このところ”いじめ”で子どもたちが自殺しただの、学校がそれを隠しただのと、類別の つかない事件が頻繁に起きているようである。頻繁に起きているのか、集中的に報道されているのかは良くは解らないが、子どもたちが、可哀そうだとか、学校が隠匿したなどと毎日のように、新聞紙面を賑わしている。
いじめは、昔からあった。できの悪い子や何かしら問題のある子をクラス全体で、面白半分に差別したり、意地悪はしたことがある。自分自身もその対象になったこともあるような気ががする。気がするというのは、あまり大きな意味がなかったからである。現在と違うのは、陰湿ではなくしばらくの間だけだったことである。
問題は受ける側にもある。いじめで、自らの命を絶つ程の問題かどうかとは思う。子どもたちが弱くなったのかもしれない。良く言えば、感受性が高くなったのだろうか?
動物の世界でもいじめはある。乳牛でも集団で暮らしていると、強弱関係をはっきりさせるために、戦うばかりではなく、意味もなく食べるのを邪魔するような牛がいる。そういう牛は、概して弱い牛である。群れのリーダーは、覇を競うために力は見せることがあるが、弱いものいじめはしない。人と動物は違うという人もいるかもしれないが、基本的には変わることがない。
牛も人も、親など大人ののやることや社会一般に習い、見よう身真似して大きくなる。小泉政権以降一般的に言われるようになった、市場経済そのものが、弱いものいじめである。市場経済とは、一見強者は強者同士で覇を競っているようにみえるが、その実、弱者をお互いがどれほど食うことができるかを競っているのである。
子どもは社会の鏡である。何を映しているのか良く見ればいい。