中国産の農薬入り”ギョーザ”が、日本の食の安全と、自給に投げた問題は小さくない。ここまで来て始めて気がついたのかと思いたいが、土地から離れたのが、常態の都会人にはわからないだろう。
安価な商品を求めて、日本は海外に商品を求める。食料もそうである。1962年の食糧基本法は、「農家にも都会並みの所得を」がうたい文句であった。が、実態は農業者の所得を上げることができず、都会へと送りこむ結果になった。
農業者の所得は、極端に抑え込まれ、海外の安価な農業労働者の生産する、農産物が日本の食卓を占拠し始めたのである。
日本は高度経済成長時期に、生産性の上がらない農業・食料を一般商品と同等に市場経済に委ねたのである。価格で評価された商品に、「安全」を求めるのはいささか虫のいい話である。
「安全」なものが「安価」であるはずがない。生産者は、安価を求められると安全を犠牲にする。当然である。
さらに、この2年間のオーストラリアがいい例である。干ばつで、輸出する小麦がなくなったのである。彼らは、食べるに困るほどの量を生産できなかったのではない。輸出する余力がないだけである。
オーストラリアが国内消費を優先しただけである。讃岐うどんが生産に困っているらしい。輸入物でつくるのが"讃岐"うどんとは、偽装とも思えるが、食料は安全という"質"とともに"量”も確保されなければならない。
日本はこれらの双方を無視して、食料を市場原理というモンスターの前に投げ出し、壊滅させようとしているのである。安価で安全な物などない。
安価なギョーザを中国の安価な労働力で生産できるのも、彼らの労働力が安価なうちだけである。経済成長をして、輸送コストが嵩むようになるとそれもかなわぬことでもある。
さらに、長距離の輸送がもたらす温暖化効果も無視できない時代になっている。食料の自給率を下げることが、輸入した食料を廃棄しながらダイエットに励む、この国をいびつな国家に仕立て上げたのである。
食糧を自給できない国家は独立国家ではない。安価の中に安全は存在しない。