監督 アレハンドロ・ホドロフスキー 出演 ブロンティス・ホドロフスキー、パメラ・フローレス、イェレミアス・ハースコビッツ、アレハンドロ・ホドロフスキー
軍事政権下のチリの田舎町が舞台。子どもの視線と大人の視線、幻想(?)と現実がいりまじっていて、なんとも奇妙な映画である。
「寓意」を感じる。
で、この「寓意」を印象づけるののひとつが強靱な色である。
ポスターにもなっている幼少期のアレハンドロ・ホドロフスキーと現在のアレハンドロ・ホドロフスキー監督が一緒に映っているサーカス小屋のシーン。少年は水色の服に金髪、監督は黒い服に白髪、背景は赤いテント。どの色にも濁りがない。汚れをはねつける強さがある。純粋がそのまま持続して結晶したような色だ。
その色を見ていると、「寓意」とは結局、純粋化された「虚構」であることがわかる。現実の存在は、それ自身の色を持ちつづけようとしても他のなにかと接触することで汚れてしまう。色の輪郭があいまいになってしまう。そういう汚れを排除して、現実を純粋化して動かすと「虚構」になる。世界を動かしているものの「運動」そのものが浮かび上がる。「現実」の「ほんとう」の姿が「虚構」のなかに浮き彫りになる。
もうひとつ、「寓意/虚構」を強調するものがある。
母親の歌。母親の台詞は全部、歌になっている。ミュージカルのよう。現実にはそんなふうに歌う人間などいない。だから、これは「嘘(虚構)」なのだとわかるのだが、この歌もまた「色」と同じように、世間の汚れを拒み、純粋を守り通したひとつの形である。感情の純粋さ、一途さが歌になっている。
象徴的なのが夫(少年の父親)が感染症(チフス?)に倒れたシーン。母親は夫に水をのませる。水は、尿。彼女自身の肉体で濾過した水。水を飲ませ、水で体を洗い、裸で夫を抱きしめる。そのときも彼女は歌いつづける。あらゆるものを受け入れ、あらゆるものを与える。そのとき、彼女の声が美しく響く。
さらに、もうひとつ不思議なことがある。「寓意」につながるのかどうか、よくわからないのだが……。
最初に幼年期の監督と、現在の監督が出てきて、少年に向かってものの見方を説明する。それを見ると、この映画の主人公は少年であり、監督の自伝映画のように見える。しかし、映画が進むと、主人公はいつのまにか少年ではなく、父親になっている。そして、その父親は、少年の知らないところで大統領暗殺をもくろんでいる。未遂に終わるが、実際に射殺しようとする。そして、その後、指が動かなくなり、少年とも妻とも違う場所で生きることになる。強かったはずの父は、そこでは弱い人間になっている。弱い人間になって苦悩している。あるいは、苦悩にめざめ、苦悩を受け入れていると言えばいいのか。
それは軍事政権下のチリの「現実」だったのだろうと思う。その「現実」が少年の視点の「枠」から離れて、独立して動いている。少年の視点とは無関係のところで、父親の視点だけで動いている。
これはなんとも奇妙な映画のつくり方だが、その奇妙なところが、逆にリアリティーになっている。ひとつの視点ではとらえられないものがある。そのことを語っている。ひとつの視点だ語ろうとすると矛盾する。だから、ひとつの視点を捨てて、父親の苦悩は苦悩として純粋に描くという方法をとっているのだ。
この変な構造の世界をしっかりとつなぎとめるのが母親というのも、またおもしろい。夫は妻のもとへ、少年のもとへ戻る。その弱くなった夫を妻はそのまま受け入れる。--これは、チリの激変を受け止め、しっかり支えたのは、女性たちであるということを暗示しているのかもしれない。男は、理想のために(?)苦悩し、傷つき、敗北しながら勝利した。(最後に軍事政権が倒される。)女性たちは、その敗北し、勝利し、つまり傷ついた男を支え、新しい方向へ動きだすのを支えた。--こういうことは具体的には描かれているわけではないが、妻の描き方を見ると、そういう気がする。台詞を全部歌で歌ってしまう女。その「現実離れ」した姿が、結局「現実」を全部受け入れる方法だった。
そして、その「現実離れ」した生き方があるために、映画で描かれるすべてが「リアリティー」あふれるものになる。炭鉱事故で身体障害になってしまった人に暴力と差別で向き合うということさえ、目を背けてはならない現実としてそこに描かれる。映画はリアルな人間の「本能」だけを鮮烈に描き、そのためにとった方法(たとえば障害者への差別や暴力)さえもエピソードに変える。
強靱な精神力がつくりあげた、強靱な感覚の世界だと感じた。
(2014年09月24日、KBCシネマ2)
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facebook「映画館へ行こう」
