天童大人『長編詩 バビロン詩編』(七月堂、2020年11月11日発行)
天童大人『長編詩 バビロン詩編』はバビロンで詩を朗読したときのことを書いている。天童は朗読を「聲を撃つ」と呼んでいる。
多くの詩人たちは「聲を撃つ」が「誰の聲も通らない」。このとき最初に天童は「遮る」という動詞をつかい、「通らない」と言い直している。「遮る」ものは、たとえば「壁」である。しかし、そんなものは、そこにはない。
これをこのあと、天童は「聲の道」ということばでとらえ直す。「壁」(遮るもの)があるのではなく、「道」がないのだ。「道」を外れているのだ。
だが、どうやって「道」を見つければいいのか。「立つ」という動詞に私は注目した。「立つ場」と天童は書く。ある「場」に「立つ」。そうすると、おのずと「道」は開けるのである。
天童は、バビロンに来るまでに、すでにいろいろな「場」に立っている。それまでに体験した「場」と「ニムロデの塔跡」とは違う。何が違うのか。「体が受けた波動」が違う。ニムロデの塔跡では、体が受ける波動が強い。でも、この「体が受ける波動」とは何か。抽象的である。私は天童が書いているどの「場」にも行ったことがないから、これでは何が書いてあるかわからない。
で、少し読み返す。
「体」と書かれていることばは、その前は「私の肉体は 立つ場を決められず」と「肉体」ということばとして書かれている。同時に「立つ」という動詞もつかわれている。ただしその「立つ」は独立したことばではない。「肉体が立つ」と動詞で完結しているのではない。「立つ場」と「場(名詞)」を含んでいる。
「立つ場」とは「立場」でもある。「立つ場」とは単に、ある場所ではない。「肉体」を「立たせる」とは単にその場に行くことではない。その「場」に立つことで、自分のどのように位置づけるか。「歴史」のなかに、「空間」のなかに、人間として、自分をどのように置くか。それが「立場」というものだろう。
「アタチェルク空港」に、こんなことばがある。
「事件」「現実/現在」をどうとらえるか。天童の定義とは違う定義をするひともいる。つまり、「立場」が違う。「立場」が違えば「現在の場」が違う。「歴史」を貫く「真実の時間の動き(道)」のあり方が違う。
天童は、自分の「立場」(歴史をどう見るか、現実をどう見るか)を「肉体」を通して実感し、それを確認したとき、その「肉体」のなかに「道」を見つけたのだ。どうことばを発すれば、その聲がまっすぐに進んでいくかを発見したのだ。
これは、他の詩人達が「道」を見つけられなかったということではなく、それぞれが違う「聲」をもっている、ということである。ある人には聞こえる「聲」があり、あるひとには聞こえない「聲」がある。だから、「聲」はまず自分自身の「解放」であって、その解放された叫びが自分自身に聞こえ、それを受け止められるかが大事なのだ。
「声」ではなく、天童は「聲」と書く。「聲」のなかには「声」と「耳」がある。「殳」は「はこ」であり、「兵器」である。この「殳」を「肉体」と読み直してみる。「声」と「耳」をつなぎとめる「兵器(あるいは入れ物)」としての「肉体」。「肉体」は多くの人の「声(歴史と現実)」を「聞き」(吸収し)、「肉体」のなかで自分の「声(認識/思想)」を育て、それを発する。そのとき「聲」は兵器である。ただし、素手の兵器。人の「肉体」に損害をあたえない。しかし、「肉体」を貫き、「思想」を破壊するかもしれない。「聲」には「歴史(思想)」がある。その人がどう生きてきたか、そういうことがすべて反映している。その自分自身の「聲」のための「道」を見つける。それが見つかれば「道」を自分自身の「聲」の「軌道/弾道」にするということだろう。
「バビロンの道」には、こんなことばがある。
「分かる」と「解る」がつかいわけられている。「口の動かし方」から「怒鳴っている」のが「分かる」。これは、天童が怒鳴っているひとを何度も見たことがあるからだろう。それだけではなく怒鳴った体験があり、そのときの自分自身の「口の動かし方」を覚えているからだろう。肉体で覚えていることは、いつでも「分かる」のだ。「分かる」は「共有」であり、「共有」は「分有」でもある。同じものを分かちながら、共にもつ。しかし、彼の怒りの原因(理由)までは「解らない」。それは天童が「肉体」で体験していないことだからである。
「肉体」は「有限」である。体験できることと体験できないことがある。
これは「体験」か。「体験」ではなく、「想像」である。その想像にはしかし、いろいろなものが組み合わされる。まじりこむ。その結果、「想像できる/共有・分有できる」から「分かる」にかわる。「大柄な男」の怒りは「想像できない/共有できない(分有できない)」から「解らない」。「体験(肉体)」と「想像力(精神)」がぶつかり、肉体の記憶からさまざまなものを分有する、つまり、時間をかけながら「解る」が「分かる」へ変化していく。そのときの「実感」のようなものが「聲」になって発せられるということか。
