谷川俊太郎『詩に就いて』(31)(思潮社、2015年04月30日発行)
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この詩では「放課後」の「(詩/言葉が)和音に乗って旋律がからだに入ってくる」という行が複数の形で言い換えられている。
「放課後」が「少年期」の谷川、詩人として誕生した瞬間の谷川を書いているとしたら、この作品は「青年期」の谷川のことを書いているのだろう。「青年期」と言っても、それは「少年期(詩人誕生)」と「いま」とのあいだの長い期間のことだけれど。
「彼」「その男」という「主語」となって登場しているのだけれど、谷川自身のことを書いていると感じさせる。三連目「思いがけない言葉に恵まれる度に」の「主語」が明示されていないために、よけいにそう感じる。「文法」的には「彼」「その男」がなのだが、省略されているために、ついつい「現代詩」を読むときの習慣で「私(作者)」を「主語」として補ってしまう。そこで、「彼」「その男」「谷川」の混同が起きる。「彼」で統一しないで、「その男」と言い換えていることが、混同をさらに誘っている。
「少年」だった谷川は「言葉を待って」いた。「青年」の谷川は待っていただけではなく、「恵まれ」た。それはいつも「思いがけない言葉」だった。「待っていた言葉(予想していた言葉)」とは違っていたということだろう。だからこそ「だれかが書いた言葉でもない/人間が書いたんじゃない」という感じになる。「人間が書いたんじゃない」とは「思いがけない(想像を超えている)」ということと同じである。この「思いがけない」は二連目では「ビッグバンの瞬間に/もう詩は生まれていた/星よりも先に神よりも早く」と書かれている。
< >でくくられたことばは、みな同じ意味、言い直しである。一連目で「詩」とカギ括弧でくくられている詩を、谷川は言い直している。「自己流の詩の定義」を少しずつ言い直している。
言い直しであるから、言い直すほど、「深み」に入っていく。「ビッグバンの瞬間」は「言語以前」と言い直され、「言語以前に偏在している詩」とつづけられる。この表現は「未生の言葉」を思い出させる。
そして、とてもおもしろいのは、その「未生の言葉」が「偏在している(詩)」と書かれていることである。「偏在している」とは「どこにでも存在している/広く存在している」ということだが、私にはこの「偏在している」が「ひそんでいる(隠れている)」と同じ意味でつかわれているように思える。辞書の意味とは逆に感じられる。このときの「ひそんでいる」は「詩よ」に書かれていた「まばらな木立の奥で野生の詩は/じっと身をひそめている」というときの「ひそめている」と同じだ。また「隙間」の「隙間に詩は忍び込む」の「忍び込む」と同じだ。野生の詩は、まばらな木立の奥に「忍び込み」「偏在している」のである。「偏在している」と「ひそんでいる」と「忍び込む」の区別は、その主語の「述語」ではない。その主語が能動的にそうしているのではない。「偏在している/ひそんでいる/忍び込んでいる」は、それを探している人間にとっての、対象の「状態」である。探し方次第で「偏在している」にも「ひそんでいる」にも「忍び込んでいる」にもなる。
だからこそ、その「偏在している/ひそんでいる/忍び込んでいる対象(詩)」は、「無私(の言葉)」によってしか「捉えられない」と言い直されるのである。探しているのだけれど、探すのをやめ「待っている」と、むこうから「あらわれてくる」「やってくる」。「探す」という動詞の主語「私」を「無」にしてしまう。そうすると、むこうからやってくる。しかも「偏在している」という形で。
「無私」というのは私が私を捨てること。そして、そこにある「木立」「隙間」になってしまう。「木立」「隙間」になってみると、それは、もう何かを隠さない。何かといっしょにある。その瞬間、「木立」「隙間」も「木立」「隙間」ではなくなり「無」になる。「木立」「隙間」が隠しているものだけが、そこに存在する。それは「無」をとおして「私」と「対象」が重なる(一致する、一体になる)ことでもある。だから、「詩」が偏在するのではなく、「私」が偏在する、と言い換えることもできる。
聞きかじったことばを流用して言えば、「私即是木立、木立即是ひそんでいる詩、詩即是私」ということ。「私即是詩、詩即是木立、木立即是私」ということ。そこでは、その必要に応じて「私」「木立」「ひそんでいる詩」が姿を現わすが、そのあらわし方は「方便」にすぎない。
「一元論」の世界である。「一元論」であるから「ビッグバン」の前も後もなく、「言語以前」も「言語以後」もない。何かを言わなければならないとき、「方便」として「ビッグバンの瞬間」とか「言語以前」とか言うだけのことである。
しかし、こういう書き方をしていると、どうも、私は谷川の詩を読んでいるのではなく、私の考えを補強するために谷川の詩を利用しているのではないのか、という疑問がわいてきてよくない。「一元論」にしろ「色即是空/空即是色」にしろ、それは私が聞きかじった「他人のことば(知識)」である。それを言い直す「肉体」と結びついたことばを私は持っていない。
谷川に言わせれば、「最初にことばがあった」ではなく「最初に詩があった」。谷川はそう感じているのだろう。そう思うところで、私は私のことばをとめておかなければいけない。「考える」と、自分のことばを動かしているように見えても、実際は聞きかじったことばに動かされてしまう。
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その男
<これは俺が書いた言葉じゃない
誰かが書いた言葉でもない
人間が書いたんじゃない
これは「詩」が書いた言葉だ>
内心彼はそう思っている
謙遜と傲慢の区別もつかずに
