熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

萬狂言・・・「萩大名」「栗燒」「業平餅」

2012年10月09日 | 能・狂言
   四季ごとに開かれる萬狂言秋公演が国立能楽堂で行われた。
   今回は、ファミリー狂言の方は失礼したのだが、やはり、狂言の素晴らしい舞台を3曲、じっくりと鑑賞すると、結構、狂言の重さを感じて感激する。

   シテ/太郎冠者・野村萬、アド/主・野村扇丞の「栗燒」は、先月、国立能楽堂の定期公演で観ているので、再び、野村萬の正に一人舞台で独壇場の至芸とも言うべき舞台に接して、感激を新たにした。
   この「栗燒」は、萬の太郎冠者が、栗を焼いたり栗を食べる姿が秀逸。
   台所で扇子を使って器用に炭火を起して栗を投げ入れ、ポンと跳ねるので、芽をかいてまた投げ入れ、焼けると、「熱や、熱や」と耳に手を当てながら這う這うの体で栗を拾い上げて、吹いて冷まして両手でかき寄せて揉んで皮を剥く。客に風味を聞かれて応えなければ恥だと小さな栗を食べるのだが、美味しくて止められずに40個全部食べてしまう。
   面白いのは、食べてしまった言訳で、竃の神夫婦と公達34人が出て来たので、栗を与えて主の富貴栄華を願ったと、謡いながら仕方舞で答えるのだが、残りの4つについては、一つは虫食い、残りは、逃げ栗・追ひ栗・灰紛れで失せたと言って、おはずかしう候と謝る。
   これだけ、しっかりした太郎冠者の素晴らしい演技と舞、それに、機知にとんだ話術の冴えを鑑賞してみると、少し、狂言観が変わってきたような気がする。

   もう一つ、印象が変わったのは、最後の「業平餅」で、狂言の登場人物は、太郎冠者を筆頭に、大名にしろ山伏にしろ僧侶にしろ、はっきりしない人物が普通なのだが、この舞台には、実在の在原業平が、随身たちを引き連れて登場するのである。
   業平(万禄)が、玉津島神社へ参詣の途中、名物の餅を売っているのを見て、どうしても食べたいのだが、身分が高くてお金などを持ち合せていない。餅屋(小笠原匡)が、三宝に載せた餅を差し出すので、誰にでも与えるのかと聞くと、おあし(銭)を頂ければと言うので、足を出し、その足ではなく、料足だと言うと、両足を出す。餅屋が、鳥目だと言うので、そんなさもしいものは持たんと言って、餅代として歌を詠んでやると言って、餅のめでたい物語を聞かせ、餅尽くしを謡い舞うのだが、餅屋は、あくまで代金を要求して、餅が食えずため息をつく。
   名前を聞いて、業平だと知った餅屋は、自分の娘(吉住講)を宮使いさせてくれれば、と言って娘を呼びに行っている間に、業平は、夢中で餅を頬張る。業平は、被き姿の女を気にって妻に迎えるのだが、無理に、被きを取ってみると、(乙の面をつけた)ブス女に仰天。居眠りをしていた傘持ち(炭哲男)を叩き起こして、嫁を紹介すると押し付ける。二人で押し付け合いして逃げる後を、業平にゾッコンの娘が追いかけて幕。
   業平の万禄は、嫋やかでノーブルなキャラクターを実に大らかに上手く演じていた。
   「妙音へのへの物語」で今出川中納言を演じた逸平の平安貴族が実に良かったので、逸平の業平も是非に観たいと思っている。

   旱魃で困っていた時に、小野小町が歌を詠んだら雨が降り、褒美に餅を貰ったので、それから、餅を、「かちん(歌賃)」と言うのだと、 業平が、学のあるところを謡って説明してみても、教養のない餅屋には、何のことか分からないし、おあしを足と勘違いする業平も業平だが、とにかく、知的水準と生活空間、価値観の差を、笑い飛ばす狂言のアヤが実に面白い。
   ところで、餅屋も、業平が、好色で有名だと言うことだけは知っていて、餅代の比ではないのだが、娘を差し出すあたりの計算高さも興味深いが、業平のいい加減さも、如何にも大らかで良い。
   業平一行は、それなりに、衣装を着けた井出達で、舞台が華やかになって、シンプルな狂言の舞台とは、一寸、違った雰囲気であった。

   さて、この口絵写真は、当日の国立能楽堂の中庭の宮城野萩で、穂を開いた薄をバックにして、一株こんもり咲いていて、緑一色の庭に映えて、中々風情があって良かった。
   狂言の代表曲とも言うべき「萩大名」には、非常に似つかわしいセッティングである。

