最果タヒ『空が分裂する』(講談社、2012年10月09日発行)
最果タヒ『空が分裂する』は二部構成になっていて、前半の作品はイラスト(漫画?)と同居している。どちらが先に書かれたのか。あるいは別々の場所で同時に書かれたのか。最果が詩を書いた後で、すでにある作品のなかから気に入ったものを選んで同居させたのか。--わからないし、ざっと眺めた感じではどのイラストも私には不向きである。私の感想は、最果にもイラストを描いたひとにも申し訳ないが、詩だけについての感想である。
「へらない」の2連目がとても気に入った。
ここには矛盾があるね。「音」「声」があふれている。それなのに「静かだね」。ふつうは「うるさいね」である。
どうして?
「耳が……言うんだ」という変な表現もある。「言う」のは「耳」ではなく、「口」ではないのか?
ここには「流通言語」ではとらえられない何かが起きている。「矛盾」が起きている。それも音があふれるのに「静か」、言うための肉体ではない「耳」が「言う」という間違いが交錯して、何かを起こしている。起きているというより、起こしている、という感じがする。
なぜ静かなんだろう。「耳が……言う」という表現を手がかりにすると、静かなのは耳が沈黙しているからでは? 「耳が……言うんだ」と書かれているのに、耳が沈黙していると言うのは、これまた「矛盾」なのだが、最果の書いている「矛盾」をときほぐして、「肉体」にして触れるには、何か「矛盾」(いままでのことばでは表現できないこと)をくぐりぬけないといけないような気がする。
で。
耳が沈黙している--耳が沈黙してというのは変かな? 耳は発声器官であるわけではないから「沈黙」しかできないか。私はそうは思わないのである。私たちは舌を動かし、口を動かし、声帯を動かして声を出しているというのはほんとうだと思うけれど、そのとき耳は黙っているかというと、私はそうは感じない。耳もいっしょになって「声」を出している。「声」を確かめながら次の「声」を動かしている。「耳」が働かなければ人間は「声」を出せないのではないかと思っている。
で、そうか。「耳」が沈黙しているから、まわりの「音」や「声」が聞こえるのだ。もし耳が大声で話していたら、耳は電車の音も小学生の下校時の笑い声も聞き取ることはできない。いいなあ、この感覚。わかるなあ。
で、「耳」が沈黙しているということは、同時に舌や喉も沈黙している。そして、舌や喉も聞いている。目も聞いている。だから「電車が通りすぎた」という動きも耳にとどく。目と耳がいっしょになって「聞いて/見ている」。
そのとき--そう思っている「自分の声」だけが、舌を動かさず、口を動かさず、声帯も動かしていないのに、聞こえてくる。耳が「沈黙」するとき、同時に目や舌や喉も沈黙するのだが、そういう具合に「肉体の沈黙」するとき、ことばがつぶやきはじめる。「電車が通りすぎた音、線路の破裂音、……」と肉体の外にあるもの、外で起きていることをことばが動いて、描写しはじめる。そのことばが、最果の耳にしっかりと届く。
--というのは、私の「誤読」である。
2連目にはつづきがある。
「静かだね」は「だれも語りかけてこない」からなのだ。「静か」というのは「語りかけてくものがいない」と同じ意味なのだ。
あ、でも、これではちょっと「意味」になりすぎる、センチメンタルになりすぎて、私にはおもしろくない。
やはり「耳は……と言うんだ」のなかにある「矛盾」のようなものにこだわりたい。
「だれも語りかけてこない」ということが「事実」だとしても、なぜ、そういうことを「耳」が「言う」のだろう。「耳」はだれも語りかけてこないという「事実」を認識し、そのことを「口(舌、喉、声帯)」が「言う」なら、まあ、論理的(?)になる。「言う」--は声に出すではなく、判断(認識)するということの「比喩」だね。「方便」として「言う」という表現をつかっているだけだね。
でも、そんなふうに書き直してしまうと、何か違うね。
私たちの「肉体」は耳とか口とか目とか--それぞれの「部位」で呼ばれることがあるが、それはそれだけを取り出すと「肉体」ではないね。それぞれを独立させるのではなく、すべてがからみあって結びついているときに「肉体」。
だから。
