詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎の世界(2)

2019-04-08 20:25:23 | 現代詩講座
谷川俊太郎の世界(2)(朝日カルチャーセンター(福岡)、2019年04月01日)

 01日の講座で読んだ二篇目の作品は、「チチのこいびと」。

チチのこいびと

うちのチチにはこいびとがいます
わたしにはわかります
ハハにはないしょです

わるいことをしてますが
チチはあくにんではない
こいびとのひともきっと
わるいとおもいながら
チチをすきになってしまったのです

わたしはハハとふたりで
せんたくものをほしています
チチのこいびとはひとりで
なにをしているのかな
おひさまはあたたかいけど
わたしのこころはすこし
ひんやりしています

--この詩は、どういうことが書いてありましたか? 要約すると、どうなりますか?
「要約?ですか。娘さんが両親のことを観察している」
「チチを兄にかえると、現実になるんだけれど」
「おやじが不倫している」
「不倫というということばをつかうといやなんだけれど、最後のひんやりしているということばを読むと、内面的で、感じがわかるなあ」
--この詩で嫌いなことろ、好きなところあります? いまの「ひんやりしている」という部分への感想は、好意的な部分だと思うけれど。
「嫌いじゃないけれど、もやもやするのは、「こいびとのひともきっと/わるいとおもいながら/チチをすきになってしまったのです」という三行」
「私も、この部分はほんとうかな、と疑問に思う」
「私は、悪いのは父親だと思うので、最初の一行が、とぼけるな、という感じですね。相手の女の人が、どう思っているかわからないけれど」
「なぜ、わかったんですかね」
--あ、それを聞いてみたかったんですよ。なぜ、父に恋人がいるとわかったんですかねえ。
「以前よりも色気が出てきたというか、父から受ける感じが違うんじゃないかな」
「電話がかかって、女の勘で。メールをみるとか」
「お母さんはわかっていないんですよ。娘はやっぱりお父さんを観察してるんですよ」
「お母さんは、もうお父さんに関心がない」(笑い)
「お父さんが、おしゃれになったとか」
「人を好きになるということは配偶者がいても好きになってしまうんですよね。だから、お父さんは悪人ではない、ということばになって出てくる」
「そういう心情は認めながら、娘さんはもやもやしているんですよね」
「だから、もやももしている。でも、気付かれたらいけないよね。娘さんに気付かれるのはきついですよね。奥さんに気付かれるのはしかたがないけど」
「逆に自分がこういう関係で、それを息子に気付かれたら最悪だと思う」
「娘さんはお父さんが好きだから気付くんでよ」
「恋人がいるところは悪いんだけれど、ほかにはいい部分がたくさんあり、お父さんが好きなんですよ。やさしいところがある、とか」
「娘さんには傷つきたくない部分がある」
「だから、恋人も悪くないと、自分に言い聞かせている」
「そういうことがあって、お母さんより早く気付く」
--ああ、なるほどね。ところで、悪いと思いながらだれかを好きになったことってありますか。
「ありますよ。好きになるという感情はだれにでもある」
--たぶん、そういうことがあるからこそ、誰かが誰かを好きになっているということもわかるのかもしれないですね。娘さんが傷つくという感じも、自分が傷ついたというような経験があって気付くんじゃないかな。でも、好きになるということがだれにでもあるのなら、「わるいとおもいながら/チチをすきになってしまった」というのは、なぜ悪いんだろう。
「好きになることは悪いことじゃないですよ。好きになろうと思って好きになるわけではない。素敵だな、と思う感情は普通。でも、それが行動に出たときには、社会的には悪いと言われてしまう」
「そうか」
「人を好きになるということはだれにでもあることで、それを悪いとは簡単に言えない」
「雄と雌の生物としての種の保存、DNAに刷り込まれているものがありますよね。恋愛したときに理性でおさえられなくなる。そういうときは、こころだけではない。でも年齢を重ねると、そういう感じはなくなる。だから生物としての行動なのかなあ」
「ホルモンの関係もあるかも」
「結婚しても職場の男性を素敵だなあと思ったりすることはある」
「夫婦でいるときは、不倫なんだろうけれど、ひとりになると不倫ではなくなる。だから、パートナーが亡くなってひとりになると、不倫というものできなくなる。不倫じゃなくなる」
「あ、それは、本人から見れば不倫ではなくても、相手が結婚していたら、相手の人にとっては不倫じゃないですか。社会的に見れば違うかもしれない」
--ちょっと話題をかえましょうか。いまのみなさんの感想聞いていると、ここに書いてある詩の「わたし」は谷川俊太郎じゃないですよね。「娘さん」ということばが出てきたけれど、チチの娘、ということになるんですかね。そのとき、その娘さんは何歳くらい?
「チチは谷川俊太郎かもしれないと一瞬思ったけれど」
「父親が好きな娘さん」「二〇代の娘かな」「中高校生かなあ」「恋愛経験のある年頃の娘さん」「まだ独身の女性」
--では、恋人は? 何歳くらい?
「三〇代」「娘が二〇代だとすると、お父さんは五〇前後。だから四〇代くらいかなあ」「三〇代前半くらい」「四〇代かなあ」「父より年上ではないですよね」(笑い)「それ、おもしろい」
--どうしてですか? 恋人ではないけれど、フランスのマクロン大統領の連れ合いは二〇歳くらい年上ですよ。
「若くないかもしれないですよね」
「同じくらいの年頃かもしれない」
「娘さんは、恋人を少しは許しているので、娘さんよりは若くはないでしょう。少しは上でしょうねえ」
「娘より若いことつきあうというのは、ちょっとアレですかねえ」
「そうしたら、それは娘が自分より年上の男を結婚相手に連れてきたときの父親の気持ちににてる? それって、いやですかね」
--三連目に、「チチのこいびとはひとりで/なにをしているのかな」と書いてありますね。それじゃあ、このとき父は何をしてる?
「父はこのときは家にいると思う」
--あ、そうか。父が家にいるから、恋人はひとりか。そうすると、父が家にいるのなら、状況としては土曜とか、日曜になるのかな? 私はぜんぜん思いつかなくて、父と恋人はいっしょにいるかもしれないのに、と思って不思議だったんですよ。母と私は「ふたり」の「ふたり」と「ひとり」が対比されているとだけ思っていたので、いまの指摘、とてもフに落ちました。