   この「萩大名」は、遠国の大名(万蔵)が、京都での訴訟を無事に終えて帰国前の遊山に、太郎冠者(野村太一郎)の勧めで、清水坂のとある茶屋で、咲き誇る萩を鑑賞することになるのだが、茶屋の亭主(祐丞)に必ず、当座(その場で即興で歌を詠む)を求められるので、教養のない大名は、太郎冠者に歌を教えて貰って出かけるのだが、散々失敗して恥をかく話である。
   庭に着いて、庭を褒める話から、教養のなさを暴露し、傍で助け船を出しても教えた歌がまともに詠めないので、怒った太郎冠者はさっさと退場してしまい、助け船を失ってしまった大名は、最後の句が詠めない。
   詠まねば帰さぬと亭主に引き回された大名は、「太郎冠者が、向こうずね」と詠んで、亭主に叱られて、「面目もおりない」で幕。

   万蔵の大名は、中々、大らかで、一寸、モダンな香りのするユーモアの味があって面白かったし、太一郎の太郎冠者は、若さあふれる一直線のストレートな演技が良かったし、祐丞は、正に、ベテランの味。
   岩波の「三人三様」の萬斎の巻で、千作が、武骨で人の良い無風流なと、大名を表現しているのだが、千作の大名は、是非見たかったと思っている。

   大名が、見所を庭に見立てて、見まわしながら、木や石などの状況を語り始めるのだが、私は、京都の古社寺の庭園を思い出していた。
   勿論、この曲の茶屋や料亭にも、大きくて綺麗な庭園があるのだが、ここしばらく京都には行っていないので、懐かしくなったのである。
   
   
   
   
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地方の地元書店の書棚

2012年10月08日 | 生活随想・趣味
   書店を回るのは、大概、東京駅近辺や神田神保町などの大型書店だが、時々、地元の書店に出かける。
   地方も、昔からの地元の書店は殆ど消えてしまって、今では、大半、全国展開書店のチェーン店なのだが、それでも、当然、地元のニーズに合った品ぞろえやディスプレイに心掛けているので、大分、都会のとは雰囲気が違っている。

   この口絵写真は、駅前ショッピング・ビル内の書店の特設コーナーで、やはり、最近のカレント・トピックス関連の本がディスプレイされている。
   尖閣諸島と竹島関連、そして、中国と韓国に関する本は当然として、石原慎太郎、橋下徹、安倍晋三、何故か、岸信介、それに、日本経済や金儲け関連本etc.
   私の興味があったのは、トーマス・フリードマンほかの「かっての超大国アメリカ」と言う本だけで、その他は、全く食指が動かなかった。

   私は、本に対しても、刀の目利きが弟子を育てる時には、本物しか見せないと言った趣旨を守っていて、ハウツー本や、時流に乗った解説本や、大衆迎合型の本などは、読まないようにしていて、同じ中国に関する知識や情報が欲しければ、今、店頭に並んでいる本などではなくて、スーザン・L・シャークの「中国 危うい大国」、ピーター・ナヴァロの「中国は世界に復讐する」、ティエリー・ウォルトンの「中国の仮面資本主義」や呉軍華の「中国 静かな革命」など、学者や著名ジャーナリストの著した一寸専門書に近い中国関連本を結構沢山持っているので、それを読み返したりしており、これが、時流を正確にキャッチする正攻法だと思っている。
   急がば回れで、遠回りしてでも、出来るだけ、自分が納得いくような中国論なり中国観を持ってから、カレント・トピックスは考えるべきだと思っているのである。

   不足分は、NHK BS1の世界ニュース、ニューヨーク・タイムズやThe Economistなどのメディアの電子版で補っており、最近では、インターネットを叩けば、いくらでも新鮮で生きの良い情報や知識が入って来るので、全く、不自由はしない。
   尤も、それでも、結構、先入観なり固定観念が強すぎるのか、間違うことが多いのだが、それは、すべて自分持ちである。

   ところで、地元の書店で好都合なのは、店舗の規模が小さいので、夫々のジャンルの本のコーナーが小さくて、すぐに一覧出来て、最近の出版物が瞬時に分かることである。
   丸善や三省堂など大型店に行けば、沢山本が並んでいて良いように思うのだが、大体、売れ筋の本とか、顧客が興味を持ちそうな本ばかりを、特設コーナーにディスプレイしたり、メインの書棚に平積みしたりしており、分かり切った本などを見に書店に行くわけではないので、全く、役には立たない。
   むしろ、地元の書店や古書店の新古書コーナーの方が、小規模なだけに、紛れ込んでいる素晴らしい本が探せて、一本釣り出来ることが多くて、幸いしている。
   私が、ブックレビューしている本の大半は、大型書店では、一冊くらい書棚の片隅に並んでいるくらいで、正にロングテールなのであろうが、このような本に限って、古書店の新古書として並んでいることが多く、すぐに目につくので取得し易いのである。 

   この日、書店で買った本は、結局、「梅原猛の授業 能を観る」1冊だけ。
   私は、かなり、書店では時間を過ごすのだが、あまり本の中身を確かめることもないし、立ち読みすることなどは殆どなく、何か、素晴らしい本が出ていないか、だけを楽しみに出かけて行くようなものである。
   読みたければ本を買って帰るのだが、この頃は、書店とアマゾンが半々くらいになった。
   読む本の間口が狭くなったと言うか、読みたいと思う本が定まって来たと言うか、脇目を振っている時間が短くなってきたと言うことなのかも知れないと思っている。

