詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『深きより』(4)

2020-11-15 18:56:46 | 高橋睦郎『深きより』


高橋睦郎『深きより』(4)(思潮社、2020年10月31日発行)

 「四 雪しく封印」は「大伴家持」。

言ふなかれ わたくしが二度死なしめられた とは

とはじまる。二度の死とは肉体の死(戦死)と反逆者として位や名前を奪われたことを指す。しかし、家持はそれを認めない。なぜか。

すでにわたくしは わたくし自身を葬つたのだ
新しき年の始の初春の今日降る雪のいや重け吉事
これが 私の自らを葬る弔ひの棺挽き歌
同時に この国の古歌そのものの挽歌でもある

 「歌」によって「わたくし自身を葬つた」というとき、私は「辞世の歌」を連想するが、高橋の引用している歌は辞世の歌なのか。それに、この歌は「挽歌」なのか。私は「降りつづく雪のようによいことが重なりますように」という祈りの歌、新年を祝う歌だと思っていたので、ここで、つまずいた。
 しかし、冒頭の「二度の死」を、ここでこんなふうに虚構によって「二重」にしていることの方に興味を持った。「わたくしを葬る」と「古歌を葬る」を重ねるとき、それは「古歌に通じるわたくしを葬る」ことになる。つまり、「新しい歌を生きる」ということになる。そして、この「新しい」を「新年」に重ね合わせれば、「死」こそが新しい命を生み出すということになる。
 屈折しているというか、論理的であるにしても、その論理が論理のための論理のように感じられる。これは冒頭の「二度の死」に対抗する家持の「戦い」であるとも言える。

この歌の天地を満たし 降りつづき降り重しく雪は
歌ふわたくしと歌ふ時代とを 共に送る純白の葬儀
その白の中に わたくしはしかと封印したのだ

 何を封印したのか、が問題かもしれない。「万葉集」最後の歌であることを考慮すれば、たしかにそれ以前の歌(同時代の歌を含む)を封印したということになるのかもしれないが、私はそれについては書くことを保留する。
 私が書きたいと思うのは「白」ということばについてである。「純白の葬儀」を「その白の中」と言い直すとき、高橋は、いったい何を見ているのだろうか。
 「白」とは何か。
 単なる「色」を超えた存在のように私には感じられる。
 「二度の死」「わたくし自身を葬る」という「二重性」。この「二重性」を私は「隠す」ということばでとらえ直したい。あるいは「否定」ということばでとらえ直したい。
 家持の戦死から、家持の名前と将軍としての地位を剥奪するとき、そこでは家持の存在が隠され、否定されている。歌を歌い、その歌の中で「わたくし自身を葬る」とは「わたくしの名前をみずから否定し、隠す」ということか。そのとき残るのは何か。「歌」である。署名のない歌、詠み人知らずの歌。ただ、ことばだけが残る。
 多くの歌には当然「署名」がある。しかし、署名を持たない歌もある。歌は署名がなくても生き残る。「万葉集」そのものも、編集者・家持の「名前」を無視して、あるいは超越して残る。
 もしかしたら「古歌を葬る」というとき、家持の考えていたのは(高橋の考えていたのは)、署名つきの歌のことかもしれない。そうしたものを否定し、署名なしで生き残る歌を目指す。いま(といっても、死んでからのことだが)、家持は「名前」を奪われた。「無名」になった。しかし、歌は残る。そこに「署名」を認めるか、認めないかは別問題として、歌は残る。                     
 そのときの「歌の肉体」のようなもの。署名されていない歌。あるいは「無名」の「無」が。それが「白」なのではないか。「白」は「無色」だ。その「無色」の無としての「白」。ただそこにあるだけの「肉体」の白い輝き。それこそが「歌」なのではないか、という思い……。

 私は富山の生まれであり、富山で育った。家持が見たのと同じ雪ではないが、同じ地域に降る雪を見ている。雪は、すべてのものを隠してしまう。高校時代に、「雪は夏の汗を隠して大地に降り積もる」「雪は夏の汗の結晶、大地を隠して降る」というような詩を書いた記憶がある。私の家は農家であり、雪は田畑で働くことからの解放をも意味した。もちろん、雪の間は雪の間で、しなければならないことはあるのだが。
 雪の白は、それまでの全てを封印する。ここから新しい何かがはじまる。はじめるための封印としての白。
 この封印する「肉体としての白」を、私はたしかに知っている、と思う。
 私の「誤読」は、高橋の思いを外れているだろう。だから「誤読」というしかないのだが、私は「誤読」したことを書き残しておきたいのである。






**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」10月号を発売中です。
182ページ、1750円(送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=1680710487

(バックナンバーは、谷内までお問い合わせください。yachisyuso@gmail.com)



オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 天童大人『長編詩 バビロン... | トップ | やっぱり「GoTo」は五輪... »
最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
高橋睦夫「深きより」4 (大井川賢治)
2024-03-22 23:54:56
谷内さんの興味深い提言、「白は、白いという有色なのか?それとも、無色なのか?」
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

高橋睦郎『深きより』」カテゴリの最新記事