詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

大谷良太『今泳いでいる海と帰るべき川』

2009-08-15 11:22:21 | 詩集
大谷良太『今泳いでいる海と帰るべき川』(思潮社、2009年07月25日発行)

 大谷良太『今泳いでいる海と帰るべき川』は散文詩である。散文ほんらいの特徴というのは論理の積み立てによってことばが加速して、いま、ここから離脱していくことだが、大谷の散文はすこし違う。いま、ここから離脱して、どこかへ行くのではなく、いま、ここを解体する。散文なのに、ことばを積み立てない。積み上げない。ことばを組み立てている何かを解体する。そして、こわれていく先に、いま、ここの危うさを浮かび上がらせる。

 「熊」という作品はキッチンにまぼろしの熊を飼っているという詩だが、この熊のことは深くは描かれない。つまりカフカの「変身」のように深くは描かれない、という意味だが。熊を中心に日常がすこしずつねじまがってゆくという具合には描かれない。そのねじまがりぐあいのなかに、現実の問題が描かれるという具合にはことばは動かない。
 そのかわり、熊ということばとともに、一気に現実が、日常が解体していく。

私は孤独なそいつに観察されながらハイネケンを傾けていた。誰かにそのことを話したい、誰だってかまわない。無性に思う。「きみは熊を飼っているかい? そいつは人なつっこいかい?」

 「私」は孤独である。話し相手が「誰だってかまわない」と思うくらい、孤独である。この人にだけはわかってもらいたいというような、深い孤独ではない。「私」がかかえている空虚な孤独が、「きみは熊を飼っているかい? そいつは人なつっこいかい?」ということばとともに投げ出される。どんな悩みでも深刻な悩みは、あらかじめ質問者の内部で答えが用意されていて、その答えにあうかあわないかが、重要なのだ。「やっぱり」か、「そんなはずはない」か、たいていの場合は、どんな答えにしろ、その両方の感想を持ってしまうのが深刻な孤独の悩みだが、大谷の描く孤独は、そういう領域へは踏み込まない。
 ただ、そう言ってみたいのだ。そして、答えとしては「きみは熊を飼っているかい? そいつは人なつっこいかい? だってさ」という反応しかないのだ。
 この空虚なやりとりを、たとえば「透明な空虚」と呼ぶと、とたんに詩らしく(?)なるのは、不思議だ。きっと、詩は、いま病気なのかもしれない、とふと思った。

 詩集のタイトルとなっている「今泳いでいる海と帰るべき川」は一緒に暮らしている女と男のことを描いている。そこには「熊」の話が別の形で出てくる。

生鮭をムニエルにしながら、彼女は考える。そして話してくれる。「わたしが育った川はどこなんだろう? わたしが帰る川はどこなんだろう?」バジルの壜を手に持ったまま、私もしばらく考えてみる。少なくとも、今泳いでいる海を私は知っていると思う。けれど彼女が知りたいのは帰るべき川のことだ。

 「私」が「海」と呼んでいるものは、現実の日常である。それは日常世界の比喩である。彼女が「川」と呼んでいるのも比喩である。比喩と比喩が、ここではすれ違う。つまり、その比喩の海と川を泳いでしまう鮭の存在によってかろうじてつながっているのだが、それはつながっているというよりも逆に二人を別々の方向へ解体してしまう。少なくとも、「私」は鮭によって川と海がしっかり結びついているのではなく、「私」には川のことがわからない、そのわからないことを間にして「私」は「彼女」と、いま、ここにいる、ということが浮き彫りになる。
 この関係の、一瞬の希薄さ。空虚さ。透明さ。

 たぶん、「せつなさ」ということばで、大谷のことばを読み直せば、もっと違った形で感想を書けるのだと思う。その方が、きっと大谷の詩の本質に触れることになるとは思うのだが、抒情の構造が、散文という形式をかりたために強く表にでて、「現代詩」になりすぎている感じがする。



今泳いでいる海と帰るべき川
大谷 良太
思潮社

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