いのうえあき『紡錘形の虫』(書肆山田、2020年12月10日発行)
いのうえあき『紡錘形の虫』の巻頭の詩「祭りのように」が魅力的だ。
ハサミで
切った。
そら
が
ずれた
短い。何があったのか。ここに書かれていることだけがあった。つまり、書かれなければ何もなかったことが、書かれることによって「ある」(あった)に変わった。
ハサミで何を切ったのか。書いていない。だから、私は、二連目出てくる「そら」を切ったのだと思った。紙を切ると、紙がずれる。そんなふうに空がずれる。それは、ことばをとおしてだけ存在する世界だ。
一連目には句点「。」がある。二連目には「。」がない。まだ、どこかへことばはつづいていこうとしている。どこへ? それは読者のことばの問題。いのうえは、読者が詩を読むことを誘っているのだ。
いのうえが、ことばのハサミで何かを切る。そのとき何かが「ずれる」。そこから詩が始まる。
「ハサミ」ではなく「ことば」をそのまま書いた詩もある。「ことば」。
箱庭のような空間に
ことばを置く
そら うみ まち
雨を降らせて
雪を降らせて
ことばは転がりだすと
痛くて つまずく
傾斜ばかりのまちを
転がりつづけ
ことばの顔が かわる
記憶のうみの
とおいところで
初めて歩きはじめる
生きものの声
「ことば」から「声」が生まれる。「声」になることは、きっと詩になること。
知っていることばを、知っている確かさで動かしている。ここに、まるで赤ん坊のような正直を私は感じる。
短いから、嘘が入り込む余地がない。
その「声」は、逆に「沈黙」へと結晶していき、詩として輝く。それは、まったく新しい世界そのものの誕生である。
「沈黙のせかい」。
夏の河原で
石は
石のまま
集まっている
夕闇に立ち
水底を見つめて
鷺は
首をかしげたままだ
土手の片すみに
くちなしの花
贈られた白さを
こぼしている
呼び声は
しずけさを湛えて
彼方から
渡ってくる
「石は/石のまま」であるように、すべてはそれが、あるが「まま」なのだ。かわりがない。存在(もの)はことばによってかわりはしない。ことばがどんなふうに働きかけようが、あるがまま。
だとしたら?
ハサミで切ったとき、「ずれた」のは何?
詩が「ずれた」のだ。詩が、普遍なものから井上個人のものへと「ずれた」。そして、そのことでさらに詩になった。新しい普遍に触れたのだ。
こういう言い方は矛盾しているが、詩は、別のことばで語りなおせば矛盾したものになるしかない。それは「共通語」ではなく、あくまでも「個人語」だからである。
だからこそ、「誤訳」し、「誤読」し、そのなかへ入って、楽しむのだ。