熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

国立文楽劇場・・・四月文楽公演「靭猿」

2015年04月14日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   二代目吉田玉男襲名披露公演なのだが、その舞台の冒頭が、何故か、小品の「靭猿」である。
   この作品は、狂言の「靭猿」を脚色した文楽の作品の一つで、オリジナルの狂言そのものが、非常に質の高い名曲中の名曲である。
   4年前に、国立能楽堂で、大蔵流の茂山千五郎家の舞台を観て、感激した思い出がある。
   それに、この「靭猿」は、歌舞伎にも取り入れられて舞踊劇となっていて、先に逝ってしまった名優三津五郎の素晴らしい舞台を観ているので、文楽では、どのような作品となって演じられるのか、非常に、興味を持って鑑賞した。

   まず、狂言は、次のようなストーリーであるが、感想も含めて、私のブログを少し引用しながら、オリジナルなので多少詳述する。
   ”遠国の大名が、遊山に出かけた途中で、猿引に出会い、その猿の毛並みに惚れて、矢を入れる靱を猿の皮で飾りたいと思ったので、強引に皮を貸せと猿引に強要するのだが、皮を剥げば猿が死ぬと断る。
   大名が矢を構えて脅すので仕方なく同意して、猿に言い聞かせて鞭を振り上げるのだが、芸の合図かと思って、その鞭を奪った猿が、船を漕ぐ芸を始めるので、猿引は可哀そうになって号泣する。
   大名も猿を哀れに思って思い止まると、猿引は喜んで、猿歌を謡って猿に舞を舞わせる。
   大名は、舞う猿の可愛らしさに引かれて、猿引に褒美を与えて、自分も、猿の舞を真似て一緒に舞う。”

   居丈高で傍若無人に振る舞っていた大名が、次第に、情愛に触れて心を入れ替え、猿の可愛いしぐさに惚れ込んで、無邪気になって自ら踊り出すと言う天真爛漫の人の良さと、猿引の猿への愛情が滲み出ていて、それに、猿を演じる子役が実に可愛くて、和ませてくれる。    
   大名を当主千五郎、猿引をその弟の七五三、太郎冠者は千五郎の長男正邦、猿を正邦の弟茂の長女莢が演じていて、親子兄弟3代の舞台である。

   猿を演じる莢ちゃんが女の子であることもあって、実に優しい仕種で、寝転がったり、ノミ取りで手足を掻いたり、それに、 大音声で大見得を切る千五郎の大名の迫力と居丈高さは流石であるが、その千五郎が、猿引の猿への情愛に絆されたと思うと、今度は、幼稚園の児童よろしく、不器用な仕種で、小猿を真似て、床を転がったり遊戯(?)をする可笑しさ。スマートで灰汁のない七五三の猿引の実直さ真面目さは秀逸で、その対照の妙が面白く、正邦の太郎冠者は、非常にオーソドックスな感じで、シチュエーションの変化を微妙に感じながら、二人の間を上手く取り持っている。
   
   一方、歌舞伎の「靭猿」だが、一時元気になって舞台に戻った三津五郎と又五郎のコミカルタッチの舞踊劇が非常に面白かった。
   この「靭猿」は、アイロニー豊かな可笑しみとほのぼのとした人間味を感じさせて、もう少し質の高い味のある喜劇の狂言とは大分差があって、換骨奪胎、舞踊と仕草で楽しませる舞台となっていて、やはり、三津五郎と又五郎の舞台である。
   小猿を殺して靭にすると息巻く大名が、この舞台では、女大名三芳野(又五郎)に代わっていて、又五郎が、醜女風の恋多き女としてドタバタを演じるので笑わせる。
   猿曳寿太夫の三津五郎が、小猿を売るのを苦しみながらしんみりと小猿に説得する優しい好々爺ぶり、小猿の仕草があまりにも可愛いので、完全に喰われた感じではあったが、前にも増して艶のある愉快な演技と元気な踊りを見せて、本調子の三津五郎に観客は惜しみなき拍手を贈っていた。

   さて、今回の文楽の「靭猿」だが、解説によると、近松門左衛門作「松風村雨束帯鑑」の劇中劇として伝えられたものだと言う。
   いずれにしろ、狂言が600年、文楽が400年の歴史であるから、近松が狂言の「靭猿」を真似たのは当然で、ストーリー展開も、前半は殆どそっくりである。
   違ってくるのは、殺されるとも知らずに懸命に踊る猿に心を動かされた大名が、猿の命を助けるところからで、狂言では、大名も一緒になって舞うと言う趣向だが、この文楽では、喜んだ猿曳が、武運長久、御家繁盛などを祈願して猿を舞わせて帰って行くことに変わっている。
   ものの本によると、「西遊記」の孫悟空が、天上界に仕えていた時、厩の番人を命じられていたように、日本の猿曳きも、元は厩を祈り清めるために、家々を回ったとかで、この文楽でも、この厩の厄払いに使った御幣を、猿に持たせて舞わせている。

   狂言では、猿(靭猿)に始まって狐(釣狐)に終わると言われるほどで、狂言師をめざす子弟が猿の役で初めて舞台に立つ演目で、縫い包みを着て小猿そっくりの恰好で演技をするので、非常に可愛い。
   歌舞伎の猿も、子役が演じるので、同じような雰囲気である。
   ところが、文楽の場合には、立派な3人遣いの人形遣いが猿を操るので、非常に芸が細かく表現力が豊かになって面白くなる。
   二代目吉田玉男一門の玉翔が、表情豊かでコミカルな猿を器用に遣っていて楽しませてくれる。

   無茶苦茶な大名と必死になって猿を庇う猿曳との会話を知ってか知らずか、猿が、大名に猿曳と同じような格好で、対応しているのが興味深い。
   一打ちに猿を殺そうと振り上げた鞭を、芸の合図と思って、猿が鞭を取り上げて舞うと言うストーリーの筋はそのままなので、分かっている筈がないのだが、猿まねで演じていると理解して見ていると、狂言や歌舞伎の可愛い猿と言うキャラクターとは一寸違って、対等の演者として芸をしているようで、面白い。

   清十郎が誠実で人間味のある猿曳を、文昇が中々威厳と風格のある大名を、勘市が軽妙な太郎冠者を、遣っている。
   大夫は、猿曳が咲甫大夫、大名が睦大夫、太郎冠者が始大夫、ツレが咲寿大夫・小住大夫、三味線は、東蔵、團吾、龍爾、清公、錦吾。

   立ての東蔵のブログで、
   猿が舞うところが聴きどころです。盛り上がるよう全員でいきを合わせ演奏していきます。猿の舞うところ 鳴声を“きっきっきききっ”と演奏します!はっきりわかる部分ですがお聴きのがしなく!
   と書いてあったのだが、残念ながら、一寸、気付かなかった。