「耳は静かだねといつも言うんだ」は「肉体は」と主語をかえればすべてが落ち着くのである。主語を「肉体」ということばに還すべきなのである。「文法の比喩」にしてしまうのではなく、比喩以前(?)、比喩が成り立つ前の混沌とした領域、未分化の肉体にまでさかのぼり、そこからとらえ直すべきなのである。「肉体は静かだねといつも言うんだ」。「肉体」であるから、それは何に置き換えてもいい。たまたま「電車が通りすぎた音」が最初に「肉体」に触れたために「耳」が主語になっているのだ。肉体の未分化を利用して、たとえば「目」を主語にすればどうなるか。やってみようかな……。
ということであったかもしれない。
最果が目ではなく「耳」を選んだのは、最果が「視覚」の詩人ではなく「聴覚」の詩人だからかもしれない。(そう思うから、私には、イラストとの同居がうるさく感じられる。--最果はイラストから沈黙の音楽を聴いているのかもしれないけれど……。)
耳でも目でもいいのだけれど、というと乱暴だが、つまり、いま最果の「肉体」という現場では、何かしらの「内部融合」のようなことが起きている。そのために「風景」がふつうのひとの見る風景とは違ってきている。
こういうときだね、ひとが不安になるのは。孤独だと感じるのは。肉体が「未分化」なので、しっかりした「肉体」が恋しくなるのか。
で。
ひとが孤独を感じたとき「ともだち」を求める--というのはふつうのことなのだけれど、最果の場合、実際に「ともだち」を必要とはしていない(ように書かれている)。「思う」ことができなればいいのである。そしてそう思うとき「あったことがあるひと」ではなく「あったことのないひと」を「ともだち」として思いたい、しかもあわないまま死んでくれたらもっといい、と思っている。その欲望は「こころ」を求めていない。
「ともだち」は、「流通言語」の「ともだち(こころの交流ができるひと)」ではない。
ここに、また「矛盾」というか、「流通言語(既成概念)」ではとらえることのできないことばが動いている。動きはじめている。このことばはさらに動いて行って
「ともだち」に「精神的なもの」を期待していないことがわかる。
うまれ-死ぬ。そこにあるのは(数えられているのは)肉体である。肉体としての存在--肉体が「ある」と「思える」ことが最果には大事なのである。「こころ」ではなく、「肉体」が、私(最果)の「未分化の肉体」をそのまま託すことができる「未分化の肉体」としての「だれか」。--そういう「肉体」は、実際に誰かと会ってみると、なかなか探すことはむずかしい。「未分化の肉体」を生きているひとなど、実は、いない。いつでもひとは「完成した肉体」である。「未分化の肉体」というのは、自分自身のなかにしか存在しない。だから、それは「思う」という形でしか引き寄せることができない。--この「未分化の肉体」を「ともだち」として求めるという欲望の奥には「耳が……言う」という表現にみられる肉体とことばの融合した状態がある。一種の「混沌(無)」がある。そこからことばが生まれ、ことばが動いていく。
だから、これは最果がことばを動かしているのではない。最果の「意識(精神)」がことばを動かしているのではなく、ことばが「肉体」となって、つまり「ことばの肉体」が、「肉体」そのものとして動いているのだ。
こういうことが起きる前には、最初に触れた「肉体の部位の融合」が必然として起きる。「耳が……言う」というような「流通言語」の領域をこえた何かが肉体のなかで起き、その肉体におされるようにしてことばが「肉体」からほうりだされる。そのあと、その「ことば」は「ことばの肉体」として動いていく。
詩人がことばを動かしているあいだは、そこには詩は存在せず、詩人の放出したことばが、それ自体の「肉体」をもってかってに動いていくとき--動きながら詩人をそこへ引っぱっていくとき、そこに詩がある。
(きょうも時間不足で、最後は端折って、駆け足で書いてしまった。)
最果タヒ『空が分裂する』は二部構成になっていて、前半の作品はイラスト(漫画?)と同居している。どちらが先に書かれたのか。あるいは別々の場所で同時に書かれたのか。最果が詩を書いた後で、すでにある作品のなかから気に入ったものを選んで同居させたのか。--わからないし、ざっと眺めた感じではどのイラストも私には不向きである。私の感想は、最果にもイラストを描いたひとにも申し訳ないが、詩だけについての感想である。
「へらない」の2連目がとても気に入った。
耳は静かだねといつも言うんだ、電車が通りすぎた音、線路の破裂音、踏み切り
のサイレン、小学生の下校、笑い声、泣き声、乳母車が通りすぎてカラスが帰る
はばたきの音、
静かだねと言うんだ
ここには矛盾があるね。「音」「声」があふれている。それなのに「静かだね」。ふつうは「うるさいね」である。
どうして?
