木戸多美子「ケンミンノウタ」、ぱくきょんみ「ふり返ると」(「現代詩手帖」2014年12月号)
木戸多美子「ケンミンノウタ」(初出『メイリオ』13年11月)は、私には、よくわからない。
これは1連目。
注釈に「●は福島あるいはすべての地名」と書いてある。その注釈がいちばんわからない。「福島」という固有名詞であっても、それが「すべての地名」に通じる、という具合に書くのが詩(文学)というものではないのか。名前を伏せるのなら●はいらないだろう。「そのまま盆地に落下する」でいいはずだ。
なぜ●なのか。○や★、▲だと、どうなるのか。●の形と黒い色にどんな「意味」をこめているのか。
いま私は「意味」ということばをつかったが、●では「福島」に「予見」を与えてしまう。単なる「抽象」を超えてしまう。それではつまらないと思う。視覚が一定の方向に動かしてしまう。
また、私はことばを「視覚」で動かすことに疑問を持っている。「視覚」と「頭」で解読する抽象というものに、疑問を持っている。「合理的」過ぎて、いやな感じがする。ことばの経済学からすれば便利なのだけれど、便利が優先するのは、あまりにも味気ない。
この詩には、また「傷菜」という、とてもいやな表記がある。「絆(きずな)」をもじっているのだろう。「絆」ということばに対してうさん臭さを感じて、それを批判しているのだと思うが、ここでも「視覚」で「意味」を一定方向に動かしている。このことばの経済学は、私には、人間味が感じられない。
私は詩を音読する習慣はないが、もし音読(朗読)をするなら、「●盆地」や「傷菜」はどう読むのか。
「音」の問題を棚上げして、「ケンミンノウタ(歌)」と言われても、納得できない。「声」にならないから「声」ではなく「視覚(文字、表記)」で表現するのだということかもしれないが、「声」にならないなら、「声」にならないからこそ、「声」以前の「声」をつかみ取るのが詩だろう、と思う。
「東西南北地上に横たわる身体」や「熱霧」も「意味」を隠している。隠喩にすることで、隠された「意味」を印象づけようとしているのだろうが、私はそこに「正直」を感じることができない。
*
ぱくきょんみ「ふり返ると」(初出『何処何様如何草紙』13年11月)には「音」がある。
「ふり返る」「いる/いない」が繰り返され、そういう行わけの連の間に、
と、「過去」が語られる。語られる「過去」には時差がある。たとえば50年前、40年前……という具合に。あるいは、二日前、きのう、さらには1分前という具合に。
しかし、その「過去」が「ふり返ると」という繰り返しにはさまれて、「いま」に呼び出されるとき、その「過去」から「時差」が消えていく。あれは50年前のこと、これはきのうのこと(ぱくは、近い過去のことを書いているわけではないので「きのう」云々は、方便なのだが……)という区別がなくなる。50年前のことがきのうのことより遠くに思い出されるわけではなく、同じ「近さ」で血のように「肉体」の隅々に行き渡る。
「時差」のないまま、すべてが「いま」としてあらわれ、あらわれながら消えていく。消えるものを、ことば(ふり返るという繰り返し)で、何度も何度も呼び戻す。繰り返しが「時差」の「差」を消していく。
その消す作業のなかに(消していくことばの動きのなかに)、詩がある。
「ふり返る」を繰り返す。そのたびに、その「ふり返る」によって呼び出されるものが変化する。変化するが、その違いを越えて「同じもの(変わらない)」ものが姿を見せる。「ふり返る」(思い出す)という行為が変わらない。
「同じ音」と「違う音」が交錯しながら、「音楽」をつくる。そこに、詩がある。
木戸多美子「ケンミンノウタ」(初出『メイリオ』13年11月)は、私には、よくわからない。
明るい陽の中
のどかな傷菜という若葉をつまんで
あおむけに
そのまま●盆地に落下する
ゆっくり空を見ながら
シャクナゲカオルヤマナミニ
東西南北地上に横たわる身体
月がぼんやりと真昼のほてりを残し
埋め尽くされた星ぼしは熱霧に隠される