   さて、前述したフリードマンの「かっての超大国アメリカ」だが、価格は2520円。
   原書は、アマゾンで買えば、2072円。
   ところが、アマゾンに、出店している最も安い店で買えば、原書でも、送料込みで、1194円。
   この店は、カナダから配送するようだが、前に、The EconomistのMEGACHANGE The World in 2050を買った時には、イギリスからの配送で、2週間弱で着いた。
   どうせ読むなら原書の方が良いので、私は、このフリードマンの本も、原書で注文した。
   今や、円高で、日本の本が異常高となっていると言うことで、これでは、知の世界でも、グローバル競争に負けると言うことである。
   
   
   
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スペイン:経済危機深刻、今様ロビン・フッドの登場

2012年10月07日 | 政治・経済・社会
   先日、読売新聞に、「スペインで村長が略奪を指揮、貧者の「英雄」に」と言う記事が掲載された。
   債務危機が深刻なスペインで、ラホイ政権の緊縮政策に対する地方の反発が強まって、南部アンダルシア州では、住民の先頭に立って略奪を指揮する村長まで現れ、失業者ら十数人を率いて州内のスーパーを襲撃し、略奪したコメや缶詰をセビリアで貧困家庭に配った。
   村長は事件で全国的な注目を集め、貴族から奪った物を貧者に分け与えた中世イングランドの伝説にちなんで「現代のロビン・フッド」(エル・パイス紙)とも呼ばれた。事件後も毎週、州内を仲間とデモ行進し、銀行で座り込みを行った。と言うのである。

   スペインの失業率は欧州連合(EU)で最悪の25%だが、アンダルシアでは実に34%に達しており、若者の失業率は、スペイン全土で53%だと言うから、新卒者たちは、殆ど就職できないと言うことである。
   NHK BS1のワールドWAVEを見ていると、連日、スペインの危機的な財政悪化と国民の激しいデモを報じており、先日も、中銀総裁が、赤字はもっと深刻で政府の財政目標など達成不可能だと明言していたし、経済状況は、益々悪化の一途を辿っていると言う。

   不動産バブルに浮かれに浮かれて破綻して窮地に追い込まれてしまったスペイン経済に対して、政府は、EUに穴埋め借金を頼む以外に何の有効な経済戦略もなく、殆ど経済成長から見放されてしまった上に、更に、財政支出を削減して経済成長の芽を摘み、国民生活を圧迫しようとしているのだから、状況を好転させる術など殆ど考えられない。
   EU危機の発端となったギリシャも同様に、元々経済成長余力さえ乏しい上に、あらゆる経済政策の不備と対策が後手後手に回って、燭光さえ見える気配がないようだが、恐らく、ドイツが国運を堵してでもEUを死守する気概を起さない限り、解決は不可能で、現状維持は、問題の先延ばしに過ぎず、益々、EUの経済危機は、深さを増して行くであろう。

   ところで、スペインのもっと深刻な危機は、FTが社説で論じた「スペインに迫る分裂の危機」であろう。
   150万人にも及ぶカタルーニャ市民が「カタルーニャ、欧州の新たな国家」というスローガンを掲げてバルセロナの街頭に結集し、カタルーニャ自治州での分離独立熱の爆発が劇的に示した新展開である。
   原因の一端はユーロ圏の危機にあり、危機はスペイン財政の仕組みのもろさを容赦なく暴いた。比較的豊かなカタルーニャは、年間経済生産の9%をマドリードの中央政府に差し出さねばならないのに、自分たちの債務や給料の支払い義務を果たすために中央に救済を懇願したにも拘わらず拒否されたためで、カタルーニャは、スペインの国庫に拠出する資金の割合がずっと小さいバスクのように、独自の税金を徴収する権利など財政の自治権を求めており、独立への地歩を築こうとしている。

   だが、ラホイ首相がユーロ圏に全面救済を要請すべきか否かで苦しむスペインには、国の年金・福祉債務の履行にカタルーニャからの財政移転が必要であり、ラホイ首相率いる右派の国民党政権は地方分権に反対の立場で、危機に乗じてスペインを再び中央集権化しようと図り、財政の窮乏と国民の不満が入り交じる危険な状況を招いている。
   スペインには、以前から、バスクとカタルーニャには独立意識が鬱積しており、一方、彼らのアイデンティティーを自己愛と見下しスペインの統一を神聖視するスペインの国家主義者との対立が一挙に噴出したと言うことであろう。

