中尾太一『ア・ノート・オブ・フェイス』(思潮社、2014年07月01日発行)
中尾太一『ア・ノート・オブ・フェイス』の音楽は、私には過激すぎる。私はどうしようもない音痴なので、中尾のことばの速さに驚いているうちに、どれがどの音と響きあっているのかがわからなくなる。
わからないのだが、わからないまま、わからないことを書いておこう。40ページ「a crossing」という部分の書き出し。ルビがあるのだが、ルビは( )で補った。中尾の意図に反するだろうけれど。
私はこの5行のなかで、「窄み(蕾)」ということばにひかれた。「口をすぼみ」と「つぼみ」が音として重なり合う。そしてそのとき、すぼめた口がつぼみのように見えてくる。それが開いていくというのではなく、逆に、前の行に「(造)花」があるので、時間が逆流するように閉じていく感じがする。「つぼみ」というのは開いてこそ意味(?)があるのに、逆に動いている。それが、口を「すぼめる」(閉ざす)ということと交錯する。この「交錯」のなかに、私は「音楽」を感じた。
この「音楽」を説明するのは、ちょっとむずかしい。私の「感覚の意見」であって、どうにもことばにならないのだが、あえていえば、私はどのようなことば(文章)もそれ自体がいわゆる楽曲(音楽)の「調」のようなものを持っていると感じている。それぞれが独自の「調」をもっていて、その「調」のなかでことばが動いていくとき、それがとても気持ちよく感じられる。「意味」はどうでもよくて、あ、これは快感だなあ、ここには酔ってしまうなあという感じになる。そして、この「調」が「転調」ならいいのだが、別の「調」とごちゃまぜになってしまうと、なんだかいやだなあと感じる。
私が中尾の詩について「ことばの交錯」と書いたのは、音楽用語(?)で言い換えると「和音」になるかもしれない。別の音が出会って響くとき、それがひとつの音よりも美しく聞こえるときがある。その瞬間の「響き」。--どうして、その音が出会うと「気持ちがいい」のか、まあ音楽理論として何かあるのかもしれないけれど、そして同じようなことが「言語理論」としてあるのかもしれないけれど。それは「音韻論」なのか、「意味論」なのか、よくわからないのだけれど……。
まあ、あるのだろう。いや、「ある」と私は感じている。そしてほとんど本能的に、自分にとって「気持ちのいい」と感じられるものだけを選んで読み取っている。それが、この部分にある。
「県境の峠を遠く見つめているようだ(boader)」は、よくわからないどころか、まったくわからないのだけれど、「ようだ」「boader」の響きに、へええ、と声が漏れてしまった。中尾は「ようだ」の「だ」の音をぱっと途切れる音ではなく、だんだん弱くなって消えていく、間延びした(?)ような音として聞いているのかと思った瞬間、そうだなあ、「……のようだ」というとき何かぼんやりしたものが語尾にまじるなあと思い出し、私の「肉体」のどこかが刺戟された。
「県境」は「けんきょう」と読むのか「けんざかい」と読むのか。私は「けんきょう」と読んだのだが、私のワープロは「けんきょう」と打って文字変換をこころみると「県境」が出て来ない。えっ、「けんざかい」なのか。でも、そうすると、あとの音が合わない。「とうげ」「とおく」「よう(だ)」の「文字」としては「う」「お」と書き分けられるのだが、口の感じ、喉の動きとしては、発声器官を解放したままゆっくりと時間を伸ばす感じでひとつのものが「けんざかい」では合致しない。「けんきょう」でないと「和音」にならない。「ようだ」「boader」というルビに従うならば、絶対に「けんきょう」でなくてはいけない。
そういう、どうでもいいようなこと(意味とは無関係のようなこと)を感じながら、私は、ことばのなかを動いていく。そうすると、
という不思議な反復が出てくる。問い返しが出てくる。
あ、これは「ルビ」だな、と思う。「「そこ」ですべてが書かれたのか」という行の次に「書かれたすべてが「そこ」になるのか」と書かれているが、「書かれたすべてが「そこ」になるのか」というのは「「そこ」ですべてが書かれたのか」に対する「ルビ」である。
そして、その中尾の「ルビ」というのは、普通の日本語表記の「ルビ」とは違って、単なる「読み方」ではない。「読み方」というよりは「意味」の付加、「意味」の攪乱(「意味」の破壊、再構築、脱構築)なのだ。
こういう「ことばの音楽」は、うーん、「暮らし(生きている肉体)」からは生まれて来ないかもしれないぞ。生まれてくるとしたら「文学(書籍/印刷物)」、あるいは「辞書」からだろうなあ。冒頭の「辞書」に(diccionary)と「ルビ」を打たなければならないのは、こういうことと関係しているかもしれない。「辞書」(diccionary)という「ルビ」だけ、「窄み」(つぼみ)」「ようだ」(boader)、さらには4、5行目の「音」の重なり合いとは構造が違っているでしょ?