そうなのだと、思う。
この「変化」。「認識」が「思想」になり、「聲」となって実際に動き出すまでの変化を天童はおもしろい「形」で具体化している。
のように、「助詞」が行の先頭に来ている。ふつう助詞は分節末に置かれる。ところが天童は逆に書いている。これは、どういうことだろうか。
たとえば、
思い思いに詩人たちは聲を撃ったが
何に遮られているのか誰の聲も通らない
思い思いに詩人たちは聲を撃った
が何に遮られているのか誰の聲も通らない
これは、どう違うのだろうか。助詞が文末に置かれた方が、次のことばを想像しやすい。「が」のあとは、逆の意味のことばがつづくと想像できる。そういう想像力の動きを天童は拒否しているのだ。簡単に想像するな、と他者の想像力をいったん拒否するのである。いや、自分自身の想像力に疑問を投げかけ、「コンテキスト」に頼るなと言い聞かせているのだろう。つぎのことばが爆発するまで、いま発したことばをそのままにしておけ。あるいは、いま発したことばの威力を確認したあとで、次の「攻撃」にふさわしいことば(聲)を準備しろ、と言い聞かせているのかもしれない。
「聲」は実際に聞かないとわからないが、「聲」とともにある「息づかい」は書かれたことば(印刷されたことば)からもつたわってくる。
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天童大人『長編詩 バビロン詩編』はバビロンで詩を朗読したときのことを書いている。天童は朗読を「聲を撃つ」と呼んでいる。
八方に遮るものはない
この七千年の時を経た塔の跡に立ち
思い思いに詩人たちは聲を撃った
が何に遮られているのか誰の聲も通らない
私の肉体は 立つ場を決められず
八方へ聲を撃ちながら 一つの聲の道を見つけた
バビロン 紀元前五千年
この穴だらけの岩
このニムロデの塔の跡の地底
から放たれている強い磁場は
エジプトのギザのピラミッド
メキシコの月のピラミッドの天頂
ペルーのマチュピチュ 太陽の神殿のインティワタナ
大和の三輪山山頂
対馬の和多都美神社・海中の一の鳥居
などで体が受けた波動はこの場より弱いのだ
多くの詩人たちは「聲を撃つ」が「誰の聲も通らない」。このとき最初に天童は「遮る」という動詞をつかい、「通らない」と言い直している。「遮る」ものは、たとえば「壁」である。しかし、そんなものは、そこにはない。
これをこのあと、天童は「聲の道」ということばでとらえ直す。「壁」(遮るもの)があるのではなく、「道」がないのだ。「道」を外れているのだ。
だが、どうやって「道」を見つければいいのか。「立つ」という動詞に私は注目した。「立つ場」と天童は書く。ある「場」に「立つ」。そうすると、おのずと「道」は開けるのである。
天童は、バビロンに来るまでに、すでにいろいろな「場」に立っている。それまでに体験した「場」と「ニムロデの塔跡」とは違う。何が違うのか。「体が受けた波動」が違う。ニムロデの塔跡では、体が受ける波動が強い。でも、この「体が受ける波動」とは何か。抽象的である。私は天童が書いているどの「場」にも行ったことがないから、これでは何が書いてあるかわからない。
で、少し読み返す。
「体」と書かれていることばは、その前は「私の肉体は 立つ場を決められず」と「肉体」ということばとして書かれている。同時に「立つ」という動詞もつかわれている。ただしその「立つ」は独立したことばではない。「肉体が立つ」と動詞で完結しているのではない。「立つ場」と「場(名詞)」を含んでいる。
「立つ場」とは「立場」でもある。「立つ場」とは単に、ある場所ではない。「肉体」を「立たせる」とは単にその場に行くことではない。その「場」に立つことで、自分のどのように位置づけるか。「歴史」のなかに、「空間」のなかに、人間として、自分をどのように置くか。それが「立場」というものだろう。
「アタチェルク空港」に、こんなことばがある。
この荒涼とした大地に期限切れ間近の大量の爆弾
を消費してアメリカの軍産体制を維持し 国を破壊し
独裁者を葬り去り 石油を略奪するための戦争に
イラクの無辜の民たちはどれだけ無為な命を失ったか
「事件」「現実/現在」をどうとらえるか。天童の定義とは違う定義をするひともいる。つまり、「立場」が違う。「立場」が違えば「現在の場」が違う。「歴史」を貫く「真実の時間の動き(道)」のあり方が違う。
天童は、自分の「立場」(歴史をどう見るか、現実をどう見るか)を「肉体」を通して実感し、それを確認したとき、その「肉体」のなかに「道」を見つけたのだ。どうことばを発すれば、その聲がまっすぐに進んでいくかを発見したのだ。
