではなく、基本的な原因は、90年代以降の世界経済の大変化に、日本が対応できなかったことにあると言う。
   第一に、冷戦終結と中国の工業化と言う大変化(日本にとっては製造業の労働力の増加)、第二に、金融とIT面での大きな変化、第三に、新しいグローバリゼーション、などの大変化に有効に対応できなかった。特に、「21世紀型のグローバリゼーション」に対しては、日本は、ほぼ鎖国状態を続けて、経済社会、産業構造等の変革をミスって、完全に遅れてしまった。
   「変革」に対する消極的な空気が一般化し、とりわけ深刻だったのは、未来志向で推進力となる筈の企業が変革の意欲を失い、ビジネスモデルの継続に汲々として企業の存続のみに明け暮れた。
   年功序列的な組織構造のため、過去に成功した人が決定権を握り、激変する世界の中で、変革を拒否し続けたと言うのである。

   それでは、このような深刻な事態に、日本はどう対応すべきであろうか。野口教授は、3つの提言をしている。
   第一に必要なのは、古いものの生き残りや現状維持に支援を与えないこと。
   この点は、ドラッカーも強調していた点で、古いものが残っておれば、新しいものが生まれる余地がないばかりか、変革へのインセンティブを圧殺してしまうのである。
   第二に必要なのは、21世紀型のグローバリゼーションを実現すること。
   変革を引き起こすためには、海外からの刺激が最も有効で、資本、人的資源の両面において、日本を海外に開く必要がある。
   第三に必要なことは、教育、特に、専門分野での高等教育の拡充をはかること。
   ここで、中谷教授の指摘で興味深いのは、「中国の前を歩く」ことが必須で、日本人の能力を高める必要があり、教育こそが最大の投資だと言う。
   
   私自身は、日本人自身の意識革命が一番大切だと思っている。危機意識と問題意識の欠如は目を覆うばかりである。
   早い話が、3日の文化の日の夜のNHKニュースのトップが、早慶戦の長い放送で、それもお祭り騒ぎ一色であり、民放に至っては延々と報道し続けており、国際情勢のみならず、日本の運命を大きく変えて行く筈のアメリカの中間選挙の関連報道など殆ど影が薄く、中国やソ連との領土問題で日本外交と日本の国威が試練に立っているにも拘わらず、あるいは、大切な機密文書漏洩問題が世界中を駆け回っているにも拘わらず、これらの報道はホンのなおざりであったことからも分かると言うもの。
   メディアの意識の低さか、それを喜ぶ国民の民度の低さか分からないが、私が在住していたアメリカやイギリス、オランダなどでは、もう少し、問題意識が大人であったような気がしている。
   
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ビル・タンサー著「クリック!」~「指先」が引き寄せるメガ・チャンス

2010年11月02日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   ネットユーザーが、パソコンをクリックしながら匿名でインターネットを通じて総てを語っているので、この膨大な数の日常的なネット行動に関する「匿名の資料」を分析することによって、行動の一つ一つを残らず検証さえすれば、「我々自身が何者であるのか」「我々が何を考えているのか」、気味の悪いほど明確な実像が、まるでドミノを倒すように次から次へと明らかになる。
   このことを確信して、インターネット情報を徹底的に分析してトレンド予測をすることで一世を風靡したビル・タンサーが、科学的なマーケティングのあるべき姿を説き、データベースに眠る金脈を掘り起こすことを進めているのが、この本「クリック!」である。
   原書のサブタイトルが、「何百万もの人々が、オンラインで何をして、何故それが重要なのか」と言うのだが、和訳本の副題「指先が引き寄せるメガ・チャンス」とは、「トレンド予測の伝道師」たる著者の意図を言い得て実に妙である。
   しかし、この金脈を掘り起こすこと、すなわち、ネットユーザーが匿名ですべてを語るデータを如何に読み解くのかが至難の業で、その泣き笑いの経験を紹介しながら、自分で習得したテクニックなどを開陳している。