この「暮らし(生きている肉体)」からは生まれて来ない音楽--それを中尾は「造花」の「造」に語らせているのかもしれない。自然に対して「人工」、自然に対する「技巧(わざと)」。「ルビ」よって「わざと」自然ではない音楽をつくる。(「わざと」に注目すれば、まあ、これは西脇順三郎のやろうとしたことの、21世紀風の継承ということになるのかもしれない。)
で、中尾の詩が、膨大な「ルビ」の音楽であるということは、何となく(つまり感覚の意見として)私にはわかったのだが……。もちろん、私のわかったことは私の「誤読」であり、中尾の意図とは関係ないのだが。
その「わかった」とを詩集全体を通してつかみなおそうとすると、私は、とても疲れてしまう。スピードが速い。情報量が多い。ついていけなくなる。これは私の「肉体」的な問題がつよく影響している。私は網膜剥離の手術をして、左目が極端に悪い。視力がない。このため、細かい文字を読むことができない。5行くらいならなんとかなるが1ページとなるとかなりむずかしい。全編(詩集全体)となると、モーツァルトの「レクイエム」を歌えと言われているような感じがする。そんなこと、音痴の私にできるわけがない、と音楽なら簡単に言えるけれど……。
ことばとことばの出会い、そこからはじまる「音楽」には「ルビ」のほかにもある。その例も少しあげておく。46ページ「my flood, Kuro san」の書き出し。
リテ「ラシー」「殺し」、「悪魔(マグマ)」「目深」、「アミダ」(書かれていないが、「涙」=目からこぼれるもの、6行目に反復される)、「サイ」「犀川」という「音」そのものの重なり。音遊び。
「ルビ」が「印刷物」の音楽だとすれば、これは「口語」の音楽か。
いずれにしろ、この「音楽」についていくには、私の肉体はむりである。そこに「音楽」があることがわかるけれど(音楽があるから楽しいのだけれど)、それを楽しむには私の肉体は老いぼれすぎていて、速度的に間に合わない。
もっと目と耳のいいひとの感想(批評)を読んでみてください。私の感想は、中尾の詩を読むときの参考にならないだろうと思う。
中尾太一『ア・ノート・オブ・フェイス』の音楽は、私には過激すぎる。私はどうしようもない音痴なので、中尾のことばの速さに驚いているうちに、どれがどの音と響きあっているのかがわからなくなる。
わからないのだが、わからないまま、わからないことを書いておこう。40ページ「a crossing」という部分の書き出し。ルビがあるのだが、ルビは( )で補った。中尾の意図に反するだろうけれど。
辞書(diccionary)から生まれた造花の隣
もうここにはない物語は口を窄み(蕾)
県境の峠を遠く見つめているようだ(boader)
「そこ」ですべてが書かれたのか
書かれたすべてが「そこ」になるのか
私はこの5行のなかで、「窄み(蕾)」ということばにひかれた。「口をすぼみ」と「つぼみ」が音として重なり合う。そしてそのとき、すぼめた口がつぼみのように見えてくる。それが開いていくというのではなく、逆に、前の行に「(造)花」があるので、時間が逆流するように閉じていく感じがする。「つぼみ」というのは開いてこそ意味(?)があるのに、逆に動いている。それが、口を「すぼめる」(閉ざす)ということと交錯する。この「交錯」のなかに、私は「音楽」を感じた。
この「音楽」を説明するのは、ちょっとむずかしい。私の「感覚の意見」であって、どうにもことばにならないのだが、あえていえば、私はどのようなことば(文章)もそれ自体がいわゆる楽曲(音楽)の「調」のようなものを持っていると感じている。それぞれが独自の「調」をもっていて、その「調」のなかでことばが動いていくとき、それがとても気持ちよく感じられる。「意味」はどうでもよくて、あ、これは快感だなあ、ここには酔ってしまうなあという感じになる。そして、この「調」が「転調」ならいいのだが、別の「調」とごちゃまぜになってしまうと、なんだかいやだなあと感じる。
私が中尾の詩について「ことばの交錯」と書いたのは、音楽用語(?)で言い換えると「和音」になるかもしれない。別の音が出会って響くとき、それがひとつの音よりも美しく聞こえるときがある。その瞬間の「響き」。--どうして、その音が出会うと「気持ちがいい」のか、まあ音楽理論として何かあるのかもしれないけれど、そして同じようなことが「言語理論」としてあるのかもしれないけれど。それは「音韻論」なのか、「意味論」なのか、よくわからないのだけれど……。
まあ、あるのだろう。いや、「ある」と私は感じている。そしてほとんど本能的に、自分にとって「気持ちのいい」と感じられるものだけを選んで読み取っている。それが、この部分にある。