   さて、私が言いたいのは、日本が、ギリシャやスペインと殆ど同じ道を辿っていて、あとは、時間の問題だけだと言うことである。
   少子高齢化に加えて、人口が減少する一方で、飽和状態に近い消費の拡大は望み薄であり、成熟化した日本経済は、これ以上の成長を望めないとすると、世界経済の平均成長率が4%以上と言われているので、それ以上の成長率を達成出来なければ、日本は、益々貧しくなって行く。
   深刻で巨大な国家債務を解消するためには、経済成長による税収の増加か、増税するか、支出削減するか以外に道がないのだが、経済成長が望めなければ、増税でも支出削減でも、有効需要を減少させるだけなので、益々、日本経済は縮小均衡の道を辿って貧しくなって行く。
   異常な国家債務が、何時か、ターゲットになって、国債の暴落や異常な為替変動などで日本経済が危機的な状態に陥ったとしたら、その時は、国債の過半は日本人の保有なので、新円切り替えや金融資産凍結など色々な徳政令を敷いて、借金棒引きで償却すると言うことであろうか。
   金融の知識が乏しいので良く分からないが、益々悪化しつつある異常な国家債務の解消などは、もうとっくに、不可能となってしまっていることだけは、事実であろうと思っている。
   


   

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芸術祭十月大歌舞伎・・・幸四郎・弁慶と團十郎・富樫の「勧進帳」

2012年10月05日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今月の新橋演舞場の歌舞伎の目玉は、何と言っても、昼夜、幸四郎と團十郎が入れ替わって弁慶と富樫を演じ分ける勧進帳であろう。
   私が観たのは夜の部で、幸四郎が弁慶、團十郎が富樫の舞台であった。
   これまで、弁慶だけでも、團十郎、幸四郎、吉右衛門、仁左衛門、橋之介、それに、文楽で、勘十郎と、随分、勧進帳の舞台を観ており、折々に、このブログで感想文を書き続けているので、今回は、富樫が、いつ、弁慶たちを、問題の義経一行と気付いたのか、この点に焦点を絞って、考えてみたいと思っている。

   私は、3年前に、幸四郎と吉右衛門の勧進帳観劇記に、
   初めて対面した当初から、富樫は、義経一行だと思っていて、何時、弁慶たちがボロを出して、見破ることが出来るのか、その為に、詮議を進めたのであろうと、次のように書いたことがあるが、今も殆ど同じ考えである。
   吉右衛門が、「中村吉右衛門の歌舞伎ワールド」で、この武蔵坊弁慶を解説していて、
   ”白紙の巻物を手に、難解な勧進文を堂々と暗誦してピンチを脱すると言う、ここにこそ弁慶と言う男の真骨頂がある。無から有を生み、不可能を可能にする。それを実現せしめたのは、主君・義経を何としてしても守り抜く気迫と信念でしょう。”
   このことを考えれば、富樫は、当初から義経一行を見破っており、従って、偽勧進帳が如何なる物かと言うのが富樫の最大の関心事であり、白紙巻物を読む弁慶の手元を覗き込む富樫の視線をとっさに隠す「天地の見得」の段階では、白紙だと分かってしまったと解釈した方が、素直であり、その後の、富樫の詮議が熾烈を極めれば窮めるほど、逆に、富樫の弁慶への心の傾斜が理解出来る。
   事実、幸四郎弁慶も、巻物を巻きながら読む仕種など全くしていない。
   それに、僧として修行を積んだ荒法師の弁慶には、山伏問答など、素人の富樫とは格段の知識の差があり、最初から勝負が着いている。
   山伏問答までは、弁慶に対して非常に気迫の篭った対応をするが、番卒の耳打ちにはそれなりのきりっとした対応を示すものの、その後の富樫の心は非常に澄み切っており、富樫・吉右衛門は、泰然自若とした姿で殆ど無表情で押し通して、本当の主従の強い絆を眼前にして感動さえ覚えながら富樫の運命を噛み締めている風情であった。
   自害を覚悟して義経一行を送り出す富樫こそが、この世との別れを噛み締めており、義経たちの悲壮感との対極にある。

   市川團十郎も、私のニュアンスとは大分違うが、「團十郎の歌舞伎案内」で、「富樫はいつ義経が本物だと気づくのか?」と設問して、「わたくしはもうはなっから、「あの強力は義経ではないか」と疑っているのだと思います。本物かどうかは、弁慶を見れば、その問答のなかでわかるはずなんですよね。これほどの人物がそばにいるということは、只者であるわけがない。でも富樫は家来の手前、義経だと知ってか知らずかの顔をせざるをえないわけです。」と書いている。
   「大事なのは、富樫は問答の時点で、最初から弁慶という堂々たる偉丈夫の存在を通して、義経に気づいているべきだと、わたくしは思っております。」とも言っており、「ですから、「かかる尊き客僧を、暫時も疑い申せしは、目あって無きが如き我が不念」といって、「こいつはすごいや、参った」と感心するところに富樫の真実があるんですよ。」とも言っている。
   ついでながら、私などは、弁慶や富樫ばかりを見ているが、團十郎は、山川静夫さんと同じように、この狂言の主人公は、義経だと書いている。今回の義経は、人間国宝の藤十郎であったが、これまで、芝翫、玉三郎、梅玉、染五郎の義経を見ているのだが、流石に名優ぞろいである。