「耳が……言うんだ」という変な表現もある。「言う」のは「耳」ではなく、「口」ではないのか?
ここには「流通言語」ではとらえられない何かが起きている。「矛盾」が起きている。それも音があふれるのに「静か」、言うための肉体ではない「耳」が「言う」という間違いが交錯して、何かを起こしている。起きているというより、起こしている、という感じがする。
なぜ静かなんだろう。「耳が……言う」という表現を手がかりにすると、静かなのは耳が沈黙しているからでは? 「耳が……言うんだ」と書かれているのに、耳が沈黙していると言うのは、これまた「矛盾」なのだが、最果の書いている「矛盾」をときほぐして、「肉体」にして触れるには、何か「矛盾」(いままでのことばでは表現できないこと)をくぐりぬけないといけないような気がする。
で。
耳が沈黙している--耳が沈黙してというのは変かな? 耳は発声器官であるわけではないから「沈黙」しかできないか。私はそうは思わないのである。私たちは舌を動かし、口を動かし、声帯を動かして声を出しているというのはほんとうだと思うけれど、そのとき耳は黙っているかというと、私はそうは感じない。耳もいっしょになって「声」を出している。「声」を確かめながら次の「声」を動かしている。「耳」が働かなければ人間は「声」を出せないのではないかと思っている。
で、そうか。「耳」が沈黙しているから、まわりの「音」や「声」が聞こえるのだ。もし耳が大声で話していたら、耳は電車の音も小学生の下校時の笑い声も聞き取ることはできない。いいなあ、この感覚。わかるなあ。
で、「耳」が沈黙しているということは、同時に舌や喉も沈黙している。そして、舌や喉も聞いている。目も聞いている。だから「電車が通りすぎた」という動きも耳にとどく。目と耳がいっしょになって「聞いて/見ている」。
そのとき--そう思っている「自分の声」だけが、舌を動かさず、口を動かさず、声帯も動かしていないのに、聞こえてくる。耳が「沈黙」するとき、同時に目や舌や喉も沈黙するのだが、そういう具合に「肉体の沈黙」するとき、ことばがつぶやきはじめる。「電車が通りすぎた音、線路の破裂音、……」と肉体の外にあるもの、外で起きていることをことばが動いて、描写しはじめる。そのことばが、最果の耳にしっかりと届く。
--というのは、私の「誤読」である。
2連目にはつづきがある。
耳は静かだねといつも言うんだ、電車が通りすぎた音、線路の破裂音、踏み切り
のサイレン、小学生の下校、笑い声、泣き声、乳母車が通りすぎてカラスが帰る
はばたきの音、
静かだねと言うんだ
だれも語りかけてこないね
「静かだね」は「だれも語りかけてこない」からなのだ。「静か」というのは「語りかけてくものがいない」と同じ意味なのだ。
あ、でも、これではちょっと「意味」になりすぎる、センチメンタルになりすぎて、私にはおもしろくない。
やはり「耳は……と言うんだ」のなかにある「矛盾」のようなものにこだわりたい。
「だれも語りかけてこない」ということが「事実」だとしても、なぜ、そういうことを「耳」が「言う」のだろう。「耳」はだれも語りかけてこないという「事実」を認識し、そのことを「口(舌、喉、声帯)」が「言う」なら、まあ、論理的(?)になる。「言う」--は声に出すではなく、判断(認識)するということの「比喩」だね。「方便」として「言う」という表現をつかっているだけだね。
でも、そんなふうに書き直してしまうと、何か違うね。
私たちの「肉体」は耳とか口とか目とか--それぞれの「部位」で呼ばれることがあるが、それはそれだけを取り出すと「肉体」ではないね。それぞれを独立させるのではなく、すべてがからみあって結びついているときに「肉体」。
だから。
「耳は静かだねといつも言うんだ」は「肉体は」と主語をかえればすべてが落ち着くのである。主語を「肉体」ということばに還すべきなのである。「文法の比喩」にしてしまうのではなく、比喩以前(?)、比喩が成り立つ前の混沌とした領域、未分化の肉体にまでさかのぼり、そこからとらえ直すべきなのである。「肉体は静かだねといつも言うんだ」。「肉体」であるから、それは何に置き換えてもいい。たまたま「電車が通りすぎた音」が最初に「肉体」に触れたために「耳」が主語になっているのだ。肉体の未分化を利用して、たとえば「目」を主語にすればどうなるか。やってみようかな……。