   とにかく、能や狂言、歌舞伎、文楽、落語、講談など、同じストーリーなり話題を、テーマにした古典芸能が、夫々に、どのような展開をしているのか、楽しみにして見ている者にとっては、「靭猿」は、格好の舞台であった。
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久しぶりの関西・・・(3)道頓堀界隈

2015年04月13日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   大阪の文楽劇場に行く時の宿舎は、日本橋か宗右衛門町か千日前あたりのビジネス・ホテルなので、夜と朝に、散歩を兼ねて、すこし、近所を歩くことにしている。
   時には、何となく、微妙な変化を感じることがあるが、極彩色と言うか、ごてごてしたラテン気質に近い街の雰囲気は、もう、何十年も健在で、殆ど変っていない様に思う。

   この日の夜は、堺筋から道頓堀通りに入って、かに道楽本店前を右にとって橋を渡って心斎橋筋入り口から御堂筋に出て、また、大阪松竹座の前に戻って、法善寺横丁を通って帰る。と言った単純な道筋である。
   昔なら、同僚たちと宗右衛門町あたりの店に入って、夜遅くまで飲んでいたが、年寄りの一人旅では、繁華街には全く縁がなくなってしまった。
   道頓堀川を挟んで東西を横切る道頓堀通りと宗右衛門町通りの雰囲気が全く違うのが興味深い。

   最近は、道頓堀通りに、随分、中国人らしい観光客が増えたような気がする。
   かに道楽前で記念写真を撮ったり、たこ焼きを食べながら団体で歩いていたり、賑やかに中国語を喋っているので良く分かる。
   今回は、ワシントン・プラザ・ホテルであったのだが、客の大半は、中国人の団体で、珍しく、イタリア人の団体も入っていた。
   交差点を越えたところの黒門市場でも、多くの中国人観光客で犇めいていた。
   夜のネオンのけばけばしさと広告や看板の派手派手さは、日本独特と言うべきか、台湾くらいでしか、外国では見たことがない。
   ヨーロッパの古都などでは、かなりの繁華街でも、淡い電飾に浮かび上がったしっとりとした雰囲気の街並みが続いていて、絵になっており、また、凝って工夫を凝らした店の看板や街灯にもカメラを向けたくなるのだが、文化の違いか気質の違いか、興味深いところである。
   
   
   

   この夜の法善寺横丁の水掛不動の前には、珍しく、誰もいなくてひっそりと静まり返っていた。
   隣の夫婦善哉の店も、殆ど人が入っていなかった。
   恋する乙女が少なくなったのか、恋の悩みがなくなったのか、前に来た時には、不動に水をかけて一心に祈っていた若い女性がいたし、何人か並んでいた。
   
   
   

   翌朝は、難波千日前の方に歩いて行った。
   このあたりは、パチンコ店が多くて、結構、朝早くから店の前で列をなしている。
   私はパチンコの経験がないので分からないが、恐らく、趣味を越えて、生活がかかっているのではないかと思っている。
   吉本のグランド花月の前に出た。
   朝から派手な呼び込みで、時間が来たら、売り場のカーテンが上がって、売り出し嬢の顏が見えて、チケットの販売が始まった。
   昔、若かりし頃、時々漫才を聞きに梅田の花月などに行ったが、全く人畜無害ながら、内容がないので、興味がなくなってしまった。
   この日は、何時もの松竹新喜劇ではなく、「大阪の陣」と言う猿飛佐助を主役とする新喜劇特別公演をやっているようであった。
   ところで、このグランド花月の道を挟んで、ジュンク堂の大きな書店があって、その横の細い通りが道具屋筋と言う道具なら何でもそろうと言う横丁が突き抜けている。
   ごった煮と言うか、節操がないと言うか、何があるのか分からないような街が、なんばである。
   
   
   

   その後は、文楽劇場に行くので、黒門市場に向かった。
   京都の錦市場に良く似た大阪の台所とも言うべき賑やかな食品専門店の多い市場である。
   鮮魚店もあるが、勿論、スーパーもあれば雑貨店もあり、色々な店が並んでいて面白い。
   昔、ヨーロッパに居た頃には、新しい街に行くと、その町の市場を訪れて、その町の息吹を感じるようにしていたが、あっちこっちの広場で開かれていた蚤の市を梯子するのも楽しみであった。
   新鮮で安いので、この黒門市場で、劇場での昼のランチ用に、寿司を買って行くことが結構あって重宝している。
   
   
   
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国立文楽劇場・・・二代目吉田玉男襲名披露狂言~「一谷嫩軍記」

2015年04月12日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   4月4日から、大阪の国立文楽劇場で、二代目吉田玉男襲名披露公演が、行われていて、華やいでいる。
   造幣局の桜並木の通り抜けがオープンしたその日、文楽劇場前の桜は、やや、盛りを過ぎた感じだが、吉田玉男の幟旗と妍を競って、春爛漫であった。

   劇場の入り口には、左右のの柱に飾られた、金屏風の前で威儀を正した二代目玉男の写真が出迎えて、中に入ると、披露公演の演目を絵にした大看板と華やかな記念写真が出迎えてくれる。
   
   
   
   
   

   この文楽劇場は、フロントが二階にあるので、左手のエスカレーターに乗って上に上がる。
   一階には、レストランや資料展示室や茶店、事務所などがあり、二階には売店などのあるかなり広いロビーがあって寛げる。
   一階の資料展示室では、企画展示「初代・二代目吉田玉男」と「文楽入門」が開かれていて懐かしい舞台写真や二人のゆかりの品々などが展示されていて興味深い。
   客席は、左右に高くなった桟敷席風の席があって中々快適であり、東京の小劇場より椅子が良いのか疲れにくくて良い。
   
   
   
   
   

   さて、襲名披露口上だが、真ん中の玉男を挟んで、右に、大夫代表の嶋大夫、その隣が、三味線代表の寛治、左に、人形遣い代表の和生と勘十郎、そして、その左に、司会進行の千歳大夫が並んで、夫々、口上の挨拶を述べた。
   その背後に、両玉男の弟子たちが勢ぞろいした。
   人間国宝は、寛治だけで寂しい感じだが、世代替わりを彷彿とさせてもいて、新しい時代の流れであろう。
   寛治が、初代玉男の傍に、可愛い子供がいたので、「お子さんですか。」と聞いたら、「違う、近所の子や。アルバイトに来てんねん。」と言っていた、これが、二代目との出会いであったと、口上で語っていた。

