詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田村隆一試論(3の補足)

2011-09-14 23:59:59 | 田村隆一
田村隆一試論(3の補足)(「現代詩講座」2011年09月12日)

                --「講座」で話したことの補足。あるいは整理。
 
帰途

言葉なんかおぼえるんじゃなかった
言葉のない世界
意味が意味にならない世界を生きていたら
どんなによかったか

あなたが美しい言葉に復讐されても
そいつは ぼくとは無関係だ
きみが静かな意味に血を流したところで
そいつも無関係だ

あなたのやさしい眼のなかにある涙
きみの沈黙の舌からおちてくる痛苦
ぼくたちの世界にもし言葉がなかったら
ぼくはただそれを眺めて立ち去るだろう

あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか
きみの一滴の血に この世界の夕暮れの
ふるえるような夕焼けのひびきがあるか

言葉なんかおぼえるんじゃなかった
日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで
ぼくはあなたの涙のなかに立ち止まる
ぼくはきみの血のなかにたったひとりで帰ってくる

 1連目と2連目は、ことばの省略の仕方が違っている。1連目は2連目のように書くと、

言葉なんかおぼえるんじゃなかった
言葉のない世界を生きていたら
どんなによかったか
意味が意味にならない世界を生きていたら
どんなによかったか

 このことから、「言葉のない世界」と「意味が意味にならない世界」が田村にとって同じものであることがわかる。そして、「言葉のない世界」と「意味が意味にならない世界」を「生きていたらどんなによかったか」といっていることから判断すると、1連目は、私たちは実は「言葉のある世界」「意味が意味になる世界」を生きていることをあらわしている。
 「言葉のある世界」。これは、わかりやすいですね。実際に、私たちはいま、こうやって「言葉」をつかっている。これが「言葉のある」世界。
 田村は、そうじゃない方がよかったのではないか、といっている。

 2連目は、

あなたが美しい言葉に復讐されても
きみが静かな意味に血を流したところで
そいつは ぼくとは無関係だ

 このことから「あなたが美しい言葉に復讐され」るということと、「きみが静かな意味に血を流」すということが同じものであることがわかる。

受講生「あなたは恋人(女性)で、きみは同士(男性)ではないのですか?」

 「あなた」と「きみ」は「ひと」が違うが、それは1連目の「言葉」と「意味」の違いのようなもので、田村の意識が問題にしているのは、「あなた」「きみ」以下の部分、つまり「美しい言葉に復讐され」る、「静かな意味に血を流」すということだと思う。
 「美しい言葉=静かな意味」「復讐される=血を流す」という具合に、田村は言い換えている。
 「(美しい)言葉=(静かな)意味」から「言葉=意味」という関係が浮かび上がる。これは1連目の「言葉のない世界=意味が意味にならない世界」の言い換えになる。

 1連目の「主語」は書かれていないが「ぼく」。「ぼく」が「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」と思っている。
 2連目で「復讐される」「血を流す」のは「あなた、きみ」であり、「ぼく」ではない。「ぼく」はそれとは「無関係」だといっている。わざわざ「無関係」というのは、「美しい言葉」「静かな意味」と「ぼく」が関係があるからだ。
 「ぼく」は「言葉をおぼえ」、「美しい言葉」を書き、そこから「静かな意味」が生まれた。その結果、「あなた(きみ)」が復讐され、血を流した--ということが起きたけれど、それは「ぼく」とは無関係だといっている。
 原因(美しい言葉、静かな意味)に「ぼく」が関与しているのに、「無関係」を主張する。
 それは、なぜか。
 「意味」というものはどういうものか、ということに関係している。
 1連目で、田村は「意味が意味にならない世界」と書いていた。「意味が意味になる」ということがあって、反対に「意味が意味にならない」がある。
 「言葉のない世界」に生きているわけではなく、「言葉のある世界」を生きている。同じように、「意味が意味になる世界」を私たちは生きている。