カウンターの端に座っているその男は
紺のスーツに錆色のタイ
絵に描いたような会社員だ
<ビッグバンの瞬間に
もう詩は生まれていた
星よりも先に神よりも早く>
思いがけない言葉に恵まれる度に
そんな自己流の詩の定義を
何度反芻したことか
<言語以前に偏在している詩は
無私の言葉によってしか捉えられない>
男はバーボンをお代わりする
この詩では「放課後」の「(詩/言葉が)和音に乗って旋律がからだに入ってくる」という行が複数の形で言い換えられている。
「放課後」が「少年期」の谷川、詩人として誕生した瞬間の谷川を書いているとしたら、この作品は「青年期」の谷川のことを書いているのだろう。「青年期」と言っても、それは「少年期(詩人誕生)」と「いま」とのあいだの長い期間のことだけれど。
「彼」「その男」という「主語」となって登場しているのだけれど、谷川自身のことを書いていると感じさせる。三連目「思いがけない言葉に恵まれる度に」の「主語」が明示されていないために、よけいにそう感じる。「文法」的には「彼」「その男」がなのだが、省略されているために、ついつい「現代詩」を読むときの習慣で「私(作者)」を「主語」として補ってしまう。そこで、「彼」「その男」「谷川」の混同が起きる。「彼」で統一しないで、「その男」と言い換えていることが、混同をさらに誘っている。
「少年」だった谷川は「言葉を待って」いた。「青年」の谷川は待っていただけではなく、「恵まれ」た。それはいつも「思いがけない言葉」だった。「待っていた言葉(予想していた言葉)」とは違っていたということだろう。だからこそ「だれかが書いた言葉でもない/人間が書いたんじゃない」という感じになる。「人間が書いたんじゃない」とは「思いがけない(想像を超えている)」ということと同じである。この「思いがけない」は二連目では「ビッグバンの瞬間に/もう詩は生まれていた/星よりも先に神よりも早く」と書かれている。
< >でくくられたことばは、みな同じ意味、言い直しである。一連目で「詩」とカギ括弧でくくられている詩を、谷川は言い直している。「自己流の詩の定義」を少しずつ言い直している。
言い直しであるから、言い直すほど、「深み」に入っていく。「ビッグバンの瞬間」は「言語以前」と言い直され、「言語以前に偏在している詩」とつづけられる。この表現は「未生の言葉」を思い出させる。
そして、とてもおもしろいのは、その「未生の言葉」が「偏在している(詩)」と書かれていることである。「偏在している」とは「どこにでも存在している/広く存在している」ということだが、私にはこの「偏在している」が「ひそんでいる(隠れている)」と同じ意味でつかわれているように思える。辞書の意味とは逆に感じられる。このときの「ひそんでいる」は「詩よ」に書かれていた「まばらな木立の奥で野生の詩は/じっと身をひそめている」というときの「ひそめている」と同じだ。また「隙間」の「隙間に詩は忍び込む」の「忍び込む」と同じだ。野生の詩は、まばらな木立の奥に「忍び込み」「偏在している」のである。「偏在している」と「ひそんでいる」と「忍び込む」の区別は、その主語の「述語」ではない。その主語が能動的にそうしているのではない。「偏在している/ひそんでいる/忍び込んでいる」は、それを探している人間にとっての、対象の「状態」である。探し方次第で「偏在している」にも「ひそんでいる」にも「忍び込んでいる」にもなる。
だからこそ、その「偏在している/ひそんでいる/忍び込んでいる対象(詩)」は、「無私(の言葉)」によってしか「捉えられない」と言い直されるのである。探しているのだけれど、探すのをやめ「待っている」と、むこうから「あらわれてくる」「やってくる」。「探す」という動詞の主語「私」を「無」にしてしまう。そうすると、むこうからやってくる。しかも「偏在している」という形で。
「無私」というのは私が私を捨てること。そして、そこにある「木立」「隙間」になってしまう。「木立」「隙間」になってみると、それは、もう何かを隠さない。何かといっしょにある。その瞬間、「木立」「隙間」も「木立」「隙間」ではなくなり「無」になる。「木立」「隙間」が隠しているものだけが、そこに存在する。それは「無」をとおして「私」と「対象」が重なる(一致する、一体になる)ことでもある。だから、「詩」が偏在するのではなく、「私」が偏在する、と言い換えることもできる。
聞きかじったことばを流用して言えば、「私即是木立、木立即是ひそんでいる詩、詩即是私」ということ。「私即是詩、詩即是木立、木立即是私」ということ。そこでは、その必要に応じて「私」「木立」「ひそんでいる詩」が姿を現わすが、そのあらわし方は「方便」にすぎない。
「一元論」の世界である。「一元論」であるから「ビッグバン」の前も後もなく、「言語以前」も「言語以後」もない。何かを言わなければならないとき、「方便」として「ビッグバンの瞬間」とか「言語以前」とか言うだけのことである。
しかし、こういう書き方をしていると、どうも、私は谷川の詩を読んでいるのではなく、私の考えを補強するために谷川の詩を利用しているのではないのか、という疑問がわいてきてよくない。「一元論」にしろ「色即是空/空即是色」にしろ、それは私が聞きかじった「他人のことば(知識)」である。それを言い直す「肉体」と結びついたことばを私は持っていない。
谷川に言わせれば、「最初にことばがあった」ではなく「最初に詩があった」。谷川はそう感じているのだろう。そう思うところで、私は私のことばをとめておかなければいけない。「考える」と、自分のことばを動かしているように見えても、実際は聞きかじったことばに動かされてしまう。
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