   まず、昼の第一部は、口上を挟んで、最初に、狂言を脚色した「靭猿」、口上の後に、襲名披露狂言の「一谷嫩軍記」の熊谷桜の段/熊谷陣屋の段、最後は、「卅三間堂棟由来」の平太郎住家より木遣り音頭の段で、簑助の女房お柳や紋壽の進ノ蔵人、津駒大夫や寛治など重鎮が舞台を務める。

   やはり、注目は、襲名披露狂言の「一谷嫩軍記」であろう。
   
   今回同様、熊谷直実を2代目玉男が遣った舞台は、これまでに、二回観ている。
   両方とも、東京の国立劇場だったが、最近では、二年前の五月で、その時は、
   人形は、熊谷を玉女、妻相模を紋壽、藤の局を和生、義経を清十郎、弥陀六を玉也などが遣い、大夫と三味線が、夫々、三輪大夫・喜一朗、呂勢大夫・清治、英大夫・團七と言う布陣であった。
   もっと以前には、10年前の12月で、その時は、
   人形は、直実を玉女、妻相模を和生、敦盛の母・藤の局を勘十郎、義経を紋豊、弥陀六を玉也、大夫と三味線は、千歳大夫と清介、文字久大夫と錦糸であった。
   今回と違うのは、人形遣いは、義経が紋豊から玉輝に代わっただけであり、当時人間国宝の最高峰の3人を除けば、今も昔も同じだと言うことで、謂わば、これが決定版と言うか、非常に興味深い。
   大夫と三味線は、後の文字久大夫は同じで、三味線が清介に変わっている。
   ところが、面白いのは、大阪の文楽劇場では、直実を勘十郎が遣っていて、二代目玉男は、この大阪の本舞台では、直実は、今回が初演なのである。

   この浄瑠璃は、平家物語と違って、無官の太夫敦盛が、後白河院のご落胤だと言う設定となっていて、義経が、直実に、「一枝を伐らば一指を剪るべし」と言う謎かけで、自分の実子小次郎を犠牲にしてでも、敦盛の命を助けよと言う命令を出したので、これを須磨の戦いで実証すると言う悲劇が一つのテーマとなっている。
   尤も、私は、妻相模への直実の感情など、人間的な触れ合いについて興味を持っており、冒頭の相模が出迎えるシーンで、玉男の直実は、歌舞伎のように嫌な顔をして無視すると言う態度を取っていなかったし、妻を気遣う優しい対応を感じて、最後の「どうして、敦盛と小次郎を取り替えたのか」とか、「エエ胴欲な熊谷殿。こなたひとりの子かいなう。」と言う二人の対話が生きていたような気がしている。

   ところで、やはり、「熊谷陣屋の段」は、歌舞伎で観ることが多いようで、これまでに、幸四郎や吉右衛門や染五郎、それに、仁左衛門の熊谷を鑑賞している。
   何度見ても、忘れてしまうので、記憶は乏しいのだが、今回は、小次郎の首を敦盛と偽って義経に差し出すシーンと、出家姿で「十六年もひと昔。夢であったなあ。」と慨嘆するシーンの直実の演技が、文楽と歌舞伎では、相当違っていて、印象が大分変って来るのに、改めて感じた。

   まず、義経が敦盛の首実検せんと命じると、直実は、若木の桜の前に立ててある制札を引き抜いて近づき、首桶の蓋を取った瞬間、「ヤアその首は」と叫ぶ女房に見せじと扇を首の前に立て、駆け寄る相模を右膝下に組みしき、右手に握った制札をグンと伸ばして、近寄ろうとする藤の局の顏を遮ると言う豪快な見得を切る。
   階に足をかけて、突き落とした相模と藤の局を制札で抑え込んで、左手で持ち上げた首をぐっと義経に向けて差し出して、「御賢慮に叶いしか」と大音声。
   この見得は、初代玉男が編みだしたものだと言う。
   人形だからこそできる素晴らしい見得で、圧倒的な迫力である。
   

   また、この「熊谷陣屋」の幕切れだが、歌舞伎では、七代目團十郎の発案で、幕切れに熊谷ひとりだけ花道に出て行って幕を引かせ、中空を仰いで、「十六年は一昔、アア夢だ。夢だ」と独白して、ひとり花道を歩みながら引っ込んで行くと言う「團十郎型」が一般的である。
   この幕切れは、劇的効果満点で、非常に感動的なシーンとなっている。

   その点、文楽では、この言葉は、直実が、上帯を引解いて鎧を脱いで、袈裟白無垢姿になって、生まれ変わった心境で、本心を述懐する最後の台詞なのである。
   その後、弥陀六が櫃を背負って、義経に「敦盛が生き返って残党を集めて恩を仇で返せばどうする」と悪口をたたくなどあり、左手に兜、右手に数珠を握りしめた直実を真ん中にして、「さらば」「さらば」と別れ行く段切りの見得まで、かなり、芝居が続くので、この言葉のニュアンスも微妙に違っていて面白い。

   一方、歌舞伎でも、「芝翫型」の幕切れでは、妻相模と一緒になって小次郎の菩提を弔って遁世するようだし、引張りの見得で幕になるなど、上方歌舞伎も含めて、色々なバージョンがあるようであり、この方は、文楽にかなり近い。

   さて、玉男は、何故、襲名披露狂言い「一谷嫩軍記」を選んだのか。
   昭和55年1月大阪・朝日座の本公演の後の「若手向上会」で、世代交代で選抜されて、師匠の役をそのまま若手が遣うと言うことで、熊谷の役を貰い、師匠の人形を遣って一生懸命練習して演じた時に、玉男師匠が、左を買って出てくれたのだと言う。
   その時、本人は、簡単な左に行きつつ、難しい足についていたと言う駆け出しだったのだが、文楽協会賞を貰ったりして、大変に思い出深い役なので、襲名に選んだのだと語っている。
   文楽の人形遣いの芸の継承の良さは、肉体を接触させながら、師匠の芸を肌身に感じて、一挙手一投足を直に見習えることで、二代目は、初代の左だけでも20年以上も務めたと言うのであるから、筋金入りの直弟子である。
   初代の文楽人生まで、まだ、20年あり、どれ程、芸の高みに上り詰めて行くのか、無上の楽しみである。

   とにかく、最初から最後まで、非常に充実した素晴らしい舞台が展開されていて、感動的である。
   文七の素晴らしい首に風格のある衣装を身に付けた威風堂々たる熊谷直実を、豪快に遣って絵のように演じるのであるから、正に、二代目玉男の晴れ姿を堪能させてくれる。
   
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久しぶりの関西・・・(2)東大寺の春(つづき)

