クリント・イーストウッド監督「リチャード・ジュエル」(★★★★★)
監督 クリント・イーストウッド 出演 ポール・ウォルター・ハウザー、サム・ロックウェル、キャシー・ベイツ
ポール・ウォルター・ハウザーとサム・ロックウェルが、ファミリーレストランみたいなところで会っている。そこへジョン・ハムがFBIはリチャード・ジュエル(ポール・ウォルター・ハウザー)の捜査をやめたという通知を持ってくる。そのあとのシーンが、私は好きだ。
ポール・ウォルター・ハウザーがケーキ(ドーナツ?)に食らいつく。食べているではなく、味わっている。歓びの味。これが、このケーキのほんとうの味。自分が無実であることは知っている。その無実が受け入れられたことへの安心感。達成感。いろいろあるが、ともかくうまい。これがこのケーキの味。自分のいちばん好きな味。
このときの表情をクリント・イーストウッドは逆光で撮っている。これが、すばらしい。普通なら、この感動の表情を、正面からの光(順光?)でとらえるだろう。逆光では、肝心の表情が見えにくい。だが、この見えにくさが、私の視線を引っ張る。もっとよく見たい。そして、気持ちが集中する。ポール・ウォルター・ハウザーが向こうからやってくるのではなく、私の視線がスクリーンのポール・ウォルター・ハウザーに近づいていく。そして、ポール・ウォルター・ハウザーと一体化してしまう。
ここにイーストウッドの映画の基本というか、原点というか、魅力が凝縮している。役者は演技をする。カメラはそれをとらえる。だが、それは押しつけではない。あくまでも観客がスクリーンに近づいていくのだ。家を出て、バスや電車に乗って映画館へゆく。その「移動」と同じことを映画館のなかで観客はするのだ。椅子に座って見ている。たいていはぼんやりと時間を潰している。しかし、あ、ここがいいなあ、と思ったとき観客は身を乗り出してゆく。家から映画館へ来たように、座っている席からスクリーンに気持ちが近づいていく。
このポール・ウォルター・ハウザーの無言でケーキを食うシーンは、イーストウッドの映画にしては長いシーンだった。一度ケーキに食らいつき、歓びがあふれればそれでも充分なのだが、二度、三度、ケーキに食らいつき、ゆっくりとかむ。その繰り返しが、とてもいい。逆光が「後光」のようにさえ見えてくる。
このあと向き合っていた席からサム・ロックウェルが動いてきて、ポール・ウォルター・ハウザーの隣に座る。肩を抱く。ここも涙が出るくらいに美しい。カメラは二人を正面からではなく、背後から、つまり背中を映し出すのだ。だれも、彼らの表情を知らない。泣いているかもしれない。ポール・ウォルター・ハウザーもサム・ロックウェルも。しかし、だれも、それを知らない。考えてみれば、だれも何も知らないのだ。二人がどんなふうに苦しんできたかを。とくに、ポール・ウォルター・ハウザーの味わった苦悩や怒りをだれも知らない。ひとはだれでも、だれにも知られないことを持っている。どんなにそれが語られようとも、知らないものがある。あるいは、それは見てはいけないものかもしれない。そのひとだけの「宝」かもしれないのだから。
これに似たシーンが、もうひとつ。捜査のために押収されていたものが家に帰ってくる。そのなかにタッパーがある。キャシー・ベイツが、「私のタッパーが、事件と何の関係がある」と抗議したタッパーである。ふたに番号が書いてある。それはたぶんFBIが整理のために書いた番号だと思う。つまり、汚れ、傷、である。でも、それは傷つきながらもキャシー・ベイツのところに帰って来た。キャシー・ベイツがタッパーを手に取り、それを眺める。カメラがキャシー・ベイツの視線になり、タッパーを見つめる。すると蓋の上に数字が書いてある。こういうシーンにも、私は、涙を流してしまう。しかし、このシーンは、いつものイーストウッドのようにさらりと短い。
感動させるのではなく、感じさせる。考えさせる。感動して、観客が自分の感動によってしまってはいけないのだ。そうさせないように、イーストウッドは、さっとシーンを切り換える。もっと見たい、という気持ちがわいてきたところで、ぱっと別のシーンになる。その手際に私はいつも感心する。
