吉田文憲「隕石が」、瀬尾育生「わがひとに与うる哀歌」、中村稔「原発建屋のある風景」(「現代詩手帖」2014年12月号)
吉田文憲「隕石が」(初出「東京新聞」13年12月28日)は、何が書いてあるのかさっぱりわからなかった。「そのとき、ああ隕石が降ってくる、と私は思った」という行があるので、この「隕石」は比喩かもしれない。しかし、何の比喩なのか。
朝、目覚めて、きのうの夜を思い出しているのだろうか。「だれの呼吸のなかに私はいたのだろうか」はセックスを感じさせておもしろいけれど、肝心のセックスが見えてこない。宇宙とのセックスを書いているかな?
*
瀬尾育生「わがひとに与うる哀歌」(初出「LEIDEN雷電」5、1月)は文体が強靱である。朔太郎を冒頭に引用したあと、
と、はじまる。「記したい」ことがある。けれど、それは「事実(現実)」とは違うので、自分の欲望を抑えて(否定して)、というか、「欲望」の形を「願い」ということばで補足して「現実の世界」だけではなく、自分の「真理の世界」を「事実」として書いていく。
「事実」とは「現象」と「心理」を合体させたところに生まれる。そういう意識がことばの運動を制御している。その制御する力が瀬尾の「文体」である。瀬尾のことばには、ことばを制御して「事実」を確立するという意思の力が働いている。
「深い過去の時制」。これは、ヨーロッパの言語にみられる「大過去」のようなもの、「過去完了形」のようなものだろうか。日本語の時制は、私にはとてもあいまいなものにみえる。
小説を読んでいても、たとえば山登りの描写で、「険しい崖をのぼった。(過去)頂上に着いた。(過去)遠い海が見える。(現在)風が吹いてくる。(現在)気持ちがいい。(現在)」という具合に、「過去」のできごとなのに、感覚が動き回るとき、突然、その動きが「現在形」として書かれることがある。
そういう日本語の「時制」の問題を意識した上で
と、つづける。
瀬尾は、ここでは「何を」語るかではなく、「どう語るか」をテーマにしている。「意志」ということばがでてくるが、瀬尾にとっては、ことばは「意志」なのだ。
すべてを「ある」「いる」という「現在(存在論)」から出発して世界を確立させる。そういう「意志」が働いている。「存在論」への「意志」が動いている。
で、この詩にしても、私には「何が」書いてあるのか、わからないのだけれど、ある「意志」で書かれていることがわかる。瀬尾は「書く」ことの「意志」について考え、そのなかでことばを制御している、ということが「わかる」。(私の「わかる」は「誤読できる」という意味だが……。)
そして、瀬尾は制御しつづける、という「暴走」をする。
過去時制で書いていた文を、感動のあまり現在時制にかえてしまうというのは、日本人にはごく普通のことであって、そこに「意志」が働いている(文学の技法が意識されている)とはなかなか思わないものである。この例は、瀬尾がここで書いている「時制」についての適切な例ではないかもしれないが--、そのふつう、ひとがなかなか思わないことを、あくまでも思いつづける。考えつづけ、ことばをどこまでもゆるぎのない形で動かすというのが瀬尾の姿勢である。その「持続」(あるいは、統一、といった方が瀬尾を理解するのには有効かも……)の力がゆるまない。力がゆるまないから、それを私は「暴走」と感じてしまう。
かっこいい。
この文体は真似してみたい。
「深い過去の時制」という表現から、私は、瀬尾はこういう文体を「深い過去の時制」をもつ「言語」を読むことで身に着けたのだと想像する。外国の文体に触れることで、日本の文体がもたない「細部の意識」を手に入れたのだと思う。日本人が意識しない部分にまで意識をめぐらせ、そこからことばを動かすという方法を自分のものにしたのだと思う。
外国のことばを読むことで、そのことばによって書かれた「意味」ではなく、「意味」以前の「文体のなかの意識」(ことばの肉体)をつかみ取り、それを瀬尾は自分のものにしている。
だから、かっこよく、美しい。
*