「県境の峠を遠く見つめているようだ(boader)」は、よくわからないどころか、まったくわからないのだけれど、「ようだ」「boader」の響きに、へええ、と声が漏れてしまった。中尾は「ようだ」の「だ」の音をぱっと途切れる音ではなく、だんだん弱くなって消えていく、間延びした(?)ような音として聞いているのかと思った瞬間、そうだなあ、「……のようだ」というとき何かぼんやりしたものが語尾にまじるなあと思い出し、私の「肉体」のどこかが刺戟された。
「県境」は「けんきょう」と読むのか「けんざかい」と読むのか。私は「けんきょう」と読んだのだが、私のワープロは「けんきょう」と打って文字変換をこころみると「県境」が出て来ない。えっ、「けんざかい」なのか。でも、そうすると、あとの音が合わない。「とうげ」「とおく」「よう(だ)」の「文字」としては「う」「お」と書き分けられるのだが、口の感じ、喉の動きとしては、発声器官を解放したままゆっくりと時間を伸ばす感じでひとつのものが「けんざかい」では合致しない。「けんきょう」でないと「和音」にならない。「ようだ」「boader」というルビに従うならば、絶対に「けんきょう」でなくてはいけない。
そういう、どうでもいいようなこと(意味とは無関係のようなこと)を感じながら、私は、ことばのなかを動いていく。そうすると、
「そこ」ですべてが書かれたのか
書かれたすべてが「そこ」になるのか
という不思議な反復が出てくる。問い返しが出てくる。
あ、これは「ルビ」だな、と思う。「「そこ」ですべてが書かれたのか」という行の次に「書かれたすべてが「そこ」になるのか」と書かれているが、「書かれたすべてが「そこ」になるのか」というのは「「そこ」ですべてが書かれたのか」に対する「ルビ」である。
そして、その中尾の「ルビ」というのは、普通の日本語表記の「ルビ」とは違って、単なる「読み方」ではない。「読み方」というよりは「意味」の付加、「意味」の攪乱(「意味」の破壊、再構築、脱構築)なのだ。
こういう「ことばの音楽」は、うーん、「暮らし(生きている肉体)」からは生まれて来ないかもしれないぞ。生まれてくるとしたら「文学(書籍/印刷物)」、あるいは「辞書」からだろうなあ。冒頭の「辞書」に(diccionary)と「ルビ」を打たなければならないのは、こういうことと関係しているかもしれない。「辞書」(diccionary)という「ルビ」だけ、「窄み」(つぼみ)」「ようだ」(boader)、さらには4、5行目の「音」の重なり合いとは構造が違っているでしょ?
この「暮らし(生きている肉体)」からは生まれて来ない音楽--それを中尾は「造花」の「造」に語らせているのかもしれない。自然に対して「人工」、自然に対する「技巧(わざと)」。「ルビ」よって「わざと」自然ではない音楽をつくる。(「わざと」に注目すれば、まあ、これは西脇順三郎のやろうとしたことの、21世紀風の継承ということになるのかもしれない。)
で、中尾の詩が、膨大な「ルビ」の音楽であるということは、何となく(つまり感覚の意見として)私にはわかったのだが……。もちろん、私のわかったことは私の「誤読」であり、中尾の意図とは関係ないのだが。
その「わかった」とを詩集全体を通してつかみなおそうとすると、私は、とても疲れてしまう。スピードが速い。情報量が多い。ついていけなくなる。これは私の「肉体」的な問題がつよく影響している。私は網膜剥離の手術をして、左目が極端に悪い。視力がない。このため、細かい文字を読むことができない。5行くらいならなんとかなるが1ページとなるとかなりむずかしい。全編(詩集全体)となると、モーツァルトの「レクイエム」を歌えと言われているような感じがする。そんなこと、音痴の私にできるわけがない、と音楽なら簡単に言えるけれど……。
ことばとことばの出会い、そこからはじまる「音楽」には「ルビ」のほかにもある。その例も少しあげておく。46ページ「my flood, Kuro san」の書き出し。
リテラシー殺した言語の悪魔(マグマ)が目を覚ます
帽子を目深にかぶった鬼の目からアミダの街路、その排水路に向かって
二度か三度か折れ曲がって道を外れていく
次は誰かとサイを振り
犀川に狂う俺に当たれば
最悪のクロさんの思い出が一人目の涙の赤を塗りつぶす
リテ「ラシー」「殺し」、「悪魔(マグマ)」「目深」、「アミダ」(書かれていないが、「涙」=目からこぼれるもの、6行目に反復される)、「サイ」「犀川」という「音」そのものの重なり。音遊び。
「ルビ」が「印刷物」の音楽だとすれば、これは「口語」の音楽か。
いずれにしろ、この「音楽」についていくには、私の肉体はむりである。そこに「音楽」があることがわかるけれど(音楽があるから楽しいのだけれど)、それを楽しむには私の肉体は老いぼれすぎていて、速度的に間に合わない。
もっと目と耳のいいひとの感想(批評)を読んでみてください。私の感想は、中尾の詩を読むときの参考にならないだろうと思う。
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