谷川俊太郎「こころ」再読(1)
谷川俊太郎「こころ」(朝日新聞出版、2013年06月30日)は、朝日新聞に連載中に何回か感想を書いた。詩集にまとまってからも感想を書いたのだが、全部の作品についてもう一度少しずつ書いてみる。書いたことの重複になるかもしれないけれど。
なるべく「意味」にならないように、最初に読んだ気持ちに帰るように。
あ、私のこころはは文字の違いだけではゆれません。むしろ、文字の違いだけでゆれると書いている谷川の「こころ」に対してゆれる。えっ、谷川って文字の違いだけで何かを感じる? という具合に。
2連目が「ゆれるプディング」からはじまることがおもしろい。1連目の「ゆれる」を受けているのだが、もし、プディングがゆれなかったら、それでも谷川はプディングが好きだろうか。
谷川は、きっとゆれるものが好きなんだろう。それから、辛いものよりも甘いものが。つるりとした、やわらかいものが。
次の宇宙はどうして出てきたのだろうか。プリンと宇宙って似ている? あるいは、対極にある? よくわからない。きっと、「宇宙」が好きだから、宇宙ということばが出てきたのだろう。谷川は昔から「宇宙」をことばにしている。
底なしの泥沼は、宇宙との対極にある。宇宙も限りがないけれど、宇宙は底なしではなく、透明。
この対極のぶつかりあいのなかから、谷川はダイヤモンド(透明)を選んで、そっちの方向へことばを結晶させる。
でも、どうしてこんなに「こころ」はどんなたとえをもってきても「ぴったり」なんだろう。なぜ、なにもかもを受け入れてしまうのだろう。
そういう「意味」を考えはじめると、
その瞬間、
この1行は、「底なしの泥沼」とちょっと似ている。意味=抽象的なものではなくて、抽象的=比喩として「文学」に定着しているものではなくて、もっと「なま」な感じの「もの」をぶつけてくる。
「化けもの」は「幽霊」よりも形がありそうで、「もの」に近いようで、不気味で、こわい。抽象的=嘘、からは遠い「ほんとう」があるような感じがする。
谷川は、「意味」を結晶させずに、ぱっと突き放す。そして、そこに私たちが知っているけれど、知らないものをぶつける。
「知っているけれど、知らない」というのは矛盾だけれど、「化けもの」って定義ができないよね。ずっとむかし、いちばん最初にこわいもののの代名詞として、それでもなんとなく知っている。そういうもの、ことばとしてつかっているけれど、あいまいな、そのくせ「わかる」ものをぶっつける。
こころは、そういう「わかる」ものと向き合っている。
*
心は矛盾している。心とも矛盾しているけれども、体とも矛盾している。
でも、そういう「意味」以前に、私は「鼻の頭のニキビ」が気になる。私はニキビに悩んだことがない。これまで生きてきて(?)、数個くらいできたかもしれないが、それは瞬間的なことで次の日には消えている。谷川って、ニキビに苦しんだ?
どうも、そんなふうには見えないんだけれど。
で、私は、こういう行に出合うと、あ、谷川は「体験」を書いているわけではないのだな、と思う。なんとなくなんだけれどね。確信があっていうわけではないのだけれど。
メールの着信音にすっ飛んで行くというのも、そうなのかな? と疑問に思う。だいたい、この詩の「主人公」は誰? 私には谷川ではなく、少女が思い浮かぶ。
で、
ここには具体的な体験体験以上に、「まわりから聞いた体験」が入っているような感じがする。「耳年増」という感じ。「少女」の体験を聞きかじって知っていることについて「耳年増」というのは、何か変かもしれないけれど。
いろんなことばを聞き、そこに「こころ」があることを、谷川は学んでいる。自分の「肉体」からことばを紡ぎだすだけではなく、聞いたことばから「肉体」をつくりだすということもできる詩人なのだと思う。谷川は、そのとき、自分の時間を遡って「過去(若い年代)」をも先取りできる。「耳年増」というより「逆耳年増」かな。「耳年若(?)」かも。
いろいろな矛盾を書いて、その最後。
この行は不思議だね。たしかにどうすることもできなくなって体は座りこむことがある。でも、そのとき、こころは?
こころも座り込んでいるのだと、私は思う。
「体はときどき座りこむ」という行を読みながら、私は「こころ」こそが座り込んでしまって、そのために体が動けずに座り込んだ形になっているのを想像してしまった。
谷川は体がこころをとじこめている、という具合に書いているように見えるけれど、そのことばを読んで私が感じるのは、こころが体をとじこめている、という感じ。それはしかし、支配している、というのではなく、こころが体を整えているという感じ。
そういう感じが、詩の主人公は少女なのに、少女を超えて詩人になっているという印象を引き起こす。詩人が(谷川が)この詩を書いたのだという感じを強める。
そこからちょっと飛躍して。
私は、詩が、谷川の体を整えているというか、暮らしを整えていると、なんとなく感じる。谷川の暮らしを私は一度も見たこともないのだけれど。
谷川俊太郎「こころ」(朝日新聞出版、2013年06月30日)は、朝日新聞に連載中に何回か感想を書いた。詩集にまとまってからも感想を書いたのだが、全部の作品についてもう一度少しずつ書いてみる。書いたことの重複になるかもしれないけれど。
なるべく「意味」にならないように、最初に読んだ気持ちに帰るように。
こころ1
ココロ
こころ
心
kokoro ほら
文字の形の違いだけでも
あなたのこころは
微妙にゆれる
ゆれるプディング
宇宙へとひらく大空
底なしの泥沼
ダイヤモンドの原石
どんなたとえも
ぴったりの…
心は化けもの?
