松井啓子『くだもののにおいのする日』(ゆめある舎、2014年12月25日発行)
松井啓子『くだもののにおいのする日』(ゆめある舎)は新装復刊版。初版は1980年05月21日に駒込書房から発行されている。私は駒込書房から出た詩集を読んでいないのだが、こうやって新装復刊版を読むと、詩の不思議さをあらためて思ってしまう。詩はいつもそこにあり、生まれたままの姿で、気づかれるのを待っている。けっして消えてしまうことはない。論語の「学びて時に習う、また説ばしからずや。朋遠方よりきたるあり、また楽しからずや」も思い出す。読み返すと、また違ったものが見えてくる。友達といっしょに、そのことばをくりかえしてみる楽しさ。そんなこと思ったりする。初めて読む詩集がいま発行されたものではなく、30年以上も前に発行されたものだと知ると、なおさらそういう気持ちになる。
巻頭の「それではこれは何ですか」には「りんご」が何度も出てくる。
「りんご」しか出て来ない。「わたし」「遠縁のおじさん」「あなた」「皿」「フォーク」もことばとしては登場してくるけれど、消えてしまってりんごだけになる。この変化が、妙におもしろい。何かをくりかえしていると、そのくりかえした「もの」と「ひとつ」になってしまう。「違い」がきえて「ひとつ」になってしまう。
こういう「体験」が、詩なのだと私は思う。
「わたし」がいて「りんご」がある。二つの存在。「わたしのものですか」違います。「遠縁のおじさんが わたしに/買ってきてくれたものですか」違います。「わたし」と「りんご」との「関係」がひとつずつ否定される。「関係」が否定されると、その「関係」の一端である「わたし」が少しずつ消えていく。「無」になる。
この詩は詩なので(?)、つまり論文や何かなのではないので論理(?)はそのあとかなり飛躍するのだが、同じことが「あなた」「皿」「フォーク」にも起きる。ある存在と別の存在を区別するときの「関係」が消えてしまって、ただ「りんご」がある。「わたし(自我)」というものが無くなって(無我の境地?)、そこに「りんご」がある、というただそれだけのことになる。
その瞬間の、ぱっと自分が内部から破裂して、「わたし」のいた場所が「空」になって、そこへ「りんご」が入り込む感じ。
これはことばにしてしまうと、とても簡単なことのように思えてしまうが、むずかしいね。何度も何度も繰り返さなければならない。一度「りんご」になってしまっても、それをことばにすると、こんどは「ことば」というものが邪魔をする。「りんご」ではなくなる。だから、次は「ことば」を乗り越えるために、また繰り返す。
あ、、なんだか考えるとめんどうくさそうなことになって、詩から遠くなるような感じなのだが……。
でも、違う。この「ひとつ」になる感覚の中には、愉悦がある。「ひとつ」になった瞬間には、愉悦がある。
「パート」という作品。
1連目と2連目では、いろいろなものが登場するが、それが「梨」に収斂していく。「残るひとつ」の「ひとつ」の梨になっていく。死産した女も父親も果樹園も夫も、皮をむくという行為も、食べるということも、みんな「梨」を「ひとつ」にするためにあらわれては消えていく「関係」である。それが華やかに動いている。病室だから、死産した女のいる病室だから「華やか」と言ってしまうのはよくないのかもしれないけれど、ひとつひとつの「関係」ができあがっては消えていく様子が、具体的で美しい。
「りんご」の詩のように、ここで詩は終わってもいいのだけれど、その「ひとつ」のあと、それをもう一度繰り返す(「論語」で言う「習う」をやってみる)。そうすると、あら不思議。「梨」が消え、「梨」とともに動いてた「もの/こと」が消え、「におい」があらわれてくる。それは女が梨を食べていたときもあった「におい」。でも、「梨」が消えたあと、皮をむくということ、食べるということ、食べながら話すということが「無」になったあと、ふわっとあらわれる。「低く/果実のにおいが残っている」という新しい「ことば」になって、くっきりと存在する。
それを読む、その瞬間、その「におい」に、そして、その「低く」に、私はなっている。「私」はどこにもいなくて、「低く」残る「におい」だけがある。
