田原「小説家 閻連科に」(「現代詩手帖」1月号)
田原「小説家 閻連科に」を読みながら、田原にとって閻連科とはどういうふうに見えているか考えてみた。
ここから閻が「故郷」の生まれであることがわかる。「故郷」は「都会」と対極にあるものだろう。都会に出てきても、魂は「故郷」にある。これは、田原の姿かもしれない。田原がそうであるから、閻の魂が「故郷」に引っ張られるのを感じ取ることができるだろう。
でも「一本のロープ」とは何だろうか。
「故郷は一本のロープ」ではなく「故郷からの一本のロープ」と書いている。
「ロープ」と「比喩」で呼ばれたものが、次の連から具体的に書き直される。
「故郷」は「低い藁ぶきの屋根」の家。庭は狭い。ひとは楡の木の実を食べて飢餓を満たす。「もの(藁ぶき屋根)」だけではなく「狭い庭」の「狭い」という「こと」、「楡の実」で飢えをしのいだという「こと」が「故郷」である。
田原もまた同じことを体験したのだろう。閻の「肉体」に田原は田原の「肉体」を重ねている。
「遠方の町」に「憧れる」、その「憧れる」という「動詞」が「故郷」なのだ。「肉体」のつぎに「こころ」を重ねている。共有している。田原もまた「遠方の町」に憧れたことがあるのだ。
これは何だろう。
「意味」は「肉体(飢餓)」と「精神(憧れ)」の拮抗から動き出すもの。ことばによって初めてつかみとることができる「真実」である。
田原は、これを「鳥の巣」以下の二行で言いなおしている。
「故郷」を出る。それは、「故郷」の側から見れば、「鳥の巣の卵」を失った「木」になるということだろうか。さびしいという感情、それが「意味」だ。隠れていたものがあらわれてきたのだ。「木」を「肉親(家族)」、「鳥の巣の卵」を閻、あるいは田原と読み直すこともできるかもしれない。
私は閻の履歴も田原の履歴も知らないから思いっきり「誤読」する(妄想する)のだが、閻も田も「肉親」を「故郷」に残して、「遠い町(都会)」へ出てきたのかもしれない。
「故郷」では「肉親」が「巣の卵」をなくしてしまった木のようにさびしさをかかえて生きている。それが田原には「わかる」のだろう。
自分だけの「視点」で世界を見つめるのではなく、自分をみつめる他者(といってもつながりのあるひと、たとえば肉親)の視点からも世界を見つめる。
そうすると、世界が「立体的」になる。
このような連を含んでことばはつづき、
「現実と虚構」というのは、しかし、ふつうに言うような「現実と嘘(空想)」とは違うと思う。
先に引用したことばに結びつけて言うと「現実」を「私(閻、田原)」とするなら「虚構」は「故郷の肉親」である。それも「現実」である。ただし、「私」が直接「肉体」でつかみとる「現実」ではなく、「他者」を見ることによってつかみ取る(一緒に生きることでつかみ取る)もうひとつの「現実」である。
私は、「虚構」を「他者」と読みたいのだ。
「現実」は「虚構」によって、その本質を浮かび上がらせる。小説は「虚構」を利用して「現実」のなかに潜む「真実」を暴き出すものという見方がある。その見方を流用すれば、「私(自己)」は「他者」をとおして「本質」をつかむ。「他者」をとおして「自己(私)」の「本質」をつかみなおすということになる。木がさびしいなら、鳥も(卵も、卵から孵って、飛び立っていく小鳥も)さびしいのだ。
そのとき、その「現実と虚構」「自己と他者」というのは、「固定化」できないものである。相互を「渡る」ことで、瞬間瞬間に姿をあらわすものである。「現実」は「虚構」であり、「虚構」は「現実」である。「私(自己)」と「他者」であり、「他者」は「自己(私)」である。
ふたつのあいだを激しく往き来しながら、往き来する(渡る)という「動詞」が浮かび上がる。「動詞」のなかに、「現実(私)」と「虚構(他者)」が結びつき、ただ「消尽」する。
そう作家の姿をスケッチした後、
という連がある。
「母語は絶対的なもの」という一行に、私は「嫉妬」してしまう。
「自己(私)」と「他者(肉親)」をつないでけっして放さないものが「母語」である。「現実」と「虚構」を結びつけて放さないのが「母語」である。
「母語」のなかには「音」がある。共有された「ことばの動き(ことばの肉体)」がある。「意味」を突き破って動いていく「比喩(イメージ)」がある。「論理」をたたき壊す「激情」がある。
これは中国語を「母語」としない私には触れることのできない「いのち」である。
「母語」とは「現実(肉体/いのち)」であり、「文(文章)」とは「虚構(意味/精神)」である、とも言える。
「意味(ストーリー)」なら翻訳でもたどることができる。しかし、「母語」がもっている「音」の力、「音」が抱え込む「暴力」のようなものは、私にはつかみとれない。触れることさえできない。
その「一端」は閻の小説を読めば「知る」ことができる。音(音楽)に対する敏感な肉体が描かれている。だが、それは「わかる」とは言えない。
閻の小説は、田原が書いているように「魔術」(魔法)のようなものである。