あ、私のこころはは文字の違いだけではゆれません。むしろ、文字の違いだけでゆれると書いている谷川の「こころ」に対してゆれる。えっ、谷川って文字の違いだけで何かを感じる? という具合に。
2連目が「ゆれるプディング」からはじまることがおもしろい。1連目の「ゆれる」を受けているのだが、もし、プディングがゆれなかったら、それでも谷川はプディングが好きだろうか。
谷川は、きっとゆれるものが好きなんだろう。それから、辛いものよりも甘いものが。つるりとした、やわらかいものが。
次の宇宙はどうして出てきたのだろうか。プリンと宇宙って似ている? あるいは、対極にある? よくわからない。きっと、「宇宙」が好きだから、宇宙ということばが出てきたのだろう。谷川は昔から「宇宙」をことばにしている。
底なしの泥沼は、宇宙との対極にある。宇宙も限りがないけれど、宇宙は底なしではなく、透明。
この対極のぶつかりあいのなかから、谷川はダイヤモンド(透明)を選んで、そっちの方向へことばを結晶させる。
でも、どうしてこんなに「こころ」はどんなたとえをもってきても「ぴったり」なんだろう。なぜ、なにもかもを受け入れてしまうのだろう。
そういう「意味」を考えはじめると、
その瞬間、
心は化けもの?
この1行は、「底なしの泥沼」とちょっと似ている。意味=抽象的なものではなくて、抽象的=比喩として「文学」に定着しているものではなくて、もっと「なま」な感じの「もの」をぶつけてくる。
「化けもの」は「幽霊」よりも形がありそうで、「もの」に近いようで、不気味で、こわい。抽象的=嘘、からは遠い「ほんとう」があるような感じがする。
谷川は、「意味」を結晶させずに、ぱっと突き放す。そして、そこに私たちが知っているけれど、知らないものをぶつける。
「知っているけれど、知らない」というのは矛盾だけれど、「化けもの」って定義ができないよね。ずっとむかし、いちばん最初にこわいもののの代名詞として、それでもなんとなく知っている。そういうもの、ことばとしてつかっているけれど、あいまいな、そのくせ「わかる」ものをぶっつける。
こころは、そういう「わかる」ものと向き合っている。
*
こころ2
心はどこにいるのだろう
鼻の頭にニキビができると
心はそこから離れない
けれどメールの着信音に
心はいそいそすっ飛んで行く
心はどこへ行くのだろう
テレビドラマを見ていると
心は主役といっしょに旅を続ける
でも体はいつもここにいるだけ
やんちゃな心を静かに守る
体は元気いっぱいなのに
心は病気がこわくて心配ばかり
そんな心に追いつけなくて
そんな心にあきれてしまって
体はときどき座りこむ
心は矛盾している。心とも矛盾しているけれども、体とも矛盾している。
でも、そういう「意味」以前に、私は「鼻の頭のニキビ」が気になる。私はニキビに悩んだことがない。これまで生きてきて(?)、数個くらいできたかもしれないが、それは瞬間的なことで次の日には消えている。谷川って、ニキビに苦しんだ?
どうも、そんなふうには見えないんだけれど。
で、私は、こういう行に出合うと、あ、谷川は「体験」を書いているわけではないのだな、と思う。なんとなくなんだけれどね。確信があっていうわけではないのだけれど。
メールの着信音にすっ飛んで行くというのも、そうなのかな? と疑問に思う。だいたい、この詩の「主人公」は誰? 私には谷川ではなく、少女が思い浮かぶ。
で、
ここには具体的な体験体験以上に、「まわりから聞いた体験」が入っているような感じがする。「耳年増」という感じ。「少女」の体験を聞きかじって知っていることについて「耳年増」というのは、何か変かもしれないけれど。
いろんなことばを聞き、そこに「こころ」があることを、谷川は学んでいる。自分の「肉体」からことばを紡ぎだすだけではなく、聞いたことばから「肉体」をつくりだすということもできる詩人なのだと思う。谷川は、そのとき、自分の時間を遡って「過去(若い年代)」をも先取りできる。「耳年増」というより「逆耳年増」かな。「耳年若(?)」かも。
いろいろな矛盾を書いて、その最後。
体はときどき座りこむ
この行は不思議だね。たしかにどうすることもできなくなって体は座りこむことがある。でも、そのとき、こころは?
こころも座り込んでいるのだと、私は思う。
「体はときどき座りこむ」という行を読みながら、私は「こころ」こそが座り込んでしまって、そのために体が動けずに座り込んだ形になっているのを想像してしまった。
谷川は体がこころをとじこめている、という具合に書いているように見えるけれど、そのことばを読んで私が感じるのは、こころが体をとじこめている、という感じ。それはしかし、支配している、というのではなく、こころが体を整えているという感じ。
そういう感じが、詩の主人公は少女なのに、少女を超えて詩人になっているという印象を引き起こす。詩人が(谷川が)この詩を書いたのだという感じを強める。
そこからちょっと飛躍して。
私は、詩が、谷川の体を整えているというか、暮らしを整えていると、なんとなく感じる。谷川の暮らしを私は一度も見たこともないのだけれど。
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