これは、他の詩人達が「道」を見つけられなかったということではなく、それぞれが違う「聲」をもっている、ということである。ある人には聞こえる「聲」があり、あるひとには聞こえない「聲」がある。だから、「聲」はまず自分自身の「解放」であって、その解放された叫びが自分自身に聞こえ、それを受け止められるかが大事なのだ。
「声」ではなく、天童は「聲」と書く。「聲」のなかには「声」と「耳」がある。「殳」は「はこ」であり、「兵器」である。この「殳」を「肉体」と読み直してみる。「声」と「耳」をつなぎとめる「兵器(あるいは入れ物)」としての「肉体」。「肉体」は多くの人の「声(歴史と現実)」を「聞き」(吸収し)、「肉体」のなかで自分の「声(認識/思想)」を育て、それを発する。そのとき「聲」は兵器である。ただし、素手の兵器。人の「肉体」に損害をあたえない。しかし、「肉体」を貫き、「思想」を破壊するかもしれない。「聲」には「歴史(思想)」がある。その人がどう生きてきたか、そういうことがすべて反映している。その自分自身の「聲」のための「道」を見つける。それが見つかれば「道」を自分自身の「聲」の「軌道/弾道」にするということだろう。
「バビロンの道」には、こんなことばがある。
検問所の三人の警官の中であの大柄な男
だけが怒鳴っているのが口の動かし方で分かる
なぜ彼が怒っているのかは解らない
「分かる」と「解る」がつかいわけられている。「口の動かし方」から「怒鳴っている」のが「分かる」。これは、天童が怒鳴っているひとを何度も見たことがあるからだろう。それだけではなく怒鳴った体験があり、そのときの自分自身の「口の動かし方」を覚えているからだろう。肉体で覚えていることは、いつでも「分かる」のだ。「分かる」は「共有」であり、「共有」は「分有」でもある。同じものを分かちながら、共にもつ。しかし、彼の怒りの原因(理由)までは「解らない」。それは天童が「肉体」で体験していないことだからである。
「肉体」は「有限」である。体験できることと体験できないことがある。
この荒涼とした大地に期限切れ間近の大量の爆弾
を消費してアメリカの軍産体制を維持し 国を破壊し
独裁者を葬り去り 石油を略奪するための戦争に
イラクの無辜の民たちはどれだけ無為な命を失ったか
これは「体験」か。「体験」ではなく、「想像」である。その想像にはしかし、いろいろなものが組み合わされる。まじりこむ。その結果、「想像できる/共有・分有できる」から「分かる」にかわる。「大柄な男」の怒りは「想像できない/共有できない(分有できない)」から「解らない」。「体験(肉体)」と「想像力(精神)」がぶつかり、肉体の記憶からさまざまなものを分有する、つまり、時間をかけながら「解る」が「分かる」へ変化していく。そのときの「実感」のようなものが「聲」になって発せられるということか。
そうなのだと、思う。
この「変化」。「認識」が「思想」になり、「聲」となって実際に動き出すまでの変化を天童はおもしろい「形」で具体化している。
が何に遮られているのか誰の聲も通らない
から放たれている強い磁場は
のように、「助詞」が行の先頭に来ている。ふつう助詞は分節末に置かれる。ところが天童は逆に書いている。これは、どういうことだろうか。
たとえば、
思い思いに詩人たちは聲を撃ったが
何に遮られているのか誰の聲も通らない
思い思いに詩人たちは聲を撃った
が何に遮られているのか誰の聲も通らない
これは、どう違うのだろうか。助詞が文末に置かれた方が、次のことばを想像しやすい。「が」のあとは、逆の意味のことばがつづくと想像できる。そういう想像力の動きを天童は拒否しているのだ。簡単に想像するな、と他者の想像力をいったん拒否するのである。いや、自分自身の想像力に疑問を投げかけ、「コンテキスト」に頼るなと言い聞かせているのだろう。つぎのことばが爆発するまで、いま発したことばをそのままにしておけ。あるいは、いま発したことばの威力を確認したあとで、次の「攻撃」にふさわしいことば(聲)を準備しろ、と言い聞かせているのかもしれない。
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料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
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講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。
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(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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