2015年04月11日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   大仏殿の後方に、講堂跡があり大きな礎石が残っているのだが、その近くの空間に、二本の素晴らしいピンクの枝垂れ桜が、今満開で、美しい。
   小さい方の一本は、まだ、若木なのか、綺麗なアンブレラ・スタイルで、花びらもびっしりついていて、豪華である。
   (二枚のショットは、陽が当たった時で、下の方の鹿が写っているのは、木陰になった時に撮り修正に失敗して色が変わってしまったが、同じ濃いピンク)
   もう一方の大きな枝垂れ桜は、やや花弁の付きが悪いのだが、枝があっちこっちに伸びていて、何となく老成した雰囲気があって、中々風格のある木で面白い。
   講堂跡からの大仏殿は、裏正面で、この桜は、ソメイヨシノであろうか。
   何年も空いて訪れているので、桜風景も、変わって来ているように思う。
   
   
   
   
    
    
   
   その後、私が向かうのは、長池を越えて、大湯屋を右手に観ながら、小川沿いに緩やかな坂を二月堂の方に上って行くのである。
   二月堂が見える坂道を撮った入江泰吉の素晴らしい写真があるのだが、やはり、タイミングや腕が問題で、思うような写真を撮れたことがない。
   ただ、いつ行っても面白いのは、左手の塔頭の庭に植えられている花木が、夫々の季節ごとに、色々な花を咲かせて彩りを添えてくれることである。
   二月堂を見上げる方向だけではなく、反対側を見下ろすのも面白い。
   土塀に雰囲気があるのかも知れない。
   
   
   
   二月堂には、清水のような展望台を兼ねた舞台の高台から奈良の方角を臨むのも、その時その時の雰囲気が分かって面白い。
   この日は、北方向の山際の桜が美しく咲き乱れていた。
   西側を見下ろすと、東大寺の込み合った塔頭群が見えるが、それらが視野を遮って、県庁の塔部分が見えるくらいで、それ程、遠くの奈良の街並みは展望できない。
   
   

   隣の三月堂は、不空羂索観音立像を真ん中にして沢山の国宝物が安置されていて、東大寺に来た時には、必ず訪れていた。
   しばらくは、須弥壇及び諸尊像修理のために拝観が中止されていて、仏像は、その間、ミュジーアムに展示されていたが、今回は、再開されていたものの、時間が間に合わなくて閉まっていた。
   興味深いには、
   ”安置される諸尊像は、本尊不空羂索観音菩薩、梵天、帝釈天、金剛力士(阿吽)、四天王、執金剛紳(秘仏)の10躰です。 日光・月光菩薩、弁財天、吉祥天、地蔵菩薩、不動明王の6躰は東大寺ミュージアムに安置されています。”と言うことである。
   秘仏の「執金剛神」の開扉(12/16)に、偶々訪れて、力感豊かで素晴らしく美しい像を見て感激したことがある。
   この三月堂(法華堂)は、東大寺最古の建築物で、独特な雰囲気が好きである。
   何時も、ここへ最後に来て、鐘楼わきを下って行き、
   大仏殿の正面に出て、仁王門に向かって歩いて東大寺を出る。
   東大寺をでて、時間があると、奈良公園を歩くのだが、全く雰囲気が変わって面白い。
   
   
   
   

   東大寺の地図を借りてルートを赤線で示すと、次の通り。
   
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久しぶりの関西・・・(1)東大寺の春

2015年04月10日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   国立文楽劇場で上演されている第二代吉田玉男襲名披露公演を鑑賞するために、久しぶりに、大阪に出かけた。
   文楽に行く時には、一日、文楽劇場に居るので、結局二泊して、その前後は、大阪で過ごすか、京都か奈良に行くかことにしている。

   8日は、国立能楽堂の予約日だが、スマホを持っていないので、朝10時にはパソコンを叩かなければならないので、羽田を発ったのは、12時30分で、伊丹空港に着いたのは2時少し前であった。
   行く先は決めていなかったけれど、時間的に京都はダメであり、真っ先に出るリムジンバスが、なんば行きであったので、近鉄に乗って、とにかく、奈良に向かうことにした。
   夕刻であっても、2~3時間は、奈良公園を歩けるであろうと思ったのである。
   その日は、東京から雨で、関西も良い天気ではなかったのだが、伊丹空港に着いた頃には、雨が上がっていた。
   

   なんばから奈良までは、それ程距離はないのだが、近鉄は、生駒に差し掛かると急に減速する。
   特に難路ではない筈だが、原因は、民家が線路に接近し過ぎていて、(車窓から見ると手が届くようなところに民家の壁や窓があるために)、減速せざるを得ないのであろう。
   京阪にも、そんなところがあるのだが、関西の民営の古い路線には、こんな所や、曲がりくねったところが多い。

   西大寺を過ぎると左手の広大な空間に、平城宮跡が広がっていて、巨大な大極殿が見える。
   私が、学生時代に、法華寺や秋篠寺を訪れていた頃には、跡かたもなかったので、今昔の感である。
   
   

   奈良公園を歩くつもりであったので、気分が乗れば頂こうと思って、駅の構内で、柿の葉寿司を買った。
   柿食えばではないが、美味いのである。
   
   
   真っ先に行ったのは、奈良県庁の屋上で、ここから、東大寺や若草山、それに、奈良市内は勿論、生駒の電波塔まで遠望できるので、その日の奈良の雰囲気を掴むのに一番良いのである。
   柳生の里へ向かう国道369号線を隔てて東大寺が広がっていて、その後に、優しい姿の若草山が見える。
   一番大きく目立つ建物は、東大寺の大仏殿で、やはり、大きく、若草山の手前に、仁王門の屋根が見え、その左手に新しい大きな東大寺ミュージアムが見える。
   大仏殿と仁王門の間くらいの山の手に、二月堂が見える。
   お水取りのこの舞台から、この県庁の独特な塔部分がみえるのだから当然でもある。
   西の方に目を転じると、興福寺が見え、五重塔が聳えている。
   北方を臨むと、奈良市内越しに生駒山が見える。
   
   
   
   
   
   
   

   ところで、奈良公園や東大寺の境内には、それ程、多くの桜の木は植わっていないような気がする。
   369号線の東大寺側の桜は、今盛りでり、私には、奈良は、ソメイヨシノではない種類の桜のほうが、何となく、望ましいような気がしている。
   
   

   私の東大寺での散策路は決まっていて、東に向かって歩き、369号線沿いに北折れして、知事公邸横から依水園に向かい、その前を再び北折れして、戒壇院を目指して歩く。
   途中に入江泰吉旧宅が、ひっそりと残されていたが、3月から公開されている。
   それに、そのそばに、信楽の狸が立った一風変わった蕎麦屋がある。
   売切れたら閉店すると言うことらしいが、何時も閉まっているような雰囲気である。
   戒壇院には、有名な国宝四天王立像があり、時々、仰ぎ見るのを楽しみにしているのだが、下から静かに上る石段も、また、実に良い。
   