中村稔「原発建屋のある風景」(初出「ユリイカ」1月号)には「永遠」ということばがでてくる。
この「永遠」は「絶対的な美しさ」のようにひとを引きつける何かではない。どうすることもできない「不可能」である。「不可能」が「停止している」。そして、この「停止している」も単に「止まっている」とも違う。それは、何かを「疎外している(妨害している)」。何をか。ふつう、私たちが「永遠」ということばで思い描く絶対的な正しい「真理」のようなものを邪魔している。それの正反対のものがそこにあって、それがあるために私たちは「理想の永遠」に近づけない。拒まれている。
ことばが、流通している「意味」とは違うものをかかえながら動くとき、そこにそのことばを動かす詩人の「意志」があらわれる。「意志」があらわれる詩は強い。
詩は志を述べるもの--とは考えないけれど、私は、こういう「意志」をもった「文体」が好きである。「意味」よりも、「文体」に「正直」を感じる。「肉体(思想)」を感じる。
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吉田文憲「隕石が」(初出「東京新聞」13年12月28日)は、何が書いてあるのかさっぱりわからなかった。「そのとき、ああ隕石が降ってくる、と私は思った」という行があるので、この「隕石」は比喩かもしれない。しかし、何の比喩なのか。
目覚めたとき、絨毯のうえには手の形をしたふたつの影が動いていた。そこに朝の光が流れていた。
どのような時が過ぎつつあったのだろうか--
だれの呼吸のなかに私はいたのだろうか--
朝、目覚めて、きのうの夜を思い出しているのだろうか。「だれの呼吸のなかに私はいたのだろうか」はセックスを感じさせておもしろいけれど、肝心のセックスが見えてこない。宇宙とのセックスを書いているかな?
*
瀬尾育生「わがひとに与うる哀歌」(初出「LEIDEN雷電」5、1月)は文体が強靱である。朔太郎を冒頭に引用したあと、
「太陽は美しく輝き……」と私は記したいのだ。けれどいま空はこのとおり暗いのだから、
私はただ「太陽が美しく輝くことを願い……」と書きつけることしかできない。
と、はじまる。「記したい」ことがある。けれど、それは「事実(現実)」とは違うので、自分の欲望を抑えて(否定して)、というか、「欲望」の形を「願い」ということばで補足して「現実の世界」だけではなく、自分の「真理の世界」を「事実」として書いていく。
「事実」とは「現象」と「心理」を合体させたところに生まれる。そういう意識がことばの運動を制御している。その制御する力が瀬尾の「文体」である。瀬尾のことばには、ことばを制御して「事実」を確立するという意思の力が働いている。
私たちがある決意によって互いの手をかたく組み合わせ、
誰にも気づかれることなく山に向かって歩いていった。
それはほんらい深い過去の時制で語られるべきできごとだったが、
その決意へとあの日私たちを誘いかけたものが何だったのか、
いま私はそれを物語的現在によって語ろうと思う。
「深い過去の時制」。これは、ヨーロッパの言語にみられる「大過去」のようなもの、「過去完了形」のようなものだろうか。日本語の時制は、私にはとてもあいまいなものにみえる。
小説を読んでいても、たとえば山登りの描写で、「険しい崖をのぼった。(過去)頂上に着いた。(過去)遠い海が見える。(現在)風が吹いてくる。(現在)気持ちがいい。(現在)」という具合に、「過去」のできごとなのに、感覚が動き回るとき、突然、その動きが「現在形」として書かれることがある。
そういう日本語の「時制」の問題を意識した上で
そう、たとえそれが何で「ある」にもせよ、その同じ声に
二人がともに誘われて「いる」ということを動かしようのない事実として、
私はいまも信じて「いる」。誘いの声の「現在」を知らない人たちは、
鳥が鳴いているね、それらはこれからもずっと鳴き続けるだろうよ
草木が囁いているね、それらはこのさきも変わることなく囁き続けるのだよ
