水俣病を最底辺から見つめ告発し続けた、石牟礼道子さんが亡くなられた。晩年はパーキンソン病を患いながらも、筆を休めることはなかった。90歳になられていた聞いた。心悼む訃報である。
彼女は歌人であったことと女性であったことが筆力を高め、患者の怒りの深さや不条理の深刻さと慟哭が、多くの人の共感を得た。女性としての言葉と歌人としての和風な表現は、深い水俣の患者たちの存在をこの世に問い続けていた。その代表作『苦海浄土 わが水俣病』は、水俣病を鎮魂の文学として描き出した作品として絶賛され、第1回大宅壮一ノンフィクション賞を与えられたが、彼女は受賞を辞退している。
この国は何時の時代も、不条理や組織的犯罪行為は告発されるまで、知らぬ存ぜぬを貫き権力に助けを求める。告発者を社会悪の存在と追い込もうとするのである。安倍晋三が昭惠夫人と表裏一体だった、森友夫婦を悪の権化のように切り捨てるのも同じ現代の構図である。
水俣病はまさしくそうした事件である。石牟礼氏の筆力はそれに見事にこうしたのである。壮絶な闘争の現場でも彼女の告発は、チッソの不条理を突い続けた。日本近代化のモルモット、捨て石に置かれた患者たちの側から彼女は逃れることもなかった。
石牟礼氏は1968年「水俣病対策市民会議」の結成に参加し、69年の水俣病第一次提訴以降患者らによる原因企業チッソとの自主交渉にも加わった。70年代前半の初期闘争では、患者への支援活動にも深く関わっている。
そして、いまだにチッソによる水銀中毒とは言わずに、単に”水俣病”と言う不可思議さは残されたままである。現に通俗に沿って私も水俣病という言葉を使っている。水俣病という病気などではないのである。発病から告発までの長さを、水俣病といい続けることが物語っている。
6年前に亡くなられた医師の原田正純とともに、石牟礼さんの訃報は、水俣病が新たに自らで歩きださなければならない時代に入ったと言える。2年ほど前の、ETV特集での石牟礼道子氏の変わらぬ姿勢と言葉を見て、彼女の衰えることのない人柄を見た気がする。対比して、水俣病は克服されたと言ってはばからない、低俗で無知な安倍晋三が哀れみえてならない。
石牟礼道子さんの死を悼みご冥福を祈りたい。