   
   

   この戒壇院前を右折れすると、空間が開けて、その向こうに大仏殿の屋根が見える。
   このあたりにに来ると、殆ど観光客は居らず、鹿が、三々五々、草を食んでいる。
   桜の花びらで真っ白になった地面を鹿が、突いているのが面白い。
   大仏殿前の参道の鹿は、観光客の与える餌を目指して集まるのだが、このあたりの鹿は、総てマイペースで、人間など見向きもしない雰囲気である。
   
   
   
   
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四月大歌舞伎・・・鴈治郎の「心中天網島:河庄」

2015年04月06日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   四月の歌舞伎座は、中村鴈治郎の襲名披露公演である。
   夜の部で、襲名披露口上があるのだが、大阪では従来の形式で行われたようだが、東京では、「成駒屋歌舞伎賑」の「木挽町芝居前の場」で、幹部役者が勢揃いした舞台の後、藤十郎と鴈治郎を筆頭に成駒屋一家四人が、鴈治郎を真ん中にして一列に並んで正座して口上を述べた。
   
   

   すでに、大阪松竹座で1月と2月に襲名披露興行を行っているので、鴈治郎を、道頓堀の座元の仁左衛門が案内して江戸に乗り込み、木挽町の座元である菊五郎、太夫元の吉右衛門、芝居茶屋亭主の梅玉らに引き合わせると言う形式を取っている。
   そこに、男伊達と女伊達が、二列になって登場し、両花道にずらりと並んで、男女交互に鴈治郎へご祝儀のツラネを述べ、それに応えて鴈治郎が一人ひとりに頭を下げる。
   茶屋女房の秀太郎に案内されて江戸奉行の幸四郎が登場して、お祝いを述べながら、鴈治郎のファンだからサインが欲しいと言って紙を取り出すと鴈治郎がサインをして返すと言うサービス・シーンがある。
   この幸四郎は、昼の部の「廓文章」の中で、吉田屋喜左衛門として登場し、久しぶりに店を訪れた藤屋伊左衛門の鴈治郎を、口上に代えて、披露すると言う役割も演じている。
   1月の公演では、橋之助など同じ成駒屋の役者たちが加わっていたようだが、東京では、平成中村座の公演で、重なっていて登場できないようで、一寸寂しい感じがする。

   夜の部では、やはり、最高の舞台は、襲名披露狂言「心中天網島」の「河庄」である。
   紙屋治兵衛は鴈治郎、紀の國屋小春は芝雀、粉屋孫右衛門は梅玉、河内屋お庄は秀太郎、江戸屋太兵衛は染五郎と言う素晴らしい布陣である。
   もう、10年ほども前になるであろうか、先代の鴈治郎(現藤十郎)の治兵衛と雀右衛門の小春の素晴らしい「河庄」の舞台を観て感激したことがある。
   今度の舞台は、その次の世代の子息たちの舞台であり、改めて、懐かしい芝居を反芻させて貰った。

   その少し後に、同じく藤十郎の治兵衛で、時蔵の小春の舞台を観たが、今回、鴈治郎の治兵衛を観ていると、当然かも知れないのだが、生き写しと言っても良い程の舞台で、懐かしさと言うよりも、びっくりしてしまった。
   藤十郎も鴈治郎もそうだが、治兵衛の仕草や語り口などは、今でも、大阪人が、生身そのままで舞台に登場して、そのまま語っているような、極めてリアルで、臨場感たっぷりの実際の人生劇場そのものであり、芝居をはるかに越えており、どっぷりとその舞台に引きずり込まれてしまって、歌舞伎を観ているのを忘れてしまうのである。
   後で振り返ってみて、上手いなあ! あれが、近松の世界なのだ、と思って、感激する。

   鴈治郎が、何かで、顔は父親似だが、芸は祖父似だと言っていたが、この河庄の舞台に関する限り、YouTubeで、先々代の鴈治郎の治兵衛と藤十郎の小春の舞台を観ることができるのだが、先々代の治兵衛とは、全く芝居もニュアンスも異なっていて、異次元の世界である。
   余談ながら、この動画の、水も滴る好い女で、実に健気で女らしい小春を演じている若き頃の藤十郎の素晴らしい芝居が感動的である。

   さて、この舞台は、語り口そのものも芝居の雰囲気も、近松門左衛門、そして、改作者の近松半二にしろ、心底どっぷりと大坂に浸かり切った浄瑠璃であり歌舞伎であるから、住大夫が常に語っていたように、絶対に訛ってはダメで、こてこての大阪弁、大阪気質、大阪文化で語り演じなければならないと思っているのだが、その意味では、正に、前述したように藤十郎や鴈治郎の世界なのである。

   扇雀の子息虎之介さえ東京人に成ってしまって、大阪弁の勉強に大阪に語学留学したいと言うほどだから、鴈治郎の子息で善六を演じた壱太郎も努力して大阪弁を駆使したのかも知れないが、今回、素晴らしい芝居を演じている小春の芝雀や粉屋孫右衛門の梅玉や江戸や太兵衛の染五郎も、私には、一寸、ニュアンスが違っていて、近松ではなく、和事の歌舞伎の舞台を観るつもりで鑑賞させて貰った。
   昨年3月に観た「封印切り」の舞台では、忠兵衛が藤十郎、梅川が扇雀、秀太郎がおゑん、八右衛門が翫雀、槌屋治右衛門が我當と言うオール上方役者で演じられたが、恐らく、本物の近松門左衛門の芝居は、これが最期かも知れないと思っている。

   玉男も逝き、巨星米朝も去ってしまった。
   日本文化の誇りであった筈の古典芸能の世界から、どんどん、上方文化が消えて行くような気がして、寂しい。
   今回の鴈治郎襲名は、その危機を強烈に実感させてくれているような気がして、私には、印象的である。
   初日に歌舞伎座に出かけたのだが、空席が結構あったし、松竹の歌舞伎美人で空席状況をチェックしたら、貸切日以外は、チケットが大分残っているようである。

   住大夫引退公演チケットが瞬時に完売した余韻が残っているのか、文楽の二代目玉男襲名公演のチケット(口上のある部)は、今月の大阪公演では残っているが、東京公演は、あぜくら会分は、即日完売であった。(一般売り出しは、4月7日から)
   文楽協会や日本芸術文化振興会などの必死の努力が効を奏したのであろう、
   放漫財政の結果の辻褄合わせに、補助金カットで、最後の砦として大阪に残っている世界文化遺産の文楽まで、文化衰退の標的にした地元で育った政治家がいる世の中であるから、仕方がないのかも知れないが、実に寂しい。
   