目は静かだねといつも言うんだ。太陽が真上でかっと輝いている、歩く女の足裏から砂が乾いてこぼれ落ちる、子供の麦わら帽子が風に飛んだ、そのリボンからヒマワリの花びらがはがれて散った、……
静かだねと目は言うんだ
だれも私の目をみつめてこないね(目に語りかけてこないね)
ということであったかもしれない。
最果が目ではなく「耳」を選んだのは、最果が「視覚」の詩人ではなく「聴覚」の詩人だからかもしれない。(そう思うから、私には、イラストとの同居がうるさく感じられる。--最果はイラストから沈黙の音楽を聴いているのかもしれないけれど……。)
耳でも目でもいいのだけれど、というと乱暴だが、つまり、いま最果の「肉体」という現場では、何かしらの「内部融合」のようなことが起きている。そのために「風景」がふつうのひとの見る風景とは違ってきている。
こういうときだね、ひとが不安になるのは。孤独だと感じるのは。肉体が「未分化」なので、しっかりした「肉体」が恋しくなるのか。
で。
あったことのない人を、みんなともだちだと思いたい
あったことのないまましんでくれたら
ともだちとして
いいともだちとして
永遠に思いこめるに違いない
ひとが孤独を感じたとき「ともだち」を求める--というのはふつうのことなのだけれど、最果の場合、実際に「ともだち」を必要とはしていない(ように書かれている)。「思う」ことができなればいいのである。そしてそう思うとき「あったことがあるひと」ではなく「あったことのないひと」を「ともだち」として思いたい、しかもあわないまま死んでくれたらもっといい、と思っている。その欲望は「こころ」を求めていない。
「ともだち」は、「流通言語」の「ともだち(こころの交流ができるひと)」ではない。
ここに、また「矛盾」というか、「流通言語(既成概念)」ではとらえることのできないことばが動いている。動きはじめている。このことばはさらに動いて行って
毎日何万と死んで
毎日何万と生まれて
ともだちが入れ替わる
(略)
うまれたひとと
しんだひと
なにが違うっていうの
数が変わらない
人数がへらない
ともだちが減らない
夜のしあわせ
「ともだち」に「精神的なもの」を期待していないことがわかる。
うまれ-死ぬ。そこにあるのは(数えられているのは)肉体である。肉体としての存在--肉体が「ある」と「思える」ことが最果には大事なのである。「こころ」ではなく、「肉体」が、私(最果)の「未分化の肉体」をそのまま託すことができる「未分化の肉体」としての「だれか」。--そういう「肉体」は、実際に誰かと会ってみると、なかなか探すことはむずかしい。「未分化の肉体」を生きているひとなど、実は、いない。いつでもひとは「完成した肉体」である。「未分化の肉体」というのは、自分自身のなかにしか存在しない。だから、それは「思う」という形でしか引き寄せることができない。--この「未分化の肉体」を「ともだち」として求めるという欲望の奥には「耳が……言う」という表現にみられる肉体とことばの融合した状態がある。一種の「混沌(無)」がある。そこからことばが生まれ、ことばが動いていく。
だから、これは最果がことばを動かしているのではない。最果の「意識(精神)」がことばを動かしているのではなく、ことばが「肉体」となって、つまり「ことばの肉体」が、「肉体」そのものとして動いているのだ。
こういうことが起きる前には、最初に触れた「肉体の部位の融合」が必然として起きる。「耳が……言う」というような「流通言語」の領域をこえた何かが肉体のなかで起き、その肉体におされるようにしてことばが「肉体」からほうりだされる。そのあと、その「ことば」は「ことばの肉体」として動いていく。
詩人がことばを動かしているあいだは、そこには詩は存在せず、詩人の放出したことばが、それ自体の「肉体」をもってかってに動いていくとき--動きながら詩人をそこへ引っぱっていくとき、そこに詩がある。
(きょうも時間不足で、最後は端折って、駆け足で書いてしまった。)
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