   ところで、この「勧進帳」は、能「安宅」の劇場版と言ったところだが、筋は殆ど同じながら、歌舞伎では弁慶と富樫が丁々発止で演じる迫力ある山伏問答が追加されているようで、能にはないと言う。
   私は、残念ながら、「安宅」をまだ観たことがないので何とも言えないのだが、富樫を演じれば最高峰だと言われているワキ方の人間国宝宝生閑が、「幻視の座」で非常に興味深い話をしているので、他の能楽関係の本なども参考にして、能楽での富樫像について、一寸、触れておきたいと思う。
   
   「宝生新自伝」に、「安宅」は、情けによって義経主従を通すというやり方は駄目だと書いてあるのを受けて、宝生閑は、
   「能というのはそういうつくり方をしていない。能では富樫がこの山伏は弁慶だと知ってしまったら、どうしても弱くなってしまう。・・・能では、弁慶一人が何でもやっちゃうわけだから、そこで富樫が迷ったりするところを見せちゃうと芯が通らなくなってくる。」と言っている。
   また、新(閑の祖父)時代には、強引に力で押すシテばかりで、義経主従ではないと言う路線を貫き通すシテが多かったわけで、ワキの富樫が情けで通しては拮抗できないから駄目だと言ったのだと付け加えている。

   この点については、梅原猛は、
   「梅原猛の授業・能を観る」のなかで、歌舞伎の「勧進帳」は、重い笈を背負った「強力」が義経だと知っていて、激しく打擲しながらも主を守ろうとする弁慶の忠誠に感動して見逃すと言う、富樫の表と裏の心の動きを表しているが、能「安宅」は、表と裏、すなわち、義理と人情の対立ではなく、弁慶の一途な気持ちをひたすら強調している。
   歌舞伎では、富樫は、はっきり情の人だが、能ではそのあたりの表現は曖昧で、どちらかと言うと、最後まで富樫対弁慶という「対立構造」を保ちつつ、「緊張感」を保ったまま幕となる、と書いている。

   さて、宝生閑の富樫像だが、強引に押し通ろうとするシテもあれば、お願いだから通してと言うシテもあり、また、同じシテでも、あるところは強引に、あるところでは実は通して!と言う部分が見えてくる場合があるので、作品は、シテとの関係で動いて行く可動体であると言うことのようである。
   シテによって違って来るので、ワキは非常にやり難く、知ってて通すか、知らないで通すか、決めなくちゃならない。それに僕は、富樫は関守をやりたくはなかったんじゃないかと思っている。とまで言っている。

   興味深いのは、二度目に酒を振る舞いに出て来る時、どういう気持ちで出て来るのかと聞かれて、「二度目に出る時は、あとの無事を祈ってだね。つまり富樫は弁慶に心酔いちゃっうってことじゃないかな。」「勧進帳の読み上げもそうだし、ちゃんとした水準の教養を持って通ろうとしている、と言う世界が分かるわけだよ。」と答えていることである。
   團十郎が、弁慶が只者ではない知勇に長けた偉丈夫だと言っているのと同じで、この舞台は、弁慶の凄さをもサブテーマにしたものであると言うことなのであろうが、要するに、宝生閑のワキ/弁慶も、この俄山伏たちを、間接的ながらも、義経一行だと認めていると言うことであろう。


   シテ方弁慶側の「安宅」だが、観世銕之丞が、「能のちから」の中で、「最大のピンチだからこそ露呈する人間の本質」と言う表現で、弁慶の危機を乗り越えて行く意志の強さ、窮地に立たされれば立たされるほど腹を括って冷静に醒めて行く弁慶を、プロセスを追いながら、弁慶の目的、弁慶にとって大切なものを示そうとしており、それをみんなが見たがっているのだと言う。
   義経を、とにかく、守ろうと言う思いが主なので、義経が子方であることが、子供は守るべきだと言う思いと子方の義経への思いが重なって、幸いだとも言っているが、相方のワキ/弁慶については言及していない。
   

   一方、観世清和宗家は、「一期初心」で、「安宅」の心理劇と言うところで、
   「安宅」は、(勧進帳と違って)偽山伏がひとつ間違えば全員首をとられるという状況のもと、気迫で圧倒し押し通ってゆく力の舞台で、ぴんと張りつめた心理劇で、富樫の届けた酒を煽って勇壮な舞を舞うが、一刻も早く立ち去りたい心境で、「虎の尾を踏み、毒蛇の口を、逃れたる心地して、陸奥の国へと下りける」と言う終曲が信実。
   しかし、富樫は、山伏の一行が到着した時から、それが義経一行であることを見破っており、元々、禅問答を好むような教養人である富樫は、弁慶の読み上げる勧進帳もおかしいことにも気が付いており、部下が強力の義経を見咎めても、「心得てある」と答えるに過ぎない。一方、弁慶の方も、見破らていることに気付いており、山伏として懸命に勤行して、勧進帳も読んだのだから、富樫よ通せと言う心境。
   お互いに相手の心を読みながら、もうこの先は刀を抜いて切り合うしかないと言うギリギリのところでぶつかり合っている。表舞台で派手なやり取りがあり、裏でもう一つのドラマが展開する、この二重構造が「安宅」の特徴であり、演者にとっての醍醐味だと語っている。 

