近親者に教師をやっていたものがいる。彼は校長までなったが、彼らの入学式などの発言集 を読む機会があった。なんと陳腐な内容であるかと愕然としたものである。抽象的で建前主義に終始している。
思い起こせば、私たちの幼い頃の校長先生の話はあまり覚えてはいないが、説教臭い内容だった記憶はある。が、それでも、一種の権威のようなものを子どもたちは感じてそれを受け入れていたのかもしれない。同じようなことを、校長はしゃべっているのかも知れないが、そのことのほうが問題である。時代が変わっても、そのまま抽象的で建前主義である。
子どもたちを通じて直接、教師たちに接する機会が多くなった時期、彼らに一種の潔癖さに違和感を覚えていた。多くの教師が、学業優秀で大学から直接教師になっている。早い話が社会のことをなど知らないのである。
教師の質は確かに低下している。もしくは、時代を捕らえられない教師が増えていることも事実である。氾濫する情報の中で子どもたちは、良い悪いは別にして、沢山の知識を持っている。ものによっては、子どもたちのほうが明るいことも少なくない。
私が父兄会で、購入希望を問われたときにワープロを買って欲しいと頼んだことがある。ところが、ワープロを触れる教師がいないという理由で、鉛の活字を一個づつ拾う”邦文タイプ”を買うことになった。ワープロを5台ほど変える金額だったが、すぐに使われなくなった。使用していた高齢の教師が退官したのである。今ではワープロも使う人がいないくらいである。
仕事上などで、官僚に接する機会も多くなって、彼らの持つ「無謬性」にはうんざりしたものである。官僚には間違を犯さない自負、もしくは硬直性である。教師にも少なからずそうした傾向が見られる。困った意見を父兄が言おうものなら即座に「参考意見」にされてしまう。
教師には自己改革意識、時代を捕らえる感覚、責任をなんとか逃れようとする意識、権威への従順性が強く見られ、そうした人物が出世するシステムになっている。