詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

天童大人『長編詩 バビロン詩編』

2020-11-15 10:13:52 | 詩集
天童大人『長編詩 バビロン詩編』(七月堂、2020年11月11日発行)

 天童大人『長編詩 バビロン詩編』はバビロンで詩を朗読したときのことを書いている。天童は朗読を「聲を撃つ」と呼んでいる。

八方に遮るものはない
この七千年の時を経た塔の跡に立ち
思い思いに詩人たちは聲を撃った
が何に遮られているのか誰の聲も通らない

私の肉体は 立つ場を決められず
八方へ聲を撃ちながら 一つの聲の道を見つけた

バビロン 紀元前五千年
この穴だらけの岩
このニムロデの塔の跡の地底
から放たれている強い磁場は
エジプトのギザのピラミッド
メキシコの月のピラミッドの天頂
ペルーのマチュピチュ 太陽の神殿のインティワタナ
大和の三輪山山頂
対馬の和多都美神社・海中の一の鳥居
などで体が受けた波動はこの場より弱いのだ

 多くの詩人たちは「聲を撃つ」が「誰の聲も通らない」。このとき最初に天童は「遮る」という動詞をつかい、「通らない」と言い直している。「遮る」ものは、たとえば「壁」である。しかし、そんなものは、そこにはない。
 これをこのあと、天童は「聲の道」ということばでとらえ直す。「壁」(遮るもの)があるのではなく、「道」がないのだ。「道」を外れているのだ。
 だが、どうやって「道」を見つければいいのか。「立つ」という動詞に私は注目した。「立つ場」と天童は書く。ある「場」に「立つ」。そうすると、おのずと「道」は開けるのである。
 天童は、バビロンに来るまでに、すでにいろいろな「場」に立っている。それまでに体験した「場」と「ニムロデの塔跡」とは違う。何が違うのか。「体が受けた波動」が違う。ニムロデの塔跡では、体が受ける波動が強い。でも、この「体が受ける波動」とは何か。抽象的である。私は天童が書いているどの「場」にも行ったことがないから、これでは何が書いてあるかわからない。
 で、少し読み返す。
 「体」と書かれていることばは、その前は「私の肉体は 立つ場を決められず」と「肉体」ということばとして書かれている。同時に「立つ」という動詞もつかわれている。ただしその「立つ」は独立したことばではない。「肉体が立つ」と動詞で完結しているのではない。「立つ場」と「場(名詞)」を含んでいる。
 「立つ場」とは「立場」でもある。「立つ場」とは単に、ある場所ではない。「肉体」を「立たせる」とは単にその場に行くことではない。その「場」に立つことで、自分のどのように位置づけるか。「歴史」のなかに、「空間」のなかに、人間として、自分をどのように置くか。それが「立場」というものだろう。
 「アタチェルク空港」に、こんなことばがある。

この荒涼とした大地に期限切れ間近の大量の爆弾
を消費してアメリカの軍産体制を維持し 国を破壊し
独裁者を葬り去り 石油を略奪するための戦争に
イラクの無辜の民たちはどれだけ無為な命を失ったか

 「事件」「現実/現在」をどうとらえるか。天童の定義とは違う定義をするひともいる。つまり、「立場」が違う。「立場」が違えば「現在の場」が違う。「歴史」を貫く「真実の時間の動き(道)」のあり方が違う。
 天童は、自分の「立場」(歴史をどう見るか、現実をどう見るか)を「肉体」を通して実感し、それを確認したとき、その「肉体」のなかに「道」を見つけたのだ。どうことばを発すれば、その聲がまっすぐに進んでいくかを発見したのだ。
 これは、他の詩人達が「道」を見つけられなかったということではなく、それぞれが違う「聲」をもっている、ということである。ある人には聞こえる「聲」があり、あるひとには聞こえない「聲」がある。だから、「聲」はまず自分自身の「解放」であって、その解放された叫びが自分自身に聞こえ、それを受け止められるかが大事なのだ。
 「声」ではなく、天童は「聲」と書く。「聲」のなかには「声」と「耳」がある。「殳」は「はこ」であり、「兵器」である。この「殳」を「肉体」と読み直してみる。「声」と「耳」をつなぎとめる「兵器(あるいは入れ物)」としての「肉体」。「肉体」は多くの人の「声(歴史と現実)」を「聞き」(吸収し)、「肉体」のなかで自分の「声(認識/思想)」を育て、それを発する。そのとき「聲」は兵器である。ただし、素手の兵器。人の「肉体」に損害をあたえない。しかし、「肉体」を貫き、「思想」を破壊するかもしれない。「聲」には「歴史(思想)」がある。その人がどう生きてきたか、そういうことがすべて反映している。その自分自身の「聲」のための「道」を見つける。それが見つかれば「道」を自分自身の「聲」の「軌道/弾道」にするということだろう。
 「バビロンの道」には、こんなことばがある。

