宇宿一成『光のしっぽ』(土曜美術社、2008年10月10日発行)
「牛眼は緑」という作品がすごい。死んでしまうの牛を、死ぬ前にする。その瞬間を描いている。その3連目。
対象をしっかりみつめて、正確に書いている。正確に書こうとしている。たぶん、「正確」というのが宇宿の「人柄」なのだ。「正確」であろうとすることが。「正確」に書くことが対象に対する礼儀だと宇宿は信じている。ここでは、牛をする父への、そして殺されていく牛への礼儀だと、宇宿は信じ、それを正確にことばで報告しようとしているのだ。こういう礼儀がしずかに滲み出してくることを指して、私は「人柄」と呼びたいのである。「個性」ではなく、「人柄」と。
宇宿のことばには「個性的」な印象はない。淡々としていて、文学というよりも科学といった印象が強いことばである。宇宿は、いわば「個性」を排除して、科学であろうとしている。そして、その科学であろうとする謙虚さのなかに、「人柄」がにじむのである。
個性的な詩は多い。しかし、「人柄」を感じさせる詩は、そんなには多くはない。私は「人柄」が浮かび上がる詩がとても好きだ。
ああ、こんなふうに見つめてくれるひとがいるから、牛は死んでゆけるのだと思う。どんな変化も「正確」に見つめ、報告してくれるひとがいるから、どんな変化も受け入れることができるのだ。死を、少年が受け止めてくれている--そういう安心のもとに、牛は死んでゆくのだ。宇宿の「人柄」にすべてをあずけて、牛は死んでゆくのだ。
この死を、宇宿はしっかり見つめた上で、その死を「事実」から「真実」に高めていく。ことばでしかたどりつけない「思想」に高めていく。
それが4連目。
「死に臨む明るさ」とは、なんと美しいことばだろう。その「明るさ」は、やはり信じることがあるからこそ生まれるものなのだ。たしかに死は暗いであろう。その暗闇がたとえどんなに長いものであろうと、信じることで、それは短いものになる。一瞬になる。通過点になる。
ああ、そうなのだ、とこころから思う。
牛ではないが、たとえば私が死んでゆくとき、その死をしっかり見つめてくれるひとがいれば、やはり死んでゆくことが平気だろうと思う。平気というと、嘘になるかもしれないが、なんといえばいいのだろうか。何かを信じることができる気がするのだ。「正確に」見つめてくれるひとの、そのこころのなかで、自分は生きていくんだ、と思える気がする。
死とは、肉体を失ったあと、だれかのこころの中で生きはじめることなのだろう。そのとき、「正確に」見つめてくれるひとのこころだったら、とても安心する。安らげると思うのだ。そのひとの「人柄」にすべてをあずけられると思い、安らげると思うのだ。
「牛眼は緑」という作品がすごい。死んでしまうの牛を、死ぬ前にする。その瞬間を描いている。その3連目。
父は大きな出刃包丁を
その牛の頸部に刺し込み
肩までめり込ませて心臓をついたのだ。
父の腕が牛の体から離れると
腕を伝って落ちていた血が激しく噴き出し
寝床のわらを赤黒く染めて広がり
このほうが早く楽になるのだから
そういった父の方に
大きな瞳を向けてうずくまっていた
牛の目が緑色に透き通ってゆくのを
十一歳の私は身じろぎもせずにみつめていた
対象をしっかりみつめて、正確に書いている。正確に書こうとしている。たぶん、「正確」というのが宇宿の「人柄」なのだ。「正確」であろうとすることが。「正確」に書くことが対象に対する礼儀だと宇宿は信じている。ここでは、牛をする父への、そして殺されていく牛への礼儀だと、宇宿は信じ、それを正確にことばで報告しようとしているのだ。こういう礼儀がしずかに滲み出してくることを指して、私は「人柄」と呼びたいのである。「個性」ではなく、「人柄」と。
宇宿のことばには「個性的」な印象はない。淡々としていて、文学というよりも科学といった印象が強いことばである。宇宿は、いわば「個性」を排除して、科学であろうとしている。そして、その科学であろうとする謙虚さのなかに、「人柄」がにじむのである。
個性的な詩は多い。しかし、「人柄」を感じさせる詩は、そんなには多くはない。私は「人柄」が浮かび上がる詩がとても好きだ。
牛の目が緑色に透き通ってゆく
ああ、こんなふうに見つめてくれるひとがいるから、牛は死んでゆけるのだと思う。どんな変化も「正確」に見つめ、報告してくれるひとがいるから、どんな変化も受け入れることができるのだ。死を、少年が受け止めてくれている--そういう安心のもとに、牛は死んでゆくのだ。宇宿の「人柄」にすべてをあずけて、牛は死んでゆくのだ。
この死を、宇宿はしっかり見つめた上で、その死を「事実」から「真実」に高めていく。ことばでしかたどりつけない「思想」に高めていく。
それが4連目。
あの緑の目は
死に臨む明るさであったろうか
意識は昏くなっていっただろうに
私たちもいつか喫する眠りなのだと
ひと仕事終えた父の銜えた煙草の煙が
呟くように空気に散っていった
動物にとって死は
唐突に訪れる一点の暗闇でしかないのか
「死に臨む明るさ」とは、なんと美しいことばだろう。その「明るさ」は、やはり信じることがあるからこそ生まれるものなのだ。たしかに死は暗いであろう。その暗闇がたとえどんなに長いものであろうと、信じることで、それは短いものになる。一瞬になる。通過点になる。
ああ、そうなのだ、とこころから思う。
牛ではないが、たとえば私が死んでゆくとき、その死をしっかり見つめてくれるひとがいれば、やはり死んでゆくことが平気だろうと思う。平気というと、嘘になるかもしれないが、なんといえばいいのだろうか。何かを信じることができる気がするのだ。「正確に」見つめてくれるひとの、そのこころのなかで、自分は生きていくんだ、と思える気がする。
死とは、肉体を失ったあと、だれかのこころの中で生きはじめることなのだろう。そのとき、「正確に」見つめてくれるひとのこころだったら、とても安心する。安らげると思うのだ。そのひとの「人柄」にすべてをあずけられると思い、安らげると思うのだ。
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