詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

房内はるみ「ふつうを生きる」、青山かつこ「喪服」

2011-09-04 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
房内はるみ「ふつうを生きる」、青山かつこ「喪服」(「この場所ici 」5 、2011年08月05日発行)

 房内はるみ「ふつうを生きる」も東日本大震災を描いている。

サンシュユの花がさいて 辛夷の蕾もふくらんで
土手の早咲きの桜も もうすぐひらくかしら
そんな季節の推移を だれもうたがわなかった

けれど 刃のように黒い波が日常を切りさいた

流されていく船、車、家、木、そして人
流れるということは 奪い去るという意味もあることを
はじめて知った

 「季節の推移」「日常を切りさいた」という表現は、私の好みではない。ことばへの疑問が欠けている。つまり、詩にはなっていない。
 けれど。

流れるということは 奪い去るという意味もあることを

 この1行には、びっくりしてしまった。「流れる」に「奪い去る」という「意味」はほんとうにあるのか。私は「流れる」を「奪い去る」という「意味」でつかった覚えがない。
 私は思わず広辞苑を引いてしまった。「流る」「液体などが低い方へ移動する」「移動によって無効になる」。私には、房内が書いている「意味」を見つけることができなかった。
 流される、その結果、消える--ということなら「月日が流れる」というような例があるが、「奪い去る」は、私にはみつけられない。
 そして。
 そのみつけられなかった「意味」に、私は詩を感じた。詩は、ことばの「意味」を無効にし、新しい「意味」をつくりだすことである。
 津波によって流される--でも、それは流されるのではない。あれは「奪い去られた」のである。房内ははっきりそう感じたのだ。いや、「知った」のだ。
 「知る」。広辞苑では「ある現象・状態を広く隅々まで自分のものとするの意」と定義している。「自分のものとする」。房内は、たしかに大震災を「自分のもの」にしたのである。「流れる」ということばに「奪い去る」という「意味」をつけくわえることによって。
 「ふつうを生きる」という作品は、全体としては強い力を感じないけれど、「流れるということは 奪い去るという意味もある」ということばによって、生きている。



 青山かつこ「喪服」は「意味」を語らない。「意味」にならないものが噴出してくる。そこが、「かなしい」。

鯨幕を背に
お辞儀を返している母は大儀そうだ
呉服売り場に設けられた祭壇の
叔母の遺影は十歳若い

むかしこの店で誂えた
絽の喪服
