嵯峨信之を読む(73)
120 道成寺
「道成寺」から「紀伊牧歌」という章になる。
「谷」と「峰」、「見上げる」(高さ)と(下へ)「落ちる」、つまり「上」と「下」。「対」を組み合わせながらイメージが結晶していく。その結晶力の中心に「孤独」という精神(感情)が輝く。
この「対」の組み合わせ、「矛盾」の効果は、「孤独」を「愛」ということばで言いなおすとき、さらに結晶度を増す。
「手のつけられぬひろがり」を感じるのが「孤独」。そしてそれは「愛している」ときに感じる。これは「受動の愛」ではなく「能動の愛」だからだろう。どこまで愛しても、愛したりない。愛が二人のあいだを埋めつくしているという実感よりも、そこに埋めつくせないひろがりがあるという不安の方が強い。
「谷」はそのとき「ひろがり」を通り越して、「深さ」にもなる。
「矛盾」のぶつかりあい、そこから「具象」の「抽象化」がはじまり、その動きのなかに「精神」そのものの形が感じられる。
「死よりも遠くなり冷たくなる」は、そうやって結晶した「抽象」だが、「石階」というものが「谷」と「峰」をつなぐものとして「具体」的なので、「抽象」なのに「抽象」ではなく「具象」と錯覚してしまう。
そういう不思議さがある。
120 道成寺
「道成寺」から「紀伊牧歌」という章になる。
二つの谷に挟まれた峰は
はるか彼方のもつと高い峰からつづいている
それを見上げてひとは深い孤独におちる
「谷」と「峰」、「見上げる」(高さ)と(下へ)「落ちる」、つまり「上」と「下」。「対」を組み合わせながらイメージが結晶していく。その結晶力の中心に「孤独」という精神(感情)が輝く。
この「対」の組み合わせ、「矛盾」の効果は、「孤独」を「愛」ということばで言いなおすとき、さらに結晶度を増す。
愛しあえば愛しあうほど
なぜひとは手のつけられぬひろがりを感じるのだろう
「手のつけられぬひろがり」を感じるのが「孤独」。そしてそれは「愛している」ときに感じる。これは「受動の愛」ではなく「能動の愛」だからだろう。どこまで愛しても、愛したりない。愛が二人のあいだを埋めつくしているという実感よりも、そこに埋めつくせないひろがりがあるという不安の方が強い。
「谷」はそのとき「ひろがり」を通り越して、「深さ」にもなる。
「矛盾」のぶつかりあい、そこから「具象」の「抽象化」がはじまり、その動きのなかに「精神」そのものの形が感じられる。
ときに二人は陽に輝いて石階を登つていく
石階にたかめられ ひきあげられ どこかへたどりつこうとする
だが夜になると その石階は死よりも遠くなり冷たくなる
「死よりも遠くなり冷たくなる」は、そうやって結晶した「抽象」だが、「石階」というものが「谷」と「峰」をつなぐものとして「具体」的なので、「抽象」なのに「抽象」ではなく「具象」と錯覚してしまう。
そういう不思議さがある。
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