 この「意味になる」というのは、わかりにくい表現である。「意味」という言葉が出てくる別な行、

あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか

 ここでは「意味がある」という表現がつかわれている。
 意味に「なる」、意味が「ある」。
 「なる」と「ある」を田村は明確に区別している。
 「美しい言葉」のなかには「静かな意味」が「ある」。けれど、そこに「ある」意味が、別の「意味」になって、「あなた」や「きみ」に「復讐してきて」、「あなた」や「きみ」は血を流すことになる。
 このとき「美しい言葉」が「乱暴な意味、ひとを侮辱する意味」に「なって」ではなく、「静かな意味」になって、復讐する、血を流させるといっていることが重要。
 「美しい」と「静か」はそっくり同じではないけれど、似通っている。似通っているけれど、違っている。「美しい」を「静か」と言い換えたとき、田村は「美しい」を「美しい」よりもさらに深いもの、美しいものに何か別なものがプラスアルファされた状態に「なっている」といいたいのだと思う。単なる「美しい」ではなく、「美しい」+アルファ。
 「ぼく」の言葉を、「あなた」や「きみ」は「美しい」以上のものとして受け止めた。「美しい」+「静か」な「意味」と「なった」ものとして受け止めた。
 「復讐される」というのは、予想しなかったことに襲われるということになるかもしれない。

 2連目の、「あなたが美しい言葉に復讐されても」と「きみが静かな意味に血を流したところで」の「復讐」された状態、「血を流した」状態は、3連目の次の2行の形で言いなおされている。

あなたのやさしい眼のなかにある涙
きみの沈黙の舌からおちてくる痛苦

 そっくりそのままイコールで結べる関係ではないけれど、「あなたのやさしい眼のなかにある涙」は、「あなたが美しい言葉に復讐されて、あなたは涙を流す」という具合に読むことができる。
 「きみの沈黙の舌からおちてくる痛苦」は「きみが静かな意味に血を流し、その痛苦こらえて沈黙している」という具合に読むことができる。「舌からおちてくる痛苦」は「舌からおちてくる血」、「痛苦=血」だと思う。「涙が流れる」「血が流れる」と同じように「涙がおちる」「血が(滴り)おちる」という言い方がある。
 「涙」と「血」は、この詩のなかでは、「言葉」と「意味」のように、似通ったものとして書かれている。
 声を上げない--つまり沈黙しているとき、血は涙のように肉体の外へ流れるのではなく、からだの内側におちていく。それが「痛苦」。そのとき感じているのが「痛苦」。
 「涙」と「痛苦」は、涙は外に流れて見える、痛苦は内部に隠れていて見えないということになる。ひとの痛みには「見えるもの」と「見えないもの」がある。
 言葉や意味は、一種、「見えないもの」だけれど、それは人間に「見える」変化もおこさせるし、「見えない」変化もおこさせる。

 「涙」と「血」は、次の連でまた出てくる。

あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか
きみの一滴の血に この世界の夕暮れの
ふるえるような夕焼けのひびきがあるか

 1連目、2連目を書き換えて読み直したときのように、この連を書き直すと、

あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか
きみの一滴の血に この世界の夕暮れのほどの意味があるか

 になると思う。
 「夕暮れの意味」というのは、あまりにも抽象的すぎてわかりにくい。「果実の核」が具体的なもの、見えるものなのに「夕暮れの意味」はわからない。だから、そこでもう一度「夕暮れの意味」を田村は言い換えている。

ふるえるような夕焼けのひびきがあるか

 これも抽象的だけれど、「夕暮れの意味」よりは、何かを感じさせる。夕焼けは赤い。それは血の色に似ている。夕暮れ、夕焼けというのはなんとなくさびしい。そして、静かだ。その静かな夕焼けのなかに、音楽のようなもの、聞こえないのだけれど、ひとをいっそうさびしくさせるような何かを感じる--それを感じさせるものが、「意味」ということになる。
 これは、また逆な言い方もできる。
 「あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか」というときの、「意味」とは何?
 やはり具体的にはわからない。果実の中心とか、果実のいのちを支えているものとか、言い換えることができるけれど、それを「意味」といいきるには、ちょっとむずかしい。果実の核はあくまで果実の核であって、「意味」というものではない。

 1連目で「言葉」と「意味」が似通っていることを確認した。2連目では「美しい言葉」と「静かな意味」が似ていることを確かめた。「復讐(される)」と「血を流す」も似ていた。そして「涙」と「血」「痛苦」も似たものであった。
 この似ている、似通っている--というのは厳密な論理ではない。なんとなく感じるもの。感覚の世界。哲学のような厳密な論理ではなく、あいまいな「なんとなく」の世界。まあ、これが「文学の言葉の運動」。