しかし、その「魔術」を私は「ストーリー」として読むのであって、「声(音)」、いいかえると「音楽」として感じ取るのではない。
田原は「音(音楽)」に反応していると思う。「音(音楽)」が「母語」という「意味」以前のものを「絶対」と呼ぶところにあらわされている。
田原には、あたりまえかもしれないが「母語」が見えている。聞こえている。「母語」をとおして、閻と「肉体」を重ね、「激情」を重ね、「体験」を重ね、生きている。
それが詩のことばのいたるところに感じられる。
こういうことは「嫉妬」してもしようがないことである。
しかし、「母語」として、閻のことばを読む(聞く)ことができるというのは、やはりうらやましい。閻の『硬きこと水のごとし』を読んだ直後なので、そう感じた。
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目次
カニエ・ナハ『IC』2 たなかあきみつ『アンフォルム群』11
林和清『去年マリエンバートで』15 夏目美知子「雨についての思索を一篇」18
北川透「「佃渡しで」を読む」21 野木京子「小石の指」31
疋田龍乃介「ひと息に赤い町を吸い込んで」34 藤本哲明『ディオニソスの居場所』37
マーサ・ナカムラ『狸の匣』40 星野元一『ふろしき讃歌』46
暁方ミセイ『魔法の丘』53 狩野永徳「檜図屏風」と長谷川等伯「松林図屏風」58
暁方ミセイ『魔法の丘』(2)63 新井豊吉『掴みそこねた魂』69
松本秀文『「猫」と云うトンネル』74 松本秀文『「猫」と云うトンネル』78
山下晴代『Pale Fire(青白い炎)』83 吉田正代『る』87
福間明子『雨はランダムに降る』91 清川あさみ+最果タヒ『千年後の百人一首』95
川上明日夫『白骨草』107
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田原「小説家 閻連科に」を読みながら、田原にとって閻連科とはどういうふうに見えているか考えてみた。
故郷からの一本のロープ
いくら旅して遠く離れても
目に見えない力で
あなたの魂を引っ張る
ここから閻が「故郷」の生まれであることがわかる。「故郷」は「都会」と対極にあるものだろう。都会に出てきても、魂は「故郷」にある。これは、田原の姿かもしれない。田原がそうであるから、閻の魂が「故郷」に引っ張られるのを感じ取ることができるだろう。
でも「一本のロープ」とは何だろうか。
「故郷は一本のロープ」ではなく「故郷からの一本のロープ」と書いている。
「ロープ」と「比喩」で呼ばれたものが、次の連から具体的に書き直される。
低い藁ぶきの屋根は
狭い庭を際立たせる
老いた楡の木の実は
飢餓を満たす
「故郷」は「低い藁ぶきの屋根」の家。庭は狭い。ひとは楡の木の実を食べて飢餓を満たす。「もの(藁ぶき屋根)」だけではなく「狭い庭」の「狭い」という「こと」、「楡の実」で飢えをしのいだという「こと」が「故郷」である。
田原もまた同じことを体験したのだろう。閻の「肉体」に田原は田原の「肉体」を重ねている。
門口のぬかるむ小道が
あなたの生長を記した
遠方の町は
唯一の憧れ
「遠方の町」に「憧れる」、その「憧れる」という「動詞」が「故郷」なのだ。「肉体」のつぎに「こころ」を重ねている。共有している。田原もまた「遠方の町」に憧れたことがあるのだ。
村はずれの田沼は涸れ
ようやく意味を表す
鳥の巣の卵はすべて取り出され
木はさびしくてたまらない
これは何だろう。
「意味」は「肉体(飢餓)」と「精神(憧れ)」の拮抗から動き出すもの。ことばによって初めてつかみとることができる「真実」である。
田原は、これを「鳥の巣」以下の二行で言いなおしている。
「故郷」を出る。それは、「故郷」の側から見れば、「鳥の巣の卵」を失った「木」になるということだろうか。さびしいという感情、それが「意味」だ。隠れていたものがあらわれてきたのだ。「木」を「肉親(家族)」、「鳥の巣の卵」を閻、あるいは田原と読み直すこともできるかもしれない。
私は閻の履歴も田原の履歴も知らないから思いっきり「誤読」する(妄想する)のだが、閻も田も「肉親」を「故郷」に残して、「遠い町(都会)」へ出てきたのかもしれない。
「故郷」では「肉親」が「巣の卵」をなくしてしまった木のようにさびしさをかかえて生きている。それが田原には「わかる」のだろう。
自分だけの「視点」で世界を見つめるのではなく、自分をみつめる他者(といってもつながりのあるひと、たとえば肉親)の視点からも世界を見つめる。
そうすると、世界が「立体的」になる。
このような連を含んでことばはつづき、
あなたは一艘の船
現実と虚構の間を渡る
あなたは一つの炭
自分を燃やし尽くしても、厳寒を追い払えない
「現実と虚構」というのは、しかし、ふつうに言うような「現実と嘘(空想)」とは違うと思う。
先に引用したことばに結びつけて言うと「現実」を「私(閻、田原)」とするなら「虚構」は「故郷の肉親」である。それも「現実」である。ただし、「私」が直接「肉体」でつかみとる「現実」ではなく、「他者」を見ることによってつかみ取る(一緒に生きることでつかみ取る)もうひとつの「現実」である。