   私が興味を持ったのは、イノベーションと同じで、その新しいトレンドをキャッチして先導して行くトレンドセッターとも言うべきイニシエイターが、誰なのか、そして、そのトレンドがどのようにして普及発展して行くのかと言うことである。
   これに対して、タンサ―は、エベレット・ロジャーズの「イノベーションの広がり」説を踏襲しながら、インターネットでも、同じ傾向が表れていることを、色々な形で検証しており、非常に興味深く読んだ。

   ロジャーズが、テクノロジーが市場化されてからの時間経過と、それを採用する人たちの分布をプロットしてみると、その曲線は釣鐘状になっていたので、この曲線からテクノロジーの広がりの特性を検証して、キーとなる5つのセグメントに分類した。
   曲線の一番左端から、「イノベーター」「アーリーアダプター(物好き)」「アーリーマジョリティ(いち早く後を追うその他大勢)」、曲線はここで頂点に達して以降は下降して行く、「レートマジョリティ(のんびりと後を追うその他大勢)」「ラガード(無関心派)」であり、この中でも、最初の2つのセグメントが重要な働きをする。
   イノベーターは、新しいアイデアをキャッチして市場に導入するのに決定的な役割を果たすのだが、宣伝広告のターゲットとしてマーケティングで注視すべきは「アーリーアダプター」で、新しい商品を「将来性のあるイノベーション」の存在から、実際に世に広く普及する存在に仕立て上げる立役者であり、殆どのケースで、企業にとって最高のオピニオンリーダーになると言うのである。
   「イノベーター」には、ある特定の市場にどんな製品やテクノロジーが有効なのかを先読みする能力があるのに対して、「アーリーアダプター」は、後から新技術を受け入れる大多数の人たちの目と耳を持ちながら、市場でのその技術の普及に影響を及ぼす力を持っているのである。
   
   それでは、このアーリーアダプターをどうして探し出すのか。
   ユーチューブの爆発的普及とも関連するのだが、ユーチューブで何か面白い動画を見たあと、その動画へのリンクをメールで送信して、このサイトの噂をあっという間に広がると言った現象などから、タンサ―は、SNS→eメール→グーグルの順でブームが起こると言う。
   SNSからアクセスする「イノベーター」、メールで面白い動画クリップの存在を教えあう「アーリーアダプター」、そして特定の動画クリップを検索する「アーリーマジョリティ」による、新しいオンライン・テクノロジーの普及が視覚化できると言うのである。

   ユーチューブにアクセスするユーザーを、PRIZMと言う分類法によって抽出すると、一般的に娯楽やテクノロジーの「アーリーアダプター」と定義できる人たちは、所謂、「ボヘミアン・ミックス」で、「もっともリベラルなライフスタイルを楽しむ上昇志向の強い都市生活者で、現代的な住宅に住み、ニュースをネットで読み、ネット上のギャンブルが好きで、新しいテクノロジーに飛びつき、ファッションやライフスタイルの世界の流行の仕掛け人である傾向が強い」と言う。
   これに、都市生活者で、富裕で社会的に地位が高く、法律、医療あるいは経営的な仕事についている「カネと頭脳」のセグメントと、インターネットを使ってできることを「さらに活かす」ことに興味を持っている「若きデジタルエリート」を加えれば、マーケターがターゲットとすべき「アーリーアダプター」像は完結する。

   タンサ―は、マーケティング手法としてのトレンド予測として、インターネットで蓄積されている膨大なデータが、如何に貴重な金脈であるかを説いているのだが、私は、タンサ―の理論を活用して、イノベーターやアーリーアダプターを、インターネットを通じて如何に経営全体に取り込んで、経営戦略を革新して行くのか、を考えて行くことが、ICT革命時代の経営のあるべき姿であると思っている。 
   その意味でも、私は、このブログで、オープンイノベーションをアメリカ型イノベーションの幻想だと切り捨てている伊丹敬之教授の「イノベーションを興す」を、時代錯誤だと叩いたのであり、ICT革命が何たるかを理解しなければ、経営学など全く意味をなさないと思っている。
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