   演者によって、識者によって、思いはまちまちだが、この観世清和説が、この「安宅」、そして、「勧進帳」の本質だと思っている。 
   実際には、歌舞伎の筋書きのような経緯であったようで、富樫泰家は、頼朝の不興を買って守護職を解かれて出家し、その後奥州に至って義経に再会したと言われている。

   ところで、肝心の舞台の「勧進帳」であるが、1000数十回も弁慶を演じ続けている幸四郎の弁慶であり、お家の藝である團十郎の富樫であり、人間国宝で最高峰の歌舞伎界の至宝である藤十郎の義経であり、他に、可愛い太刀持ちの金太郎、そして、友右衛門、翫雀、高麗蔵、錦吾と言う錚々たる巧者の登場している舞台であるから、素晴らしいのは当たり前で、蛇足に過ぎるので、観劇記は端折ることにする。
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手紙に自分の住所を書かないイギリス

2012年10月04日 | 生活随想・趣味
   電話帳や住所録などをなくしてしまって、友人知人の電話番号が、分からなくなったら、どうするか。

   もう、随分前になるのだが、イギリスに住んでいて、カルチュア・ショックを感じたのは、イギリス人は、手紙を出す時に、封書に、自分の住所や名前を一切書くことはないし、電話を掛けても、自分たちの名前を名乗らずに、自分の電話番号を言って応えることであった。
   プライバシーの保護と言うか、個人情報の徹底的管理と言うのか、あるいは、それ程、イギリスが危険な国であるのか、とにかく、日本人の私には、考えられないことであった。
   蛇足ながら、それ程、ブリティッシュ・メールは、信頼されている郵便システムだと言うことを付記しておきたい。

   当時、日本では、年賀状を見れば、住所や電話番号など細かいことまで書いてあったし、手紙やはがきを通して、出来るだけ個人情報を伝えようとして、表面に必要のないようなことまで書いてあった。
   今でも、電話番号やメール・アドレスなど細かい情報を書いたハンコを押して送ってくる知人もいる。
   ところが、様変わりで、最近では、私も、住所と名前だけは書くが、それ以外は、書かないようにしている。

   電話だが、ハローの声で相手が分かっていると思える場合でも、イギリス人は、絶対に名前を名乗らずに、今掛けた電話番号を繰り返すので、実に機械的無機的で、その瞬間に、味気なくなってしまうので、面白くなかったが、これが、イギリス流である。
   
   さて、問題は、今の日本も、個人情報の保護とかで、住所録を何かの拍子に失ってしまったり、パソコンの住所録を間違って消してしまったりして、知人の住所や電話番号をなくしてしまうと、昔では、年賀状を見れば分かったが、今では、どうすれば良いのか、はたと、困る。
   会社や知人の属している組織などに電話して、電話番号を聞き出そうとしても、個人情報の保護とかで、一切教えてくれないし、四苦八苦しないと、中々分からない。
   住所が分かっても、まず、電話番号簿に登録している人が少なくなったので、まず、ヒツウチの電話番号は、NTTでも教えてくれない。

   日本の場合には、一気に極端に走る傾向が強いので、個人情報保護法が施行されると、急に個人情報を得辛くなってしまった。
   昔なら、会社などに電話すれば、簡単に、教えてくれたが、今では、自分の居た会社でさえ、同僚だった知人の電話番号さえ教えてくれないケースがあるなど、とにかく、知人友人のコンタクト情報を、こまめに管理しておかないと、いざという時に困ることになる。
   嫌な時代になってしまったなあと思う。

   ところが、メールアドレスなど、すぐに漏洩してしまって、毎日、おかしなメールがどんどん入ってくる。
   gooは、極端に酷いのだが、英語では、バイアグラなどの販売や悪徳ビジネス勧誘など多種多様だが、日本語では、無修正エログロDVD,意味深な女性名からの出会い系サイト、 CS・BSが半永久で無料で視聴可能な魔法のようなカードなどと言った、どうしようもないメールばかりで、ブロックしても迷惑フォルダをすり抜けて入ってくる。
   個人情報の保護などと言って、場違いな保護をすればするほど、個人情報の価値が高くなって商売になり、悪徳ビジネスばかりが蔓延る。
   これなどは、モグラ叩きの典型で、個人情報の保護も大切であろうが、このお蔭で、良き時代の日本の公序良俗まで失ってしまったようで寂しく感じるのは、歳の所為かも知れないとも思っている。
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イアン・ブレマー著「自由市場の終焉」