   一寸古いので、手元にある岩波講座の「歌舞伎・文楽」や「能・狂言」には、まだ、少し、上方文化の余韻らしきものが残っているのだが、このままでは、何時か、古典芸能、日本文化の世界も、東京一極に集中してしまうのであろう。
   日本史や日本文化史に、昔、上方文化と言うものがあったと言う歴史上の記述だけが残るような気がしている。
   
   
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國神社:夜桜能・・・能「葵上」・狂言「文荷」

2015年04月04日 | 能・狂言
   荒れ模様の天気が危ぶまれたのだが、奉納國神社 夜桜能第三夜が、神社の能楽堂で執り行われた。
   天気予報では、開演時間中は雨の予報で、風が強いと言うことで、会場が、國神社か、日比谷公会堂か、直前の電話テレドームで確認するまで分からなかった。
   幸い、天候にも恵まれて、満開の桜の下で、桜吹雪を受けて、松明の炎が揺れ動く野外の能楽堂で、質の高い素晴らしい能舞台を楽しむことが出来た。
   上演中は、撮影禁止で撮れなかったのだが、桜吹雪が、能舞台に向かって激しく舞う光景は、次の休憩時のショットで分かるであろう。
   終演後には、うっすらと、月影が見えていた。
   
   

   舞台は、松明への火入れ式で始まった。
   最初は、梅若長左衛門師の舞舞台 胡蝶。
   電光に映えた舞台は鮮やかで、喧噪から程遠い静かな野外の能舞台で厳かに舞われる能の荘厳さは、室内の能舞台とは違った特別な雰囲気を醸し出す。

   狂言の「文荷」は、人間国宝野村萬が太郎冠者、万蔵が次郎冠者
   これまでに、2~3回観ているのだが、舞台を一寸見上げる感じなので、雰囲気が大分違う。
   私の席は、脇正面寄りの、中正面の前の方であった。

   この狂言「文荷」は、主人の恋文を、次郎冠者と太郎冠者が、命じられて、主人の思い人に、いやいや届けに行くと言う話で、能の「恋重荷」のパロディ版であるから、恋の文は、恋し恋し(小石小石)で重いと言って、竹に結び付けて二人で担って行く。途中で休憩して、好奇心を起こして文を開いて読み、奪い合っているうちに引き裂いてしまう。千切れた文を扇で仰ぎ、風の便りに届け届けと小唄を歌っているところに、帰りが遅いので心配して出てきた主人に出くわして怒られるのだが、お返事ですとあぶり返す太郎冠者の惚けぶり。

   この話は、当時、かなり、普通にあったと言うお稚児趣味をテーマにしたもので、主人のラブレターのあて先は、左近三郎殿と言う少年であり、他の狂言にも、このように少年に恋するテーマがあって、世相を感じて面白い。
   いくら、流行っていたと言っても、二人にとっては、奥さんに悪いだとか、一寸悪趣味だとかと言った気持ちがあっての悪戯心か・・・
   女御に恋焦がれた庭男が騙されて重荷を背負わされて苦しんで死んで行くと言う深刻なストーリーの能の「恋重荷」を、面白おかしく茶化した狂言のしたたかさが、興味深い。

    ギリシャ時代、プラトンも落ちたと言うこの少年愛だが、真面な大人が抱く少年への恋愛関係で、性的関係も普通であったようで、これこそが本来のプラトニックラブで、今で言う意味とは全く違う。
   日本ではどうだったか分からないのだが、信長と蘭丸、義満と世阿弥などの間にも、噂が残っている。
   去年9月に、茂山七五三ほかの「文荷」を観たが、今回は、和泉流で、野村萬・万蔵父子の軽妙洒脱で、ほのぼのとした可笑しみとユーモアの滲み出た舞台が秀逸であった。
   
   
   休憩後の能は、源氏物語に題材を取った「葵上」。
   しかし、タイトルロールの葵上は、登場せず、舞台中央正先に広げられた小袖が、物の怪に憑かれて病床にある葵上を象徴しており、シテは、嫉妬に狂う六条御息所の生霊である。

   さて、この六条御息所だが、夫の東宮が死去したので皇后にはなれなかったが、教養豊かで風流を解し、趣味がよくて、才色兼備の非の打ちどころのない高貴な女性だったのだが、7歳も歳上で、藤壺に振られた寂しさを紛らすために、口説いて靡かせたものの、生来浮気の光源氏には、多少煙たい存在で、他の女性に目移りして足が遠のく。
   孤閨を託つ六条御息所が最初に嫉妬したのは、身分の低い夕顔で、こんな女性にうつつをぬかすなど許しがたいと、生霊となって夕顔をとり殺してしまう。
   葵上に怨みを持ったのは、賀茂斎院の御禊の見物に行った時に、偶然に、葵上の家来が六条御息所の家来と車争いし、御息所の牛車を壊して大恥をかかせた事件がきっかけで、まして、正妻の葵上が懐妊したと言うのだから、益々嫉妬に狂い恨み骨髄に徹して、葵上に、物の怪としてとりついて悩ませて臥せさせる。床を見舞った源氏の前に現われたので、生霊の正体を端無くも源氏に見せてしまう。苦しみながらも、結局は、男児を産み落とした葵上の命を奪ってしまうのである。
   
   今回の舞台は、勿論、光源氏などは出て来ずに、青女房に伴われた六条御息所の生霊が、葵上の病床に現われて恨み辛みを叩きつけて、後場では、悪鬼となって登場して連れ去ろうとするのだが、横川の小聖に祈り伏せられて、成仏すると言う話になっている。

   般若の面を付けて悪鬼となった人間国宝梅若玄祥とワキ小聖の宝生欣哉との激しくも流れるような戦いが、魅せて見せる見せ場を展開して素晴らしい。
   前シテでは、嫉妬の激しさや抑えきれない怒りや苦しみを必死にセーブしていたのだが、後場では、衣を被いて悪鬼と化して登場する六条御息所の生霊は、舞台で暴れまわり、橋懸りの奥まで走り込んでの激しい怨みの爆発で凄まじく、それだけに、幕切れの合掌して穏やかな成仏の静けさが印象的であった。

   これまでに、観世宗家の葵上など、何度か、「葵上」を観る機会があったが、古式の上演は、昨年11月の国立能楽堂での観世流のシテ坂井音重師の舞台で、これが二回目である。
   この古式の舞台では、常の上演では出ない作り物の車を舞台中央に出し、青女房の登場も、この舞台だけだと言う。
   