(2020年01月18日、t-joy 博多スクリーン2)
監督 クリント・イーストウッド 出演 ポール・ウォルター・ハウザー、サム・ロックウェル、キャシー・ベイツ
ポール・ウォルター・ハウザーとサム・ロックウェルが、ファミリーレストランみたいなところで会っている。そこへジョン・ハムがFBIはリチャード・ジュエル(ポール・ウォルター・ハウザー)の捜査をやめたという通知を持ってくる。そのあとのシーンが、私は好きだ。
ポール・ウォルター・ハウザーがケーキ(ドーナツ?)に食らいつく。食べているではなく、味わっている。歓びの味。これが、このケーキのほんとうの味。自分が無実であることは知っている。その無実が受け入れられたことへの安心感。達成感。いろいろあるが、ともかくうまい。これがこのケーキの味。自分のいちばん好きな味。
このときの表情をクリント・イーストウッドは逆光で撮っている。これが、すばらしい。普通なら、この感動の表情を、正面からの光(順光?)でとらえるだろう。逆光では、肝心の表情が見えにくい。だが、この見えにくさが、私の視線を引っ張る。もっとよく見たい。そして、気持ちが集中する。ポール・ウォルター・ハウザーが向こうからやってくるのではなく、私の視線がスクリーンのポール・ウォルター・ハウザーに近づいていく。そして、ポール・ウォルター・ハウザーと一体化してしまう。
ここにイーストウッドの映画の基本というか、原点というか、魅力が凝縮している。役者は演技をする。カメラはそれをとらえる。だが、それは押しつけではない。あくまでも観客がスクリーンに近づいていくのだ。家を出て、バスや電車に乗って映画館へゆく。その「移動」と同じことを映画館のなかで観客はするのだ。椅子に座って見ている。たいていはぼんやりと時間を潰している。しかし、あ、ここがいいなあ、と思ったとき観客は身を乗り出してゆく。家から映画館へ来たように、座っている席からスクリーンに気持ちが近づいていく。
このポール・ウォルター・ハウザーの無言でケーキを食うシーンは、イーストウッドの映画にしては長いシーンだった。一度ケーキに食らいつき、歓びがあふれればそれでも充分なのだが、二度、三度、ケーキに食らいつき、ゆっくりとかむ。その繰り返しが、とてもいい。逆光が「後光」のようにさえ見えてくる。
このあと向き合っていた席からサム・ロックウェルが動いてきて、ポール・ウォルター・ハウザーの隣に座る。肩を抱く。ここも涙が出るくらいに美しい。カメラは二人を正面からではなく、背後から、つまり背中を映し出すのだ。だれも、彼らの表情を知らない。泣いているかもしれない。ポール・ウォルター・ハウザーもサム・ロックウェルも。しかし、だれも、それを知らない。考えてみれば、だれも何も知らないのだ。二人がどんなふうに苦しんできたかを。とくに、ポール・ウォルター・ハウザーの味わった苦悩や怒りをだれも知らない。ひとはだれでも、だれにも知られないことを持っている。どんなにそれが語られようとも、知らないものがある。あるいは、それは見てはいけないものかもしれない。そのひとだけの「宝」かもしれないのだから。
これに似たシーンが、もうひとつ。捜査のために押収されていたものが家に帰ってくる。そのなかにタッパーがある。キャシー・ベイツが、「私のタッパーが、事件と何の関係がある」と抗議したタッパーである。ふたに番号が書いてある。それはたぶんFBIが整理のために書いた番号だと思う。つまり、汚れ、傷、である。でも、それは傷つきながらもキャシー・ベイツのところに帰って来た。キャシー・ベイツがタッパーを手に取り、それを眺める。カメラがキャシー・ベイツの視線になり、タッパーを見つめる。すると蓋の上に数字が書いてある。こういうシーンにも、私は、涙を流してしまう。しかし、このシーンは、いつものイーストウッドのようにさらりと短い。
感動させるのではなく、感じさせる。考えさせる。感動して、観客が自分の感動によってしまってはいけないのだ。そうさせないように、イーストウッドは、さっとシーンを切り換える。もっと見たい、という気持ちがわいてきたところで、ぱっと別のシーンになる。その手際に私はいつも感心する。
(2020年01月18日、t-joy 博多スクリーン2)