2012年10月03日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   フランシス・フクヤマが、ベルリンの壁やソ連の崩壊に接して、「歴史の終わり」において、民主主義・資本主義が最終的な勝利を収めたことで社会制度の発展が終わり、人類はあまねく自由民主主義の美徳を認める方向へ進むと、社会科学的論争やイデオロギー論争に最終的な決着がついたと宣言し、その後20年間に、中央や東欧、ラテン・アメリカ、インドネシア、南アフリカなど多くの国々が、代議制民主主義に進歩を遂げて行った。
   たしかに、多くは、資本主義化の道を辿って行ったが、
   EIUによると、民主化について調査対象の167か国の内、「完全な民主主義」は30か国で、「欠陥のある民主主義」は50か国、「民主主義と権威主義の混合」あるいは「権威主義」とされる国は87か国で、数十年にわたって世界的に民主化の潮流が続いた後、民主主義の広がりが止まってしまったと警鐘を鳴らしていると言う。

   しかし、現実には、ロシアや中国は、指令経済から自由市場経済への舵を切ったが、依然、権威主義政治が葬り去られたわけではなく、共産主義の凋落は、自由市場資本主義の勝利を意味してはいないのである。
   世界中の権威主義体制は、市場主導型の資本主義を受け入れて国際競争力を高めようと考えるようになったのだが、経済成長による優勝劣敗をもっぱら市場原理のなすがままに任せたなら、強大な経済力を手にした者によって権威主義体制が脅かされかねないことを憂慮した。
   したがって、権威主義体制は、「指令経済は破綻する運命にある」と悟りながら、自由市場の原則を徹底させた場合に、政府による抑制が利かなくなるのを恐れて、新しい仕組み考え出し、それが「国家資本主義」だと、イアン・ブレマーは言う。

   この仕組みのもとでは、政府は様々な種類の国営企業を使って、国にとって極めて貴重だと判断した資源の利用を管理したり、高水準の雇用を維持・創造したりする。選り抜きの民間企業を活用して、特定の経済セクターを支配する。政府系ファンドSWFを用いて余剰資金を投資に廻して国家財政を最大限に潤そうとする。これらの総ての手段を駆使して、国家は市場を通して富を創造して、上層部が相応しいと考える用途にその富を振り向ける。

   しかし、大元にある動機は、経済ではなく政治に関係したもので、国民の福利厚生を向上させるなどと言うのは副次的であり、経済を最大限に成長させることよりも、国力ひいては体制の権力を保ち、指導層が生き残る可能性を最大化することを目指している。
   尤も、この体制も、資本主義の一形態ではあるが、国家が経済主体として支配的な役割を果たしていて、あくまで政治面での利益を得るために市場を活用するものであって、欧米日の自由主義先進国とは似ても似つかない国家資本主義である。
   ところが、この国家資本主義が、中国、ロシア、サウジアラビアやアラブ首長国連邦などのアラブ君主国を筆頭にして、どんどん勢いを増して来て、自由市場資本主義の脅威となりつつあり、この国家資本主義に対してどのように戦うかが、我々の直面する極めて重要な課題である、と言うのが、プレマーの主張である。

   原書のタイトルが、The End of the Free Market: Who Wins the War Between States and Corporations ?なのだが、自由市場の終焉の(END)と言う単語に危機感が漂っていると言うば、言えないこともない。
   2008年金融危機に起因した世界的大不況によって、自由市場資本主義が、窮地に立って大きな転換点に直面した直後であった所為もあって、多少、弱気だが、先に”「Gゼロ」後の世界”で紹介した様に、アメリカさえしっかりすれば、世界秩序は、十分に維持できると言うのがブレマーの見解であるから、ENDなどとは努々思ってはいない。
   翻訳本では、最後の2章は、「世界が直面する難題」「難題への対処」となっているが、原書では、The Challenge, Meeting the Challengeとなっていて、ニュアンスは暗くなく、多少、細々とした対処法にも触れているが、いずれにしろ、自由市場資本主義を死守すべく、現下の経済不況を如何に乗り切って繁栄に導くかに、当面はこれにかかっていると説いている。

   ところで、先月末に、オバマ米大統領は、西部オレゴン州で風力発電所建設を計画する米企業4社を買収した中国系企業に対し、米国の安全保障にかかわるとして買収を認めず、全ての利権を手放すよう命じたように、以前のユノカル買収阻止と同様に、米国は、「安全保障」を理由に、国家資本主義国の企業のM&Aに神経過敏になって、買収阻止を続けている。
   これは、ブレマーの主張する自由市場原則に反しており、むしろ、このような愛国心に根差した反発が、SWFの投資意欲を阻害して、アメリカが次の発展段階へと導いてくれるはずの巨額資金に門戸を閉ざすこととなって、必要な時に頼る先がなくなってしまう心配の方が現実的で恐ろしいと言っている。
   ブレマーは、アメリカの軍事力が、中国のそれをはるかに凌駕しているので、中国は脅威ではないと論じているが、資金流入以前の問題として、現実的には、謂わば、アメリカは、膨大な財務省証券を保有する中国からの借金に頼りに頼って花見酒の経済を支えているのであるから、生殺与奪の権を中国に握られてしまっているといっても過言ではない。
   呑気なことを言っていると、賢くて初めて実質的に覇権を握ろうとする中国であるから、ひとたまりもなく、足を救われてしまう筈である。