   国立能楽堂で観ることが多いので、屋内の音響や設備など総て至れり尽くせりに完備した能楽堂で、能・狂言を観ることに慣れているのだが、今回は、野外での鑑賞だったので、非日常の素晴らしい経験が出来て幸いであった。
   ロンドンで、初めて、シェイクスピア時代そっくりの青天井のグローブ座で、シェイクスピア劇を鑑賞した、あの時の素晴らしい思い出が蘇ってきた。
   風雨の中での鑑賞は経験なかったが、太陽がかんかん照りつけるグローブ座のシェイクスピアは、また、格別であった。

   シェイクスピアも聴きに行く、文楽も浄瑠璃を聴きに行く、観るよりも聴くと言う舞台芸術鑑賞、そんな、本来の昔ありきの舞台での観劇も、新鮮な面白さがあって良い。
   最初に野外劇場で、素晴らしい経験をしたのは、フィラデルフィのロビンフッドデルのフィラデルフィア管弦楽団の野外コンサートで、その後、ヨーロッパへ渡って、宮殿や古城、綺麗な公園での野外コンサート劇場などで、色々と、昔ではあたりまえであった野外での芸術鑑賞を楽しんで来たが、夫々に、特別な感慨があって面白かった。
   この今回の、國神社能楽堂の能舞台は、新しい新鮮な芸術鑑賞機会を与えてくれて、楽しかった。
   尤も、これは、私自身の勝手な感想で、能・狂言の鑑賞とは、殆ど、何の関係もないことは、勿論ではある。

   能舞台の写真は、次の通り。
   舞ってきた桜の花びらが、舞台上に残っている。
   
   
   
   
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千鳥ヶ淵、國神社の桜

2015年04月03日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   國神社の能楽堂で奉納される「夜桜能」の第三夜に出かけたために、期せずして、千鳥ヶ淵と靖国神社境内の満開の桜を鑑賞する機会を得た。
   千鳥ヶ淵へは久しぶりで、靖国神社へは初めてであった。
   昨年も、靖国神社の「夜桜能」を見る機会があったのだが、土砂降りの大雨で、野外吹き曝しの能楽堂では無理で、新宿で上演されることとなり、涙を呑んだ。
   今夜も、天気予報で丁度上演時間に雨の予報で出ていて諦めていたのだが、電話で確かめると、予定どおり、靖国神社の能楽堂で行うと言う。

   靖国と隣り合わせた場所なので、千鳥ヶ淵の桜を見ようと、少し早く出かけて行ったのだが、もう、地下鉄の九段下から込み合っていて、大変な人出である。
   お堀端に沿って武道館や皇居入り口あたりから、桜が咲き乱れていて、重い曇天の夕暮れ近くにも拘わらず、華やかである。
   もう、大分散ってしまったのか、濠の水面を、散った桜の花弁が絵の具で描いたようにびっしりと張り付いている。
   
   
   
   
   

   内堀通りを上り、千鳥ヶ淵方向に廻り込む3差路の手前で、通行整理が始まっているのだが、やはり、ここが写真の定点スポットでもあるので、濠の桜を被写体にしてデジカメやスマホを掲げた人で、賑わっている。
   少し、お堀端の遊歩道を千鳥ヶ淵に向かって歩こうとしたのだが、時間的にもきつそうなので諦めた。
   この千鳥ヶ淵のお堀端の桜には、懐かしい思い出がある。
   もう何十年も前のことだが、サンパウロに赴任していた時に、一時帰国で東京に帰って来た時に、家族ともども、このお堀端に面したフェアモント・ホテルに滞在していて、部屋の窓越しに、丁度、今のような桜の季節で、何日か、電光に映えた美しい桜並木を眺めながら過ごしたことがある。
   ところで、夜間照明は、6時からなのだが、能楽堂の方が、6時10分開場であり、靖国神社の参道では夜店の賑わいを見せていて、面白そうなので、そちらの方に行くことにして、帰りに、まだ、夜間照明が残っている様だったら、見ることにした。
   
   
   
   
   
   
   

   國神社の方に渡る歩道橋の上から、内堀通りの桜並木を望んだり、武道館の方角を見ると、結構、ソメイヨシノが植わっていて、ほんわかとした雰囲気を醸し出していて面白い。
   
      

   國神社の一の鳥居に立つと、広い参道の両側に、沢山の夜店や屋台がびっしりと並んでいて、結構、賑わっている。
   殆ど、食べ物屋の屋台で、夫々、しっかりとした店構えで、本格的である。
   屋台の並びの北側の裏側には、もう一列屋台があって、その間の空間に、沢山のテーブルや椅子が並べられて簡易なインスタント居酒屋が設営されていて、大変な賑わいである。
   桜の花も咲いていて、薄暗い裸電球風の照明が、何となく雰囲気があって、夜の賑わいを映し出していて面白い。
   何も、桜の木の下場所取りに奔走しなくても、屋台の予約を入れて宴会をすれば、十分に花見気分を楽しみながら酔って楽しめると言う寸法であろうか。
   尤も、九段坂上方向の屋台の出ていない空間には、関取の若い人がビニールシートの上に座って待機していたから、旧来型の花見もあるのであろう。
   
   
   
   
   
   
   

   さて、第二の鳥居をくぐって、神門の前に来ると、6時に閉門されて、右側の通用口の前に、能楽堂に入るべく待機している列が出来ている。
   門を通過すると、遠方に、拝殿が見えているのだが、能楽堂は、入ってすぐ右側にあるので、中に入ると、沢山の桜が植わっていて電光に照らされて夜桜が美しい。
   能舞台は、真っ暗のままで、幽かにしか見えないが、広場に、パイプいす席が設営されていて、見所になっている。
   座席は、国立能楽堂の3倍くらいはあるあるのであろうか、相当、奥まで椅子が並んでいて、沢山の観客である。
   
   
   
   
   

   雨の予報であったので、入り口に簡易レインコートが配布されたが、幸い雨が降らず、強い風が残っていて、松明を赤々と輝かせ、花吹雪が飛び散って、能楽師たちの方に向かって吹きつけていて、いやが上にも、野外能楽堂での舞台の雰囲気を醸し出していて、面白かった。
   終わり頃には、雲間に微かに月影が見え隠れしていて、気持ちの良い夕べであった。
   
   
   
   

   プログラムは、
   舞囃子 胡蝶 梅若長左衛門 
   狂言  文荷 野村萬ほか
   能   葵上 梅若玄祥ほか
   
   九時少し前に終わったので、インド大使館裏の千鳥ヶ淵のお堀端に出た。
   夜間照明に照らされて、夜桜が電光に映えて美しい。
   人波は、6時の頃よりもはるかに多くなって、週末の夜であるから、これから賑わうのであろうか。
   お堀端の角に立って、写真を数枚撮って、家路についた。
   今年は、結構、花見を楽しめたと思っている。
   