 そして、この似通った「涙」「血」という言葉をつかって、田村は、もう一度「説明」し直している。田村がいいたいことをもう一回繰り返している。

ぼくはあなたの涙のなかに立ち止まる
ぼくはきみの血のなかにたったひとりで帰ってくる

 「あなたの涙」は「あなたが美しい言葉に復讐されて流したもの」、「きみの血」は「きみが静かな意味に(傷ついて)、そこから流れた血」、あるいは「きみの沈黙の舌から(血のように、きみのからだのなかに、滴り)おちてくる痛苦」。
 その「涙」や「血」、「言葉」と「意味」によって傷ついた(感動した)もののなかへ帰ってくる。その「涙」や「血」と「一体」になる。

 このことは、しかし、田村の言葉を読んだ「あなた」や「きみ」と「一体」になる--というだけではない。
 言葉を読み、意味を感じ、そして感動するということは、田村自身も体験することだと思う。誰かの言葉を読む。日本の作家、詩人もあれば、外国の作家、詩人のことばもある。そういう言葉を読み、感動すること--。
 それを思い出している。
 「あなた」「きみ」は田村自身でもある。
 たとえば「あなた」がドストエフスキー、「きみ」がエリオットかもしれない。その人たちの言葉のなかには、言葉がもっている意味、ドストエフスキーやエリオットがつくりだした「意味」のなかには、やはり人間の「涙」や「血」が流れている。
 その中へ、田村は「帰っていく」。
 「帰っていく」というのは、それがはじめて知る「涙」や「血」であっても、人間全員に共通しているものだからだ。いわば、「涙」や「血」ということばであらわされているのは、人間の感情の「ふるさと」。
 そこへ帰っていく。そうして、田村はドストエフスキーになる、エリオットになる。
 言葉はそういうことをするためにある。

 で、そういうことをする言葉--それをおぼえるんじゃなかった、というとき、これは田村独特の反語というか、逆説になる。
 言葉を知れば知るほど、読めば読むほど、人間の感情はきりがなく増えていく。知らなかった哀しみを知る。自分の哀しみではない哀しみに涙を流し、自分の痛苦ではない痛苦にこころの血を流す--どこまでも哀しみ、どこまでも苦しまなくてはならない。
 これは、つらい。
 でも、このつらさが、文学の楽しみだね。




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田村 隆一
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田村隆一さんの詩 (森田拓也)
2011-09-15 19:17:16
谷内様

こんばんは。おじゃまします。

谷内様の、田村さんの詩の、読解、いつも、
とても、感動して、刺激を、受けさせて、
いただいております。

僕は、こころが、しんどい時、特に、
「荒地派」の詩人さんの詩を、読むのですが、
とても、心が、救われる、気持ちになります。

田村さんの「帰途」を、読んでいますと、
言葉に対して、一見、否定的に、読めますが、
田村さん、ご自身は、詩との、出会い、
詩を通しての、自らの、感受性の表現に、
とても、田村さん御自身、救われておられたのでは、ないかと、想像しております。

孤独でありながらも、血の中に、帰ってくる。
これは、田村さんに、とっての、こころの、
救いのような、そんな、気がします。

田村さんの詩、谷内様の詩の読解に、
出会わせていただいて、こころが、
救われております。

田村さんも、天国で、谷内様に、
拍手しておられると、感じます。
僕も、いつか、谷内様のように、
素敵な、詩の読解が、できるように、
なりたいです。

ありがとうございます。
返信する
コメントありがとう (谷内)
2011-09-16 00:04:00
森田さん、コメントありがとう。

「帰途」のときはあまり時間がなくて、私が喋りつづける部分が多かったのだけれど、私の講座(?)は、みんなでいっしょに詩を読むもの。
私が、いろいろ質問して、帰って来た「答え(反応?)」を手がかりに読み進みます。
だから、どこへゆくかわからない。
私がリードするような形になってしまう部分が多いのだけれど。

和田まさ子の詩を取り上げたときは出てくる「先生」が男か女か、半々の反応があったので、とてもおもしろかった。

詩は、いったん書かれてしまえば、もう作者のものでもない。
読み手がどんなふうに読もうとかまわない。
どこまで好き勝手に読めるかなあ、ということを「目標」にしています。

次回は茨木のり子を取り上げます。
返信する
田村隆一試論「3の補足」 (大井川賢治)
2024-03-01 11:56:32
ある詩の1行を読むと、ああ、田村隆一の詩だなと思うことがあります。私の感覚は、単なる幼稚な呟きですが、それは、力強い断定なんだろうなと思っています。
返信する

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