   日本より国家債務の率が少ないギリシャやスペインが、経済的窮地に立って苦しんでいるのは、債務が殆ど外資に握られているからであろう。
   仮想敵国に、多くの債権を握られていながら安閑とし続けられるのは、流石に大国アメリカだからだと言えなくもなかろうが、中国からの借金地獄から解放されるのは、インフレとドルの暴落と言うアメリカ経済が壊滅的危機に遭遇した時かも知れないと思うと、この国家資本主義論の恐ろしさが実感として身近に迫って来て興味深い。
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CEATEC:幕張メッセから新橋演舞場

2012年10月02日 | 今日の日記
   今日、幕張メッセで、シーテック12が開幕した。
   我が国のIT・エレクトロニクス業界最大の展示会で、最先端技術などが紹介されるので、外国のメディアなども沢山詰めかけていて、盛会である。
   今回は、「SMART INNOVATION―豊かな暮らしと社会の創造」で、ITとエレクトロニクス関連のイノベーションを駆使してエネルギー効率の高いスマートな社会構築をターゲットにした展示に意欲的な企業が多かった。

   私は、まず最初に、ゲスト・スピーカーのサムスン・エレクトロニクスのハン・カプス専務の「未来型ヘルスケアIT技術における課題」を聴講するために、国際会議場に入った。竹島問題の余波か、会場は6割方の入りで、少しさびしい感じであったが、フロリダ大のPhDとかで、流暢な英語で、最新の問題意識など興味深い話を語って面白かった。
   

   その後、CEATEC展示場に入って、あっちこっちをハシゴして、2時過ぎに会場を離れたのだが、かなり、見学することが出来た。
   口絵写真は、トヨタの一人乗り小型の電気自動車のデモンストレーションだが、女性スタッフが運転台に座って口頭で指示を出せば、それに反応して色々な操作が出来る様子を実演していて、それを沢山のメディアが取材している様子である。
   結局、最早、自動車も、機械エンジン主体のメカニカルなものではなく、完全にITとエレクトロニクス機器に取って代わられてしまった走る電気機械になってしまったと言うことであろうか。

   今回は、家電企業なども、スマート・シティやスマート・タウン、或いは、スマート・ハウスなどスマート化に向けた企業活動に、かなり力を入れて展示をしていた感じである。
   この写真は、東芝のコミュニティエネルギー・マネジメント・システムの展示だが、コミュニティ単位で、エネルギーを見える化して効率を図ろうと言う試みだが、スマートグリッドとも相通じるコンセプトであるが、まだ、日本には、先日紹介したジェレミー・リフキンの、分散システムで各個別企業や各家庭が、分散型のグリーン・エネルギー発電所となって、第三次産業革命を起こすと言った発想はなさそうである。
   

   ところで、私の興味のあるオーディオ・ビジュアル関連展示は、派手なディスプレイの割には消極的で、昨年主流であった3Dなどは殆ど影を潜めていて、パソコンなども、タブレットなどの陰に隠れて殆ど見えなかった。
   ソニーのブースで、フルHDの4倍の解像度と迫力のあるサウンドの84V型4K対応の液晶テレビが展示されていて、確かに素晴らしいとは思ったが、40インチ程度の家庭用テレビが普通の庶民には、そのイノベーションがどれ程の意味があるのか、良く分からなかった。
   何時も思うのだが、ソニーは、このような技術深掘りの持続的イノベーションばかりに力を入れていては、ダメで、人をびっくりさせてワクワクさせるようなものを生み出さないと明日は暗い。
   

   2時半頃に、幕張本郷駅から東京に向かった。
   4時からの歌舞伎公演に間に合うように、新橋演舞場に向かったのだが、東京駅に着いたのが少し早かったので、運動不足解消のために歩くことにした。
   八重洲ブックセンターに寄りたかったのだが、時間が足らなかったので、銀座を通り抜けて、歌舞伎座の方に向かい、途中で、書店に立ち寄って、土屋恵一郎の宝生閑聞き書き「幻視の座」を買った。
   歌舞伎は、梅玉の「御所五郎蔵」と幸四郎と團十郎の「勧進帳」で、非常に面白かったが、染五郎休演の為か、かなり、空席が目立った。
   4時開演で、上演時間が短かったので、終演が7時45分と言うことで随分早く終わったのだが、トータル4時間以内と言うのが良いのかも知れないと思った。


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