   
   
   
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桜満開、春爛漫の新宿御苑

2015年04月02日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   久しぶりの好天で、風が穏やかなので、歌舞伎座の夜の部の観劇の前に、新宿御苑を訪れた。
   とにかく、ソメイヨシノが満開を迎えているので、大変な人出だが、オープンスペースが十分あるし、入園料を取っての公共公園なので、上野公園などのように場所取り風の光景はないし、それに、歌えや踊れのお花見ムードがないので、爽やかで良い。
   それに、新宿門を離れてイングリッシュ庭園の奥の方へ入れば、空いているのだが、まだ、バラにもプラタナスにも早いものの、フレンチ庭園の方は人出がかなり多い。
   
   
   
   
   

   私は、何時もの通り、新宿門を入ると、木々の間を抜けて、日本庭園の方へ向かった。
   茶室楽羽亭の前のピンクの枝垂れ桜が満開で、人々が集まって、記念撮影をしている。
   熱心なアマチュア・カメラマンが、三脚を構えて、人の波の切れるのをじっと待っているのだが、中々途切れない。
   観光地などで、決定的な瞬間の綺麗な絵葉書が売っているのだが、これらの写真も、必ず人が途切れる瞬間を辛抱強く待って撮ったものだと言う。
   
   
   
   
   
   

   次に行くのは、上の池の方だが、一寸高みの休憩所のところから、小さな小島のある方向へ向かっての景色が何時も、情緒があって良いので、ここで小休止する。
   この島へ太鼓橋が渡されていて、秋には、紅葉に映えてススキが美しいのだが、今日は、芽吹いたばかりの素晴らしい新緑の柳の木が、桜の白と、ヤマブキの黄色とボケやハナカイドウなどのピンクなどの春の色彩を従えて、美しく光り輝いている。
   
   

   目を左に転じて、対岸を臨む景色も桜や芽吹いた新緑の鮮やかなコントラストが美しい。
   まだ、ススキが残っていて、一寸した情緒を残している。
   
   
   

   上の池を渡って対岸に出ると、一気に狭くなるのだが、ここには、桜やハナカイドウや馬酔木やヤマブキなどが妍を競っていて、中々美しいのだが、顔をくっつけて記念写真を撮っている人がいるので写真にはならない。
   
   
   
   

   そこから、左に目を転じて高みを望むと、真赤な椿の大木が目に飛び込む。
   同じく右側に白い椿の大木が目に入る。
   その上に、ソメイヨシノが淡い霞をたなびかせている。
   この苑には、日本庭園の手前にツバキ園があるのだが、大きくなった椿の大木が密集していて、それ程美しくもないのは、光不足であろう。
   
   
   
   

   この新宿御苑には、ソメイヨシノ以外にも、色々な桜の木が植わっていて、真っ白な桜から濃いピンクまで、鮮やかで美しい。
   八重桜は、ちらほら咲き始めたのが、まだ、蕾が固くて、これからである。
   満開になるのは、四月の中旬であろうが、ぐっと人波がひくので、その頃が見所であろうか。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   

   私は、ソメイヨシノが、大きな幹から直接花房を伸ばして花を開いている風情が好きで、気が向くとカメラを向けている。
   
   
   
   

   新宿御苑に入ったのも、遅かったので、十分に散策できなかったのだが、人ごみを分けて、退出し、中村鴈治郎襲名披露公演の歌舞伎座に向かった。
   
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わが庭の歳時記・・・カイドウ咲きモミジ芽吹くetc.

2015年04月01日 | わが庭の歳時記
   一昨日、本覚寺のカイドウについて書いたが、わが庭のカイドウも開花し始めた。
   鈴なりのピンクの小さな花弁が可愛くて、桜とは違った華やかさがあって良い。
   本覚寺のような大木になると、個人の家の庭には不釣り合いなので、桜の木と同じように、コンパクトに仕立てなければならない。
   

   秋の紅葉は、春の桜に匹敵する華やかな花木だが、わが庭には、イロハモミジの大きな木が1本あるだけなので、私の好みで千葉から持ち込んだ獅子頭を2本庭植えにした。
   短い枝に縮れた小葉が密集していて、秋には真赤に紅葉する素晴らしいモミジなのだが、成長が遅くて、成長の速い普通のモミジと違って、中々大きくならないので、門の外と内の花壇に移植している。
   今年は、庭に根付いたので、綺麗に紅葉してくれると思っている。
   他に庭植えしたのが「琴の糸」と「鴫立沢」で、これは、葉芽が出始めただけで、まだ、手のひら状のモミジの形態をなしていない。
   

   椿は、エレガンス・シャンパンが咲き出した。
   花弁は、内側の蕊を囲む八重部分は黄色いクリーム色だが、外に向かうほど白くなるので、ほんわかとした雰囲気があって面白い。
   先日、咲き出したシュプリーム・エレガンスの仲間だが、やはり、欧米人好みの華やかな改良種で、小輪で一重の侘助椿を好む日本人の嗜好と大分違っていて興味深い。
   今年は、殆ど蕾をつけなかった式部も花を開いた。
   この椿も卜判系統の椿で、花弁が複雑な形をしていて、恐らく、西洋人好みの花であろう。
   沢山あった椿を、ほんの数株しか鎌倉に持ち込めなかったとなると、どうしても、変わった椿と言うことになり、何故か、洋椿が主体になってしまった。
   越の吹雪も、まだ、咲き続けている。この椿は、小磯のような凛とした赤い小輪で、斑入り葉が面白い。
   もう一輪、隠れていたのでき気付かなかったが、フルグラントピンクが咲いた。小さな八重の花が鈴なりになるのだが、鎌倉の土地にびっくりしたのか、全く蕾をつけなかった。
   
   
   
   
   
   
   
   下草は、クリスマスローズが、一気に株が大きくなって、花を沢山開いて、今盛りである。
   シャガが咲き出した。本覚寺の山際にも咲き乱れていたが、わが庭の花は、少し遅いのかも知れない。
   ハナニナ、スノードロップが、裏庭一面に咲き乱れている。
   
   
   
   
   

   面白いのは、門外の花壇に植えていたハボタンの塔が立って、頂点の花が菜の花状に咲き始めたことである。
   当分、菜の花として楽しめそうである。
   その下から、ポリアンサが咲き始めた。
   
   
   

   プランターに植えたままで冬越ししたイチゴが、花を咲かせて、結実し始めた。
   ツルの先端を伸ばして着稙したので、大分株が増えて、追加したプランターも一杯になった。
   
   
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