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
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軍事政権下のチリの田舎町が舞台。子どもの視線と大人の視線、幻想(?)と現実がいりまじっていて、なんとも奇妙な映画である。
「寓意」を感じる。
で、この「寓意」を印象づけるののひとつが強靱な色である。
ポスターにもなっている幼少期のアレハンドロ・ホドロフスキーと現在のアレハンドロ・ホドロフスキー監督が一緒に映っているサーカス小屋のシーン。少年は水色の服に金髪、監督は黒い服に白髪、背景は赤いテント。どの色にも濁りがない。汚れをはねつける強さがある。純粋がそのまま持続して結晶したような色だ。
その色を見ていると、「寓意」とは結局、純粋化された「虚構」であることがわかる。現実の存在は、それ自身の色を持ちつづけようとしても他のなにかと接触することで汚れてしまう。色の輪郭があいまいになってしまう。そういう汚れを排除して、現実を純粋化して動かすと「虚構」になる。世界を動かしているものの「運動」そのものが浮かび上がる。「現実」の「ほんとう」の姿が「虚構」のなかに浮き彫りになる。
もうひとつ、「寓意/虚構」を強調するものがある。
母親の歌。母親の台詞は全部、歌になっている。ミュージカルのよう。現実にはそんなふうに歌う人間などいない。だから、これは「嘘(虚構)」なのだとわかるのだが、この歌もまた「色」と同じように、世間の汚れを拒み、純粋を守り通したひとつの形である。感情の純粋さ、一途さが歌になっている。
象徴的なのが夫(少年の父親)が感染症(チフス?)に倒れたシーン。母親は夫に水をのませる。水は、尿。彼女自身の肉体で濾過した水。水を飲ませ、水で体を洗い、裸で夫を抱きしめる。そのときも彼女は歌いつづける。あらゆるものを受け入れ、あらゆるものを与える。そのとき、彼女の声が美しく響く。
さらに、もうひとつ不思議なことがある。「寓意」につながるのかどうか、よくわからないのだが……。
最初に幼年期の監督と、現在の監督が出てきて、少年に向かってものの見方を説明する。それを見ると、この映画の主人公は少年であり、監督の自伝映画のように見える。しかし、映画が進むと、主人公はいつのまにか少年ではなく、父親になっている。そして、その父親は、少年の知らないところで大統領暗殺をもくろんでいる。未遂に終わるが、実際に射殺しようとする。そして、その後、指が動かなくなり、少年とも妻とも違う場所で生きることになる。強かったはずの父は、そこでは弱い人間になっている。弱い人間になって苦悩している。あるいは、苦悩にめざめ、苦悩を受け入れていると言えばいいのか。
それは軍事政権下のチリの「現実」だったのだろうと思う。その「現実」が少年の視点の「枠」から離れて、独立して動いている。少年の視点とは無関係のところで、父親の視点だけで動いている。
これはなんとも奇妙な映画のつくり方だが、その奇妙なところが、逆にリアリティーになっている。ひとつの視点ではとらえられないものがある。そのことを語っている。ひとつの視点だ語ろうとすると矛盾する。だから、ひとつの視点を捨てて、父親の苦悩は苦悩として純粋に描くという方法をとっているのだ。
この変な構造の世界をしっかりとつなぎとめるのが母親というのも、またおもしろい。夫は妻のもとへ、少年のもとへ戻る。その弱くなった夫を妻はそのまま受け入れる。--これは、チリの激変を受け止め、しっかり支えたのは、女性たちであるということを暗示しているのかもしれない。男は、理想のために(?)苦悩し、傷つき、敗北しながら勝利した。(最後に軍事政権が倒される。)女性たちは、その敗北し、勝利し、つまり傷ついた男を支え、新しい方向へ動きだすのを支えた。--こういうことは具体的には描かれているわけではないが、妻の描き方を見ると、そういう気がする。台詞を全部歌で歌ってしまう女。その「現実離れ」した姿が、結局「現実」を全部受け入れる方法だった。
そして、その「現実離れ」した生き方があるために、映画で描かれるすべてが「リアリティー」あふれるものになる。炭鉱事故で身体障害になってしまった人に暴力と差別で向き合うということさえ、目を背けてはならない現実としてそこに描かれる。映画はリアルな人間の「本能」だけを鮮烈に描き、そのためにとった方法(たとえば障害者への差別や暴力)さえもエピソードに変える。
強靱な精神力がつくりあげた、強靱な感覚の世界だと感じた。
(2014年09月24日、KBCシネマ2)
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