--また、少し視点をかえましょうか。いままでの意見では、だれも言わなかったんだけれど、父の恋人は男性かもしれないですよね。最近話題になったテレビ番組に「おっさんずラブ」というのがありましたね。もし恋人が男性だったら、この詩はどんな感じ? 質問しておいて、こういうことをいうのはおかしいのかもしれないけれど、詩を読んで、ここに書かれている「わたし」は若い女性、父は何歳くらい、母は何歳くらいと想像してしまう。それは、もしかするといけないことかもしれないですね。この詩は谷川俊太郎が書いているわかっているけれど、まったく知らない誰かが書いたものだとすると、いろんなことが考えられると思う。谷川俊太郎自身が若い女性を想定して書いているのだと思うけれど、なぜ、谷川は若い女性を想定し、「わたし」ということばで書かなければいけないのか。ヘンでしょ? 自分のことじゃないんですよね。そういうことも考えてみると、違った風景が見えてくると思う。谷川のやっていることは、ひとのこころはどんなふうにうごいているか、それはどんなことばになって動くか、ということだと思う。詩の中ではどんなことばも可能なわけですね。そうであるなら、ここに登場する人を簡単に、若い女性、父親と母親、女性の恋人という具合に限定せずに読んでみるのもおもしろいかな、と思う。単純に最初に思った想定だけでおわりにしない方がいいかもしれないですね。
「そしたら、わたしは娘ではなく、息子にもなりますよね」
「いっしょに洗濯物を干しているということばで、簡単に娘と思うけれど、そうじゃないかもしれないですね」
「息子が洗濯物を干すのを手伝っても、おかしくはない」
「自分の中に固定観念があって、知らず知らず娘と読んでしまうのかな」
「チチ、ハハをカタカナで書いてあるのもおもしろい」
--いろいろ立場(登場人物)を替えながら読む。さらには、そこに書いてあることを、なぜそうなんだろう、と思って読むと、また違ったおもしろさが出てくる。たとえば、母に内緒というけれど、なぜ、内緒なんだろう。
「母を傷つけたくない」
「もし父の恋人が男性だったら、父に恋人がいるということを内緒にしたいという気持ちの意味が違ってくる。母を思う気持ちが複雑になる。母は父がバイセクシャルだったことを知らずに結婚したことになる。そういう事情がみえてくる」
--もう少し、ほかのことも考えてみましょうか。最終行の「ひんやり」が印象的だという指摘が最初にあったけれど、「ひんやり」をもし自分のことばで言いなおすと、どうなりますか? 言い直し欲しいなあと思うのだけれど。
「沈んでしまう」「すっきりしていない」「複雑な思い」
「恋人に対し、許す気持ちもあるけれど、やっぱり許せない」
「父親に対して愛情をもっているから、しぜんとそういう気持ちになる」
「恋人を擁護している感じがし、中高生にしては大人びてるかなあと思っていたけれど、自分が傷つきたくなくて恋人の人の気持ちをわかって、正当化しようとしてがんばっているのだけれど、やっぱり心の奥底が傷ついている感じ」
「傷ついているけれど、それを隠したい気持ちもある。傷ついているのを認めてしまったら、キツイから」
--母には内緒、というところには、そういうことも含まれているかもしれませんね。父親に恋人がいるというだけではなく、自分が傷ついているということを知られたくないという気持ちというか。
 こころが傷つくというのは、かなしい、つらい、さびしい、いろいろあるけれど、言いなおせるかなあ。
「解決できない、どうしようもない気持ち」
「うーん、ひんやりが絶妙ですね」 
「ほかのことばって、ないですね」
「どっかで冷めている感じもある」
--この詩は、「おひさまはあたたかいけど/わたしのこころはすこし/ひんやりしてます」と書いてあるけれど、もし逆に、「雪が降っているけれど私の心は少しほんわかしています」だと、前の部分はどうなるだろう。うちの父には恋人がいます、というのは、同変化すると思います?
「お父さん、がんばれ」
「そういうことってあるかもしれない。母親と仲が悪くて」
「あの……。亡くなったおじが、すごくいい人でだったんです。おばは意地悪でヒステリックだったのだけれど、おばが、夫には女がいたって言うんです。それを聞いて、おじさん、よくやった、と思いました。あのおばさんなら、よそで癒されないと、と思ったりしました」
--人間のこころって、いろいろかわりますね。それが年輪のように積み重なっている。谷川は、そういうものをことばにしているのだ思う。
「父に恋人がいるというのはたいへんなことなんだけれど、それを事実として認めよう。父も悪い人間ではないし、という気持ちはあるけれどやっぱり、そう簡単にはいいきれない、そうではない心が動いている。母のことを考えたりとか、ほんとうにこれでいいのかなって思ったり」
「この詩では娘にばれているけれど、ばれないことって世の中には山ほどある」
「いっときそういうことがあっても、元の鞘に収まるって言うのが圧倒的多数じゃないですか」
--さっき話したことにもどるのだけれど、この詩の「うちのチチにはこいびとがいます/わたしにはわかります/ハハにはないしょです」という三行も、いろいろ変えることができると思う。「私の夫には恋人がいます/私にはわかります/娘には内緒です」、あるいは「息子には内緒です」という詩もありうると思うでも、そこを入れ換えたとしても、心の動きはそのまま成り立つと思う。「悪いことをしてますが/夫は悪人ではない」とか。
「逆にうちの妻にはでも、こういうことが成り立ちますね」
「わたしという人の、人柄が出るんでよね」
--ここに書いてあることは一家庭のことなんだけれど、ことばを少しずつ変えると、いろんな家庭がそのなかに含まれてくる。世の中がすべて含まれてくるという感じがしませんか? 
 詩は、そういうものだと思います。
 そこには、何か、自分と重なるもの、自分が知っているものが重なってくる。それを説明することはむずかしいけれど、その重なっている感じが「わかる」ということとつながっているかもしれない。
 詩を読むのは他人のことばを読むことだけれど、どこかで自分自身のことばを読み直している。自分の心を発見し直す。それが詩を読むこと。--これは、講座では話し忘れたことだけれど。 