などと言うであろう。「そのとき」のことを私は「いま」と言うのだが、
「いま」私たちは、世界のなかで鳥が鳴くのはもうこれっきりだ
草木の囁き続けるのを聴くのはもうこれっきりだ、という意志によってかたく結び合わせれるまま、
それら無辺広大の讃歌を聴いていたのだ。
と、つづける。
瀬尾は、ここでは「何を」語るかではなく、「どう語るか」をテーマにしている。「意志」ということばがでてくるが、瀬尾にとっては、ことばは「意志」なのだ。
すべてを「ある」「いる」という「現在(存在論)」から出発して世界を確立させる。そういう「意志」が働いている。「存在論」への「意志」が動いている。
で、この詩にしても、私には「何が」書いてあるのか、わからないのだけれど、ある「意志」で書かれていることがわかる。瀬尾は「書く」ことの「意志」について考え、そのなかでことばを制御している、ということが「わかる」。(私の「わかる」は「誤読できる」という意味だが……。)
そして、瀬尾は制御しつづける、という「暴走」をする。
過去時制で書いていた文を、感動のあまり現在時制にかえてしまうというのは、日本人にはごく普通のことであって、そこに「意志」が働いている(文学の技法が意識されている)とはなかなか思わないものである。この例は、瀬尾がここで書いている「時制」についての適切な例ではないかもしれないが--、そのふつう、ひとがなかなか思わないことを、あくまでも思いつづける。考えつづけ、ことばをどこまでもゆるぎのない形で動かすというのが瀬尾の姿勢である。その「持続」(あるいは、統一、といった方が瀬尾を理解するのには有効かも……)の力がゆるまない。力がゆるまないから、それを私は「暴走」と感じてしまう。
かっこいい。
この文体は真似してみたい。
「深い過去の時制」という表現から、私は、瀬尾はこういう文体を「深い過去の時制」をもつ「言語」を読むことで身に着けたのだと想像する。外国の文体に触れることで、日本の文体がもたない「細部の意識」を手に入れたのだと思う。日本人が意識しない部分にまで意識をめぐらせ、そこからことばを動かすという方法を自分のものにしたのだと思う。
外国のことばを読むことで、そのことばによって書かれた「意味」ではなく、「意味」以前の「文体のなかの意識」(ことばの肉体)をつかみ取り、それを瀬尾は自分のものにしている。
だから、かっこよく、美しい。
*
中村稔「原発建屋のある風景」(初出「ユリイカ」1月号)には「永遠」ということばがでてくる。
海は凪ぎ、波がうち寄せ、うち返し、
波がうち寄せ、うち返し、永遠が海辺に停止している。
なかば屋根の破れた壁や破れた建屋を白い風が吹き抜ける。
建屋の床に散乱する瓦礫、溶解した金属類など。
この「永遠」は「絶対的な美しさ」のようにひとを引きつける何かではない。どうすることもできない「不可能」である。「不可能」が「停止している」。そして、この「停止している」も単に「止まっている」とも違う。それは、何かを「疎外している(妨害している)」。何をか。ふつう、私たちが「永遠」ということばで思い描く絶対的な正しい「真理」のようなものを邪魔している。それの正反対のものがそこにあって、それがあるために私たちは「理想の永遠」に近づけない。拒まれている。
ことばが、流通している「意味」とは違うものをかかえながら動くとき、そこにそのことばを動かす詩人の「意志」があらわれる。「意志」があらわれる詩は強い。
詩は志を述べるもの--とは考えないけれど、私は、こういう「意志」をもった「文体」が好きである。「意味」よりも、「文体」に「正直」を感じる。「肉体(思想)」を感じる。
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ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」 | |
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