監督 トム・フォード 出演 コリン・ファース、ジュリアン・ムーア、マシュー・グード、ニコラス・ホルト
コリン・ファースのかけている眼鏡が非常に気になった。どうみても「ダテ眼鏡」にしか見えない。レンズではなくガラスが入っている。うその眼鏡。目の表情を隠す、というのが一般的な「ダテ眼鏡」の利用方法だと思うが、コリン・ファースの場合、というか、この映画の場合は違うような感じがする。
隠すという要素もあるけれど、視線を目に集中させるという役割も果たすかもしれない。日本人とは違い西洋人は目の輪郭が淡い。目がどこにあるか分からない。ジュリアン・ムーアがアイシャドーで目のラインを濃く描くシーンが象徴的だ。コリン・ファースはゲイだが、さすがにアイラインを描くことはできない。そのかわりに、黒縁のくっきりした眼鏡で目のありかをはっきりさせる。
それにあわせるように、映像全体が、ちょうどコリン・ファースの眼鏡枠の目のように、意識的なフレームで切り取られアップになってスクリーンに広がる。スクリーンに映し出される映像は、ほんとうはもっと周囲を抱えている。広いはずである。けれど、それを特別な距離で切り取り、独立させ、目のように、「こころ」が見えるまで覗き込む。
目はこころの窓ということばがあるが、切り取られたアップは存在の「こころ」の窓であり、またあらゆる対象(もの)はほんらい「こころ」を持たない存在だから、切り取られたアップは、それを見つめる人の目を、目をとおして「こころ」を映し出す「鏡」かもしれない。
あらゆるものが「こころ」をのぞかせ、あらゆるものが「こころ」を映し出す――そういう苦しい世界をコリン・ファースは生きている。見つめることで「こころ」を告げ、見つめ返してくるのもに相手の「こころ」を覗き見ると同時に、自分の「こころ」を鏡に映して見るように見つめてしまう。
この映画の映像は異様に美しいが、それはコリン・ファースの「こころ」が美しいというよりは、美しいものしか認めないという偏狭さをあらわしているかもしれない。だから、美しいことは美しいが、誘い込まれるような官能性がない。なまめかしく切り取ろうとしているけれど、何か「肉感」に欠ける。健康さに欠ける。言い換えると、人工的すぎる。その人工的、嘘っぽい、というところが、「ダテ眼鏡」につながる。
最後、若い学生との一夜のシーンだけ、コリン・ファースは「ダテ眼鏡」をかけず、その目を素通しで見せているが、それまで苦しみぬいて、やっと「枠」のなかで自分を見せる、「枠」を通して世界を見つめるということをやめた――ということなのだろう。それは、いわば世界との和解だが、和解の直後、心筋梗塞(?)で死んでしまうというのは、ああ、いったい何だろうなあ。
何か、妙なものを隠しているなあ。ゲイであるとカミングアウトしている。それでもなおかつ、まだ何かを隠す。そういう変な「不全感」が残るなあ。