 もう一篇、「いいたいこと」を読んだ。

いいたいこと

わたしにはいいたいことがあるんだけど
それはほかのヒトがいいたいこととちがうみたい
いまもにわのうめのはなをみてるんだけど
ココロがはなからはなれてしまって
わたしはぼんやりしています

いいたいきもちばかりあって
なにがいいたいのかわからないから
なぜかいいたくないことをいってしまったりして
ちがう!っておもいながらだまりこむ
そんなわたしにハハはこまっている

ひとりでほんをよんでいると
わたしがいいたいことを
ほんのなかのだれかがいっていることがある
なんかすっきりするけどくやしい
じぶんでいいたかったとおもって

うめのはなはいいにおいって
そういうだけでいいのかな

 私はこの詩を「チチのこいびと」とつづけて読むと、この作品の「わたし」と「チチのこいびと」の「わかたし」は同じ人物に見えてくる。「ひんやりしたこころ」と「うめのはなはいいにおい」という行が重なってしまう。
 「秘密」をかかえた娘、なんとなく娘の変化を感じ、こまっている母親という情景が浮かんでくる。「わたし」は思っていることを言いたいけれど、どういうふうに言ったらいいのかわからない。どこまで言っていいのかわからない。
 また二連目は、三月に読んだ「なきだすとぼく とまらない」という行ではじまる詩にも重なる。「いいたいきもちばかりあって/なにがいいたいのかわからない」と重なるものがある。
 谷川が想定した「状況」(情景)とは違うかもしれないしれないけれど、その違うものが、違いを超えて重なって動く。
 人間には、みんな重なる部分と違う部分があって、だれもが自分に重なる部分を探しながらことばを読むのだと思う。
 谷川はこの詩集のあとがき(裏表紙)に「ヒトが木の年輪(バウムクーヘン!)のように精神年齢を重ねていくものだとしたら、現在の自分の魂の中にゼロ歳から今に至る自分がいてもおかしくありません」と書いている。その複数の谷川と重なるものが、私たちの中にもあって、詩を読むと、それが「和音」になって広がるのかもしれないと思う。





 4月15日は、「とまらない」の書き出しの一行「なきだすと ぼくとまらない」を借りて、「〇〇すると 〇〇とまらない」という詩を書いてみます。「〇〇すると ぼく〇〇ない」もOK。「笑いだすとぼくとまらない」「メール書くとわたしとまらない」とか、いろいろ。
 飛び入りの受講(何回目からの受講)も可能です。ゲストさんかもOKです。30分だけの見学も受け付けています。
 詳しいことは朝日カルチャーセンター(福岡)まで問い合わせてください。
 講座日は第1・第3月曜日13時00分~14時30分
 4月1日(終了)、15日、5月6日(祝日)、20日、6月3日、17日
 申し込みは、朝日カルチャーセンター、博多駅前・福岡朝日ビル8階 092-431-7751






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