検問所の三人の警官の中であの大柄な男
だけが怒鳴っているのが口の動かし方で分かる
なぜ彼が怒っているのかは解らない

 「分かる」と「解る」がつかいわけられている。「口の動かし方」から「怒鳴っている」のが「分かる」。これは、天童が怒鳴っているひとを何度も見たことがあるからだろう。それだけではなく怒鳴った体験があり、そのときの自分自身の「口の動かし方」を覚えているからだろう。肉体で覚えていることは、いつでも「分かる」のだ。「分かる」は「共有」であり、「共有」は「分有」でもある。同じものを分かちながら、共にもつ。しかし、彼の怒りの原因(理由)までは「解らない」。それは天童が「肉体」で体験していないことだからである。
 「肉体」は「有限」である。体験できることと体験できないことがある。

この荒涼とした大地に期限切れ間近の大量の爆弾
を消費してアメリカの軍産体制を維持し 国を破壊し
独裁者を葬り去り 石油を略奪するための戦争に
イラクの無辜の民たちはどれだけ無為な命を失ったか

 これは「体験」か。「体験」ではなく、「想像」である。その想像にはしかし、いろいろなものが組み合わされる。まじりこむ。その結果、「想像できる/共有・分有できる」から「分かる」にかわる。「大柄な男」の怒りは「想像できない/共有できない(分有できない)」から「解らない」。「体験(肉体)」と「想像力(精神)」がぶつかり、肉体の記憶からさまざまなものを分有する、つまり、時間をかけながら「解る」が「分かる」へ変化していく。そのときの「実感」のようなものが「聲」になって発せられるということか。
 そうなのだと、思う。
 この「変化」。「認識」が「思想」になり、「聲」となって実際に動き出すまでの変化を天童はおもしろい「形」で具体化している。

が何に遮られているのか誰の聲も通らない

から放たれている強い磁場は

 のように、「助詞」が行の先頭に来ている。ふつう助詞は分節末に置かれる。ところが天童は逆に書いている。これは、どういうことだろうか。
 たとえば、

思い思いに詩人たちは聲を撃ったが
何に遮られているのか誰の聲も通らない

思い思いに詩人たちは聲を撃った
が何に遮られているのか誰の聲も通らない

 これは、どう違うのだろうか。助詞が文末に置かれた方が、次のことばを想像しやすい。「が」のあとは、逆の意味のことばがつづくと想像できる。そういう想像力の動きを天童は拒否しているのだ。簡単に想像するな、と他者の想像力をいったん拒否するのである。いや、自分自身の想像力に疑問を投げかけ、「コンテキスト」に頼るなと言い聞かせているのだろう。つぎのことばが爆発するまで、いま発したことばをそのままにしておけ。あるいは、いま発したことばの威力を確認したあとで、次の「攻撃」にふさわしいことば(聲)を準備しろ、と言い聞かせているのかもしれない。
 「聲」は実際に聞かないとわからないが、「聲」とともにある「息づかい」は書かれたことば(印刷されたことば)からもつたわってくる。








**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」10月号を発売中です。
182ページ、1750円(送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=1680710487

(バックナンバーは、谷内までお問い合わせください。yachisyuso@gmail.com)



オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« なぜ「GOTO」にこだわる... | トップ | 高橋睦郎『深きより』(4) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

詩集」カテゴリの最新記事