私は、「虚構」を「他者」と読みたいのだ。
「現実」は「虚構」によって、その本質を浮かび上がらせる。小説は「虚構」を利用して「現実」のなかに潜む「真実」を暴き出すものという見方がある。その見方を流用すれば、「私(自己)」は「他者」をとおして「本質」をつかむ。「他者」をとおして「自己(私)」の「本質」をつかみなおすということになる。木がさびしいなら、鳥も(卵も、卵から孵って、飛び立っていく小鳥も)さびしいのだ。
そのとき、その「現実と虚構」「自己と他者」というのは、「固定化」できないものである。相互を「渡る」ことで、瞬間瞬間に姿をあらわすものである。「現実」は「虚構」であり、「虚構」は「現実」である。「私(自己)」と「他者」であり、「他者」は「自己(私)」である。
ふたつのあいだを激しく往き来しながら、往き来する(渡る)という「動詞」が浮かび上がる。「動詞」のなかに、「現実(私)」と「虚構(他者)」が結びつき、ただ「消尽」する。
そう作家の姿をスケッチした後、
積み重ねた原稿用紙は耕した田んぼ
あぜ道を縦横に通って宇宙と繋がる
母語は絶対的なもの
それを超えるのは
文学その現実と魔術の翼
という連がある。
「母語は絶対的なもの」という一行に、私は「嫉妬」してしまう。
「自己(私)」と「他者(肉親)」をつないでけっして放さないものが「母語」である。「現実」と「虚構」を結びつけて放さないのが「母語」である。
「母語」のなかには「音」がある。共有された「ことばの動き(ことばの肉体)」がある。「意味」を突き破って動いていく「比喩(イメージ)」がある。「論理」をたたき壊す「激情」がある。
これは中国語を「母語」としない私には触れることのできない「いのち」である。
「母語」とは「現実(肉体/いのち)」であり、「文(文章)」とは「虚構(意味/精神)」である、とも言える。
「意味(ストーリー)」なら翻訳でもたどることができる。しかし、「母語」がもっている「音」の力、「音」が抱え込む「暴力」のようなものは、私にはつかみとれない。触れることさえできない。
その「一端」は閻の小説を読めば「知る」ことができる。音(音楽)に対する敏感な肉体が描かれている。だが、それは「わかる」とは言えない。
閻の小説は、田原が書いているように「魔術」(魔法)のようなものである。
しかし、その「魔術」を私は「ストーリー」として読むのであって、「声(音)」、いいかえると「音楽」として感じ取るのではない。
田原は「音(音楽)」に反応していると思う。「音(音楽)」が「母語」という「意味」以前のものを「絶対」と呼ぶところにあらわされている。
田原には、あたりまえかもしれないが「母語」が見えている。聞こえている。「母語」をとおして、閻と「肉体」を重ね、「激情」を重ね、「体験」を重ね、生きている。
それが詩のことばのいたるところに感じられる。
こういうことは「嫉妬」してもしようがないことである。
しかし、「母語」として、閻のことばを読む(聞く)ことができるというのは、やはりうらやましい。閻の『硬きこと水のごとし』を読んだ直後なので、そう感じた。
![]() | 田原詩集 (現代詩文庫) |
田 原 | |
思潮社 |
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「詩はどこにあるか」11月の詩の批評を一冊にまとめました。
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オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
目次
カニエ・ナハ『IC』2 たなかあきみつ『アンフォルム群』11
林和清『去年マリエンバートで』15 夏目美知子「雨についての思索を一篇」18
北川透「「佃渡しで」を読む」21 野木京子「小石の指」31
疋田龍乃介「ひと息に赤い町を吸い込んで」34 藤本哲明『ディオニソスの居場所』37
マーサ・ナカムラ『狸の匣』40 星野元一『ふろしき讃歌』46
暁方ミセイ『魔法の丘』53 狩野永徳「檜図屏風」と長谷川等伯「松林図屏風」58
暁方ミセイ『魔法の丘』(2)63 新井豊吉『掴みそこねた魂』69
松本秀文『「猫」と云うトンネル』74 松本秀文『「猫」と云うトンネル』78
山下晴代『Pale Fire(青白い炎)』83 吉田正代『る』87
福間明子『雨はランダムに降る』91 清川あさみ+最果タヒ『千年後の百人一首』95
川上明日夫『白骨草』107
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詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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