詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

長谷川龍生「手に把った道路地図をひざに滑(すべ)らせて」

2012-01-02 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
長谷川龍生「手に把った道路地図をひざに滑(すべ)らせて」(「現代詩手帖」2012年01月号)

 私は「誤読」が大好きだ。だから「誤読」を拒絶した詩に出会うとはっとしてしまう。東日本大震災後の青森を行く長谷川龍生「手に把った道路地図をひざに滑(すべ)らせて」は「誤読」を拒絶した詩である。

原燃輸送の場所を見つける
日本通運もあった 中継ポンプ場もある
ポンプ いったい何だろう
先端分子生物科学研究所もある
沼が三つ 尾駮(ぶち)沼 鷹架(ほこ)沼 市柳沼
淡水鰊の獲れた尾鮫沼を右手に見て
一直線に運搬専用道路
日本原燃再処理事務所に入る
再処理事業部 再処理工場
高レベル放射性廃棄物貯蔵センター
低レベル放射性廃棄物埋設センター
日本原燃本社 ウラン濃縮工場
保障措置センター 環境科学技術研究所

レベルは 高 低 二つに分けられている
貯蔵と 埋設 これも言葉がちがう

 「言葉がちがう」とき、そこには「誤読」してはならない「ちがい」がある。「もの」、あるいは「考え方」が違えば「言葉がちがう」。
 それはあたりまえのことなのかもしれないが、そのあたりまえの事実の前で、私のことばはたじろぐ。
 たとえば「高レベル」「低レベル」の「高低」。それは確かに違いをあらわしているのだが、私の肉体はその「高低」を実感できない。納得できない。それを肉体で納得できる人がどれだけいるのかわからない。肉体で納得・理解できるのは、放射性物質に触れた人間の、何年後かのことかもしれない。そういう肉体で納得・理解できないものを、私たちは、いま、納得・理解しなければならない。そして、それを絶対に「誤読」してはならない。
 「貯蔵」と「埋設」。貯めておく、埋めてしまう。貯めておける、埋めてしまわなければならない。肉体では見分けのつかない「高レベル」「低レベル」をきちんと区別し、その処理も区別しなければならない。
 何によって。どのような方法で。
 これは、すぐにはわからない。--私には、わからないが、長谷川もわからないまま、手探りで書いているように思える。
 わからないから、いま/ここにあることばを、そのまま正確に写している。転写している。固有名詞をそのまま転写している。そして、この転写には、「誤読」はしないぞ、という強い決意があふれている。強い決意が、固有名詞とぶつかりあっている。
 それは

ポンプ いったい何だろう

 に象徴的にあらわれている。
 「ポンプ」ということばを長谷川は知っている。しかし、それがいま/ここで何を意味しているかわからない。ことばを知っているが、いま/ここにある「意味」がわからない。「意味」を知らない。
 ことばのなかに、「知っている」と「知らない」がいっしょに存在している。そういう「矛盾」を長谷川は「正確」にみつめる。「誤読」しない。「誤読」を拒否して、「知っている」と「知らない」のあいだなかへ入っていこうとする。

レベルは 高 低 二つに分けられている
貯蔵と 埋設 これも言葉がちがう

 この2行も、そういうことを語っている。「高/低」「貯蔵/埋設」のことばの「意味」は知っているつもりだった。いや、知っていたはずである。しかし、いま/ここにある「高/低」「貯蔵/埋設」は、知っているとは言えない。
 いま長谷川に言えることは、いま/ここにある「高/低」「貯蔵/埋設」は、それぞれが違うことを「意味」しているということ。「言葉がちがう」のは、そのことばをつかいわけた人がいる。つかいわけによって「意味」をつくりだしている人がいるということである。
 長谷川は、その違いをつくりだしているひとではない。だから、その「意味」を説明はできない。だが、そこで動いている「意味」があるということを、真剣に洗い出そうとしている。
 「誤読」せず、正確に。
 しかし、どうやって先へ動いていけばいいのだろう。
 だれか知らない人がつくりだした「高/低」「貯蔵/埋設」の違いをねこそぎひっくりかえし、自分にわかることばにできることばにできるのだろうか。
 どうやって、ことばの肉体を動かしていけばいいのだろうか。

 私は、結論を想定せずに書きはじめるせいか、どうしても途中でことばがうごかなくなる。脇道へそれてしまって、そこでとまってしまう。
 いまも、そういう感じだ。
 で、ちょっもどってみる。

 だれか知らない人がつくりだした「高/低」「貯蔵/埋設」の意味と闘うためには、「肉体」以外のものが登場して来なくてはならない。簡単に言うと「頭」が登場して来なくてはならない。
 「放射性廃棄物」そのものが「肉体」で直接触れて確かめられるものではない。確かめられるかもしれないけれど、そうしないことになっている。
 何が必要なのか。
 その何かは、普通の暮らしをしている私にはわからない。科学的知識がない。判断のしようがない。
 でも、では仮に「高/低」「貯蔵/埋設」の意味をつくりだした「頭」を長谷川が手に入れれば、問題は解決するのか。
 そうではない、と思う。
 「頭」を肉体で乗り越えなければならない。
 「高/低」「貯蔵/埋設」の意味をつくりだしているものを、超えなければならない。でも、どうやって--とそこでまた同じ問題が繰り返される。

