高橋睦郎『深きより』(4)(思潮社、2020年10月31日発行)
「四 雪しく封印」は「大伴家持」。
言ふなかれ わたくしが二度死なしめられた とは
とはじまる。二度の死とは肉体の死(戦死)と反逆者として位や名前を奪われたことを指す。しかし、家持はそれを認めない。なぜか。
すでにわたくしは わたくし自身を葬つたのだ
新しき年の始の初春の今日降る雪のいや重け吉事
これが 私の自らを葬る弔ひの棺挽き歌
同時に この国の古歌そのものの挽歌でもある
「歌」によって「わたくし自身を葬つた」というとき、私は「辞世の歌」を連想するが、高橋の引用している歌は辞世の歌なのか。それに、この歌は「挽歌」なのか。私は「降りつづく雪のようによいことが重なりますように」という祈りの歌、新年を祝う歌だと思っていたので、ここで、つまずいた。
しかし、冒頭の「二度の死」を、ここでこんなふうに虚構によって「二重」にしていることの方に興味を持った。「わたくしを葬る」と「古歌を葬る」を重ねるとき、それは「古歌に通じるわたくしを葬る」ことになる。つまり、「新しい歌を生きる」ということになる。そして、この「新しい」を「新年」に重ね合わせれば、「死」こそが新しい命を生み出すということになる。
屈折しているというか、論理的であるにしても、その論理が論理のための論理のように感じられる。これは冒頭の「二度の死」に対抗する家持の「戦い」であるとも言える。
この歌の天地を満たし 降りつづき降り重しく雪は
歌ふわたくしと歌ふ時代とを 共に送る純白の葬儀
その白の中に わたくしはしかと封印したのだ
何を封印したのか、が問題かもしれない。「万葉集」最後の歌であることを考慮すれば、たしかにそれ以前の歌(同時代の歌を含む)を封印したということになるのかもしれないが、私はそれについては書くことを保留する。
私が書きたいと思うのは「白」ということばについてである。「純白の葬儀」を「その白の中」と言い直すとき、高橋は、いったい何を見ているのだろうか。
「白」とは何か。
単なる「色」を超えた存在のように私には感じられる。
「二度の死」「わたくし自身を葬る」という「二重性」。この「二重性」を私は「隠す」ということばでとらえ直したい。あるいは「否定」ということばでとらえ直したい。
家持の戦死から、家持の名前と将軍としての地位を剥奪するとき、そこでは家持の存在が隠され、否定されている。歌を歌い、その歌の中で「わたくし自身を葬る」とは「わたくしの名前をみずから否定し、隠す」ということか。そのとき残るのは何か。「歌」である。署名のない歌、詠み人知らずの歌。ただ、ことばだけが残る。
多くの歌には当然「署名」がある。しかし、署名を持たない歌もある。歌は署名がなくても生き残る。「万葉集」そのものも、編集者・家持の「名前」を無視して、あるいは超越して残る。
もしかしたら「古歌を葬る」というとき、家持の考えていたのは(高橋の考えていたのは)、署名つきの歌のことかもしれない。そうしたものを否定し、署名なしで生き残る歌を目指す。いま(といっても、死んでからのことだが)、家持は「名前」を奪われた。「無名」になった。しかし、歌は残る。そこに「署名」を認めるか、認めないかは別問題として、歌は残る。
そのときの「歌の肉体」のようなもの。署名されていない歌。あるいは「無名」の「無」が。それが「白」なのではないか。「白」は「無色」だ。その「無色」の無としての「白」。ただそこにあるだけの「肉体」の白い輝き。それこそが「歌」なのではないか、という思い……。
私は富山の生まれであり、富山で育った。家持が見たのと同じ雪ではないが、同じ地域に降る雪を見ている。雪は、すべてのものを隠してしまう。高校時代に、「雪は夏の汗を隠して大地に降り積もる」「雪は夏の汗の結晶、大地を隠して降る」というような詩を書いた記憶がある。私の家は農家であり、雪は田畑で働くことからの解放をも意味した。もちろん、雪の間は雪の間で、しなければならないことはあるのだが。
雪の白は、それまでの全てを封印する。ここから新しい何かがはじまる。はじめるための封印としての白。
この封印する「肉体としての白」を、私はたしかに知っている、と思う。
私の「誤読」は、高橋の思いを外れているだろう。だから「誤読」というしかないのだが、私は「誤読」したことを書き残しておきたいのである。
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