すこしそれる。連載早々寄り道をするのも気が引けるが。
ロシアとの距離感の取り方として明治維新以来二回の節目があった。今年は三回目の節目になりそうだだ。
一回目の節目は日露戦争に至るまでである。満州朝鮮と南下するロシアとの距離の取り方をどうするか。融和政策にするか、対決するか。伊藤博文は融和論であった。しかし日英同盟が出来たために対決路線を取ることが可能になった。
当時イギリスは南ア戦争でアジアまで手が回らず、日本に代理戦争をさせてロシアの勢力拡大を牽制できればとの思惑で日英同盟が出来たわけだ。日露戦争が始まると英国は忠実に義務を果たした。
戦争資金の調達に尽力したし、日本海に向かうロシアのバルチック艦隊がイギリス植民地で石炭ほかの補給をするのを拒否した。バルチック艦隊はよれよれになって対馬海峡に到達したわけだ。
二回目は言うまでもなく、太平洋戦争前に締結された日ソ不可侵条約だ。これは連合軍に対する敗勢が濃厚になるとアメリカがソ連を対日戦に誘い込みこれにソ連が乗ったためにまったく役に立たなかった。
なにしろ、日本は米軍が九州や本土に上陸したら天皇に満州に移っていただく案まであったのだから、タイミングによってもっとひどいことになった可能性もあった。アメリカとの和平交渉をソ連に仲介してもらおうとしたり、かなり信用していた(信用せざるを得なかった)。
第一ヒトラーがソ連に攻め込みその後ナチスが崩壊して欧州戦線が終結するまでソ連にはいずれにしても満州に攻め込む力はなかったから、日ソ不可侵条約はあってもなくても同じだった。そして肝心のときにあてにした不可侵条約は簡単に破られた。
三回目が今年ですよ。どうするか。安倍さんはクリミア後どうさばくか。秋田犬まで送ったんだ。もとを取らないといけない。非常に難しい。しかし、難しい局面をさばくのが政治家というものだ。