この美しい「一元論」を「くだもののにおいのする日」の最終連では、こんなふうに言っている。
「誰かがわたしを/わたしが誰かを/どんな名前で呼びあっていた」か。「りんご」を「りんご」と呼ぶ。「呼ぶ」という「動詞」がつくりだす関係のなかに「わたし」は存在する。「呼ぶ」かぎり「りんご(梨)」と「わたし」は存在するのだが、その「存在」を「りんご(梨)」と「わたし」ではなく、「呼ぶという動詞つくりだす関係」だけにしてしまうと、そこから何か自在なものが動きだす。世界が華やかに生成し、消滅し、「りんご(梨)」でも「わたし」でもない「におい」が世界の奥からあらわれてくる、というような変化が起きる。
それはきっと「呼ぶ/呼びあっている」という関係からはじまっている。だから、その「はじまり」を思い出し(「習う」、習いなおし)、楽しむのだ。
そのとき、それが「ひとり」の行為ではなく、「朋(友)」といっしょなら、なお楽しい。
松井啓子の詩は、いま、「ゆめある舎(谷川恵)」という朋(友)を得て、さらに沙羅(装画)大西隆介(装丁)という朋(友)を得て、詩を楽しんでいる。新しく、詩そのものを生きている。
*
松井啓子『くだもののにおいのする日』は美篶堂で通信販売しています。
申し込みは下記のURLをクリックしてください。
http://misuzudo.shop13.makeshop.jp/shopdetail/000000000558/
松井啓子『くだもののにおいのする日』(ゆめある舎)は新装復刊版。初版は1980年05月21日に駒込書房から発行されている。私は駒込書房から出た詩集を読んでいないのだが、こうやって新装復刊版を読むと、詩の不思議さをあらためて思ってしまう。詩はいつもそこにあり、生まれたままの姿で、気づかれるのを待っている。けっして消えてしまうことはない。論語の「学びて時に習う、また説ばしからずや。朋遠方よりきたるあり、また楽しからずや」も思い出す。読み返すと、また違ったものが見えてくる。友達といっしょに、そのことばをくりかえしてみる楽しさ。そんなこと思ったりする。初めて読む詩集がいま発行されたものではなく、30年以上も前に発行されたものだと知ると、なおさらそういう気持ちになる。
巻頭の「それではこれは何ですか」には「りんご」が何度も出てくる。
これはひとつのりんごです
それはわたしのものですか
遠縁のおじさんが わたしに
買ってきてくれたものですか
りんごはわたしのものですか
いいえそれは違います
りんごはあなたのものではありません
それではあれは何ですか
もちろんそれもりんごです
りんごです りんごです
ここにはりんごしかありません
それではあなたは何ですか
もちろんわたしはりんごです
お皿もフォークもりんごです
あなたも もうじきりんごです
これは ひとつのりんごです
「りんご」しか出て来ない。「わたし」「遠縁のおじさん」「あなた」「皿」「フォーク」もことばとしては登場してくるけれど、消えてしまってりんごだけになる。この変化が、妙におもしろい。何かをくりかえしていると、そのくりかえした「もの」と「ひとつ」になってしまう。「違い」がきえて「ひとつ」になってしまう。
こういう「体験」が、詩なのだと私は思う。
「わたし」がいて「りんご」がある。二つの存在。「わたしのものですか」違います。「遠縁のおじさんが わたしに/買ってきてくれたものですか」違います。「わたし」と「りんご」との「関係」がひとつずつ否定される。「関係」が否定されると、その「関係」の一端である「わたし」が少しずつ消えていく。「無」になる。
この詩は詩なので(?)、つまり論文や何かなのではないので論理(?)はそのあとかなり飛躍するのだが、同じことが「あなた」「皿」「フォーク」にも起きる。ある存在と別の存在を区別するときの「関係」が消えてしまって、ただ「りんご」がある。「わたし(自我)」というものが無くなって(無我の境地?)、そこに「りんご」がある、というただそれだけのことになる。
その瞬間の、ぱっと自分が内部から破裂して、「わたし」のいた場所が「空」になって、そこへ「りんご」が入り込む感じ。