それは頭上に
これは1連目。
注釈に「●は福島あるいはすべての地名」と書いてある。その注釈がいちばんわからない。「福島」という固有名詞であっても、それが「すべての地名」に通じる、という具合に書くのが詩(文学)というものではないのか。名前を伏せるのなら●はいらないだろう。「そのまま盆地に落下する」でいいはずだ。
なぜ●なのか。○や★、▲だと、どうなるのか。●の形と黒い色にどんな「意味」をこめているのか。
いま私は「意味」ということばをつかったが、●では「福島」に「予見」を与えてしまう。単なる「抽象」を超えてしまう。それではつまらないと思う。視覚が一定の方向に動かしてしまう。
また、私はことばを「視覚」で動かすことに疑問を持っている。「視覚」と「頭」で解読する抽象というものに、疑問を持っている。「合理的」過ぎて、いやな感じがする。ことばの経済学からすれば便利なのだけれど、便利が優先するのは、あまりにも味気ない。
この詩には、また「傷菜」という、とてもいやな表記がある。「絆(きずな)」をもじっているのだろう。「絆」ということばに対してうさん臭さを感じて、それを批判しているのだと思うが、ここでも「視覚」で「意味」を一定方向に動かしている。このことばの経済学は、私には、人間味が感じられない。
私は詩を音読する習慣はないが、もし音読(朗読)をするなら、「●盆地」や「傷菜」はどう読むのか。
「音」の問題を棚上げして、「ケンミンノウタ(歌)」と言われても、納得できない。「声」にならないから「声」ではなく「視覚(文字、表記)」で表現するのだということかもしれないが、「声」にならないなら、「声」にならないからこそ、「声」以前の「声」をつかみ取るのが詩だろう、と思う。
「東西南北地上に横たわる身体」や「熱霧」も「意味」を隠している。隠喩にすることで、隠された「意味」を印象づけようとしているのだろうが、私はそこに「正直」を感じることができない。
*
ぱくきょんみ「ふり返ると」(初出『何処何様如何草紙』13年11月)には「音」がある。
ふり返ると いる
ふり返ると いない
ふり返らないと 不安なのか
ふり返るから またふり返る
ふり返らないために ふり返る
ふり返ると いる
ふり返ると いない
「ふり返る」「いる/いない」が繰り返され、そういう行わけの連の間に、
ふり返ると
古ぼけた鳥打ち帽を目深にかむったまま誰かさんが棒立ちである。襟元も袖口にもぴちっと小綺麗に立ち上がっているのに、なんだ、あの帽子のよれ具合。長い旅だったからか、いまだ長い旅の途上であるからか、それとも人生の狩人の証しなのか。誰かさんは私たちの父さんである
と、「過去」が語られる。語られる「過去」には時差がある。たとえば50年前、40年前……という具合に。あるいは、二日前、きのう、さらには1分前という具合に。
しかし、その「過去」が「ふり返ると」という繰り返しにはさまれて、「いま」に呼び出されるとき、その「過去」から「時差」が消えていく。あれは50年前のこと、これはきのうのこと(ぱくは、近い過去のことを書いているわけではないので「きのう」云々は、方便なのだが……)という区別がなくなる。50年前のことがきのうのことより遠くに思い出されるわけではなく、同じ「近さ」で血のように「肉体」の隅々に行き渡る。
「時差」のないまま、すべてが「いま」としてあらわれ、あらわれながら消えていく。消えるものを、ことば(ふり返るという繰り返し)で、何度も何度も呼び戻す。繰り返しが「時差」の「差」を消していく。
その消す作業のなかに(消していくことばの動きのなかに)、詩がある。
「ふり返る」を繰り返す。そのたびに、その「ふり返る」によって呼び出されるものが変化する。変化するが、その違いを越えて「同じもの(変わらない)」ものが姿を見せる。「ふり返る」(思い出す)という行為が変わらない。
「同じ音」と「違う音」が交錯しながら、「音楽」をつくる。そこに、詩がある。
何処何様如何草紙 | |
ぱく きょんみ | |
書肆山田 |