このごろ「いじめ」が新聞を連日紙面を賑わしている。中学生や高校生のいじめといわれているもの は、いろんな理由をつけて仲間外れさすことだと思う。自分の幼い頃を考えても、こんなことは四六時中あった。
人は弱者を作るのが楽しい。優越感に浸れるからであろう。人は人間が社会生活している限り、相互の能力や認識レベルや体力や年齢や趣味などに差が当然起きる。
いじめは殆ど人間の本性である。いじめはなくなると思えない。いじめをなくそうと考えるよりも、いじめはなくならにと考えるほうが現実的である。いじめの質が問われることはあってもいいかも知れないが、いじめに耐える人間を作ることがもっと必要なことである。
アフガニスタンにはいじめによる自殺者などない。今まで学校など行くことができなかった子どもたちは、自ら望んででも行きたいからである。登校拒否が日常的にあるわが国は、学校の本質を見失っている。
もう1つ大きなことは、教師の怠慢と無自覚、建前主義である。この7年ほどはいじめの報告がなかったのは、教師側に隠蔽体質があるからである。私の実兄も教師であったが、友人の旅館経営者のは話では、宴会で大騒ぎをして仲間内でいざこざが始まるのは、教師か警察官であるという。一般社会から隔絶されたような存在、父兄に持ち上げられてそっくり返る体質が、教師の芯まで滲みている。「いじめんなんてなければいいのに・・・」と思っている教師たちは、自らの立場ばかり考え子供のことを考えていない。
ましてや、いじめや履修問題で、行き詰ると自殺する校長などもってのほかである。こんな程度の人間を校長にしたことこそ問題にしなければならない。