これはことばにしてしまうと、とても簡単なことのように思えてしまうが、むずかしいね。何度も何度も繰り返さなければならない。一度「りんご」になってしまっても、それをことばにすると、こんどは「ことば」というものが邪魔をする。「りんご」ではなくなる。だから、次は「ことば」を乗り越えるために、また繰り返す。
あ、、なんだか考えるとめんどうくさそうなことになって、詩から遠くなるような感じなのだが……。
でも、違う。この「ひとつ」になる感覚の中には、愉悦がある。「ひとつ」になった瞬間には、愉悦がある。
「パート」という作品。
パート
という種類の梨を
隣りのベッドでむいている
きのう子供を死産した女が
きょう梨を食べている
父親の果樹園からいまもいできたのだと
ちいさく夫が言っている
やっぱりうちのがいちばんだと
ひそひそ妻が言っている
同室の人びとにふるまうことを忘れて
むけばむくだけ女は食べ
残るひとつを見おさめて
男はバイクで帰っていく
夜 寝しずまった室内に 低く
果実のにおいが残っている
1連目と2連目では、いろいろなものが登場するが、それが「梨」に収斂していく。「残るひとつ」の「ひとつ」の梨になっていく。死産した女も父親も果樹園も夫も、皮をむくという行為も、食べるということも、みんな「梨」を「ひとつ」にするためにあらわれては消えていく「関係」である。それが華やかに動いている。病室だから、死産した女のいる病室だから「華やか」と言ってしまうのはよくないのかもしれないけれど、ひとつひとつの「関係」ができあがっては消えていく様子が、具体的で美しい。
「りんご」の詩のように、ここで詩は終わってもいいのだけれど、その「ひとつ」のあと、それをもう一度繰り返す(「論語」で言う「習う」をやってみる)。そうすると、あら不思議。「梨」が消え、「梨」とともに動いてた「もの/こと」が消え、「におい」があらわれてくる。それは女が梨を食べていたときもあった「におい」。でも、「梨」が消えたあと、皮をむくということ、食べるということ、食べながら話すということが「無」になったあと、ふわっとあらわれる。「低く/果実のにおいが残っている」という新しい「ことば」になって、くっきりと存在する。
それを読む、その瞬間、その「におい」に、そして、その「低く」に、私はなっている。「私」はどこにもいなくて、「低く」残る「におい」だけがある。
この美しい「一元論」を「くだもののにおいのする日」の最終連では、こんなふうに言っている。
わたしは銭湯へ出かけ
手を休めて
今朝の雷の意味と
誰かがわたしを
わたしが誰かを
どんな名前で呼びあっていたのだったかを
思い出しに行くのだ と言った
「誰かがわたしを/わたしが誰かを/どんな名前で呼びあっていた」か。「りんご」を「りんご」と呼ぶ。「呼ぶ」という「動詞」がつくりだす関係のなかに「わたし」は存在する。「呼ぶ」かぎり「りんご(梨)」と「わたし」は存在するのだが、その「存在」を「りんご(梨)」と「わたし」ではなく、「呼ぶという動詞つくりだす関係」だけにしてしまうと、そこから何か自在なものが動きだす。世界が華やかに生成し、消滅し、「りんご(梨)」でも「わたし」でもない「におい」が世界の奥からあらわれてくる、というような変化が起きる。
それはきっと「呼ぶ/呼びあっている」という関係からはじまっている。だから、その「はじまり」を思い出し(「習う」、習いなおし)、楽しむのだ。
そのとき、それが「ひとり」の行為ではなく、「朋(友)」といっしょなら、なお楽しい。
松井啓子の詩は、いま、「ゆめある舎(谷川恵)」という朋(友)を得て、さらに沙羅(装画)大西隆介(装丁)という朋(友)を得て、詩を楽しんでいる。新しく、詩そのものを生きている。
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松井啓子『くだもののにおいのする日』は美篶堂で通信販売しています。
申し込みは下記のURLをクリックしてください。
http://misuzudo.shop13.makeshop.jp/shopdetail/000000000558/
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