今日は”終戦の日”となっているが、終戦の日はもっと先である。正確に表現すれば、今日は日本がポツダム宣言を受け入れたことを次の日の正午に、国民に知らせた日である。戦争が終わった日などではない。
戦争が終わるのは、翌月9月2日東京湾洋上でのミズーリー号での降伏文書の調印である。精一杯おめかしした日本の全権団が奇妙にも見える。終戦の日はこの日である。降伏文書には、天皇が7月26日に示された、ポツダム文書を受け入れると冒頭にある。
日本が占領統治した国々の中国や朝鮮半島や台湾やインドネシアなどは、実質的に8月15日で差しさわりはない。ほぼ日本兵は武器を捨ててその地の権力に従った。
しかし、ヤルタ会談でドイツ降伏後90日後日本に参戦するとしていたソビエトにはそんな理屈など通らない。スウェーデン大使館の諜報員小野寺信の、再三の通告を握り潰して、日本は沖縄の壮絶を極めた地上戦、2発の原爆投下、日本各地での無数の空襲を受けて、地上戦さえ軍部は模索していた。そんな日本にスターリンの奸計など及びもつかず、連合国との仲介を依頼していたほどである。
スターリンはちゃんと約束を守り、8月9日に宣戦布告して来た。小野寺信の通告通りである。ポツダムという場所をスターリンは連合国に提供はしたが、宣言には不可侵条約で友好国関係にあったソ連は入っていない。
ソ連は参戦後は、極東の不登校を得たり、シベリア開発のためなどソ満国境を越えて、樺太国境を越えてそして千島列島へと侵攻した。終戦の日まで。
日本人の多くは、終戦後にも拘らずソ連は満州、南樺太、千島列島へと軍を進めたと思われているかもしれないが、これこそポツダム宣言にもカイロ宣言にも名を連ねていないソ連スターリンの奸計である。
カイロ宣言とは、日本敗戦後台湾や満州や朝鮮半島を元には戻すが、新たに領土を拡大しないという宣言である。ソ連はそれをも破って攻め入ってきたが、ソ連はこの宣言に名を連ねていない。
8月15日は何だったのか?日本の官僚や軍部が、責任逃れのために戦争犯罪につながる公文書を燃やすことのできた機関といえる。それはマッカーサー連軍司令長官が厚木に降りる30日まで続いた。戦争が終わった焼け跡に立ち上がる焚書の煙は夥しかったと言われている。
日本の官僚も軍部もスターリンの奸計に気が付いたのか、8月15日を終戦の日にしてしまった。戦後処理の不都合なことへの対策期間にはなったが、終戦の通告をソ連にだしていなかったつけを隠すために、8月15日を終戦の日にしなければならなかったのである。