 ここから、どうやって「肉体」へ帰るか。
 どうやって詩へ帰るか。
 長谷川は、「高低」「貯蔵」「埋設」を「言葉がちがう」としか理解できないと自覚した上で、「言葉のちがい」ではなく、肉体が知っていることばをつかって、その知っていることの向こう側というか、先へと動いていく。動いていこうとしている。
 ここから詩が動く。
 「誤読」を拒絶した長谷川のことばが動いていく。

これが尾鮫だ
青森県上北郡六ヶ所村大字尾駮
文化交流プラザーもある

はじめは ぼんやりしていたが
手に把った道路地図をひざに滑らせて
しだいに 描く風景が 顛倒する

顛倒するということは
正しい道理が失われて誤っていることだ
嫌な方向へ 悪い方向へ 想像する力を
高めて往って 局地に追いこめてしまう
無策 無能力 傍観者の極まりのぼく自身

 「顛倒する」とは「誤読する」は、どこが違うか。
 「誤読する」とは「正しい道理」を見失い、「誤る」ことである。--と書いてしまうと、「顛倒する」と「誤読する」は似たものになってしまう。
 「誤読する」は積極的にことばでいま/ここから離れてしまうことである。
 一方「顛倒する」は、いま/ここにとどまることである。つまずき、たおれ、もがき、その倒れた場所から何かをつかみ取る。
 --ということは、ことばで書くのは簡単だが、ほんとうはそんな具合にはいかない。「顛倒する」、「顛倒」してしまえば、どうしたって、「無力」「無能力」をしらされる。そして、「傍観者」になってしまう。ならざるを得ない。
 倒れたところからすぐに立ち上がることはできない。
 だから、その「場」にもぐりこむ。自分の「肉体」にもぐりこむ。

 長谷川は、長谷川の肉体の奥にもぐりこむようにして、ことばを動かしている。「頭」ではなく、「肉体」でことばを動かしている。「嫌な方向」の「嫌な」という「非論理的なことば」が、長谷川のことばの出所を明確にしている。
 「非論理的」というのは、その「嫌な」が、たとえばその前にでてきた「高レベル」「低レベル」と比較すればわかる。「高低」のように科学的な数値では測れない何かが「嫌な」である。それは「頭」ではつかみきれない。「肉体」の記憶でしか(肉体の歴史でしか)つかみきれない。
 で、「無力」の「肉体」にまでことばを還元していったとき、いま長谷川のいる、いま/こことついう「場」を通り抜けていった「肉体」が思い出される。その「肉体」を長谷川は自分の肉体としてよみがえらせようとしている。
 おぼえていることが、長谷川の肉体の底から沸き上がってくる。「肉体」の記憶が、長谷川と他者をつなぐ。

かつて尾駮には 巡検使に従って
古川古松軒が困難をこえて訪れてきた
「尾駮という所は ようよう十二軒ある村なり」と、一七八八年に言っている
菅江真澄が一七九二年から三年間
下北に滞在し 牛の背にのって
尾駮の牧を目ざしている 習俗を狙う
伊能忠敬が一八〇一年 六ヶ所をふくむ陸奥に至る東海岸を測量している 同年十二月に尾駮村を測っている
松浦武四郎も一八四四年に下北の先端から
六ヶ所地方に入り「東奥沿海日誌」を書いている
南部藩士漆戸茂樹も一八七六年に紀行地理書を書いている 藩の新当流師範役
この五人は 苦役 国難に立ち向って 動いていたのだ エネルギーをきびしい個性に生かして この地方が気がかりだった
この五人のエネルギーを 自身に惹きつけなければならない 人の心をひらく

 あ、五人の先駆者がいるのだ。五人は「ここ」をとおった。そして「ここ」を発見している。「ここ」を自分の「肉体」そのものとした。「知っている」ではなく、「おぼえている」に変えた。
 この五人は放射能と立ち向かったわけではないが、尾駮の地で、自分の肉体を動かした。肉体を動かして、その土地の人と接した。
 そこには、間違えるはずのない「答え」がある。
 肉体は間違えない。
 肉体はことばで区別しないのだ。そこにあるものは、ことばでしかとらえられないものかもしれない。けれど、そのことばが「顛倒」させたものを、もういちど立ち上がらせるには、ことばではなく「肉体」が必要なのだ。肉体から出発することばが必要なのだ。
 長谷川はこの詩で「答え」を出しているわけではない。
 手がかりになるものをつかんでいる、だけかもしれない。
 しかし、やはり「手がかり」以上のものがある。
 長谷川は五人と向き合うことで、ことばを立て直そうとしている。そのときの、きびしいことばの響きが、ここにある。





立眠
長谷川 龍生
思潮社

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