詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

桜塚ひさ『生きてゆく』

2016-12-04 12:37:38 | 詩集
桜塚ひさ『生きてゆく』(むらさき堂、2016年07月20日発行)

 桜塚ひさ『生きてゆく』の「あとがき」に「ひとり出版社を創り、ひとりで本を創る」とある。印刷と製本は印刷会社にまかせたようだが、ほかはひとりでやっている、ということだろう。
 私も詩集は同じ方法で出しているので親近感を覚えた。(私の場合、出版社をつくるところまではいっていなくて、昔同人誌を出していたときの「象形文字編集室」というのをそのままつづけているのだが。)

 「河骨」という作品。

山かげの 人知らぬ池に
河骨の花がぽつんと咲いている

白骨から生えるという
黄色い小さなこの花は
ふらつく私の足元灯だ

 「足元灯」ということばに目がとまった。言われれば思い出すが、自分からことばにすることはない。特に「自然」を描いているときに、「足元灯」を思い出すということは、私にはない。そのために、「ほう」と思った。桜塚の「肉体」が見えたと感じた。身近にあるものと正確に向き合っている。その姿勢が「足元灯」という「比喩」を呼び寄せている。
 「山かげ」「人知らぬ」「ぽつん」は少し古くさい感じがするかもしれない。「文学」になってしまっている「常套句」。「文学」を読んでいる人なんだなあ。それが「足元灯」で不思議なおちついた印象として結晶する。
 「夕焼け空」の書き出しも印象に残る。

夕焼け空を
電線がわたる
ゆるい弧を空にくっきりと描いて
幾筋もわたってゆく
どこまでも どこまでもわたってゆく
寂しい人と淋しい人をつないで

 「わたる」という「動詞」が強い。「わたる」は自動詞。電線は人間や動物ではないから自分では動かない。だから「わたる」は「比喩」。「比喩」にはいつでも「自分」が投影される。「自分の記憶/自分の思い」、それから「自分の肉体」。「肉体」は「動き」が重なるという形で投影される。
 電線が空を「わたる」とき、桜塚が空を「わたる」。「わたる」は「わたってゆく」と言いなおされる。さらに「つなぐ」と言いなおされる。「つなぐ」ために「わたって/ゆく」。
 「わたってゆく」ひとは「寂しい人」、「ゆく」先で待っている人は「淋しい人」。「寂しい」と「淋しい」が「つながる」とき、「さびしい」は消えるだろう。
 動詞がとても自然だ。「肉体」とていねいにつきあっている桜塚の姿がここからもうかがえる。
 「朝のキッチン」も美しい。

朝陽がカチリと白い磁器のふちにあたる
昨日のように始まった今日
白いカップに紅茶を注ぐ
おはよう 今日

朝陽にあいさつをして
お茶に映るわが目を覗き込む
おはよう 私
いつもの 変わらない 近しい間柄
変わらないことの 優しさ安らかさ

おはよう 今日
おはよう 今日の私
日常はいいもの
今日はいい日

 一連目「おはよう 今日」の「今日」がいい。「今日」が「ひと」のように、そこにいる。その「ひと(比喩)」に対して「おはよう」と呼びかけている。
 あらゆる「存在」を「ひと」としてとらえている。
 「夕焼け空」の「電線」も「ひと」だから「わたる」という「自動詞」を述語とする。
 「河骨」の「足元灯」もやはり「ひと」である。単なる照明ではない。「ひと」となって「ふらつく私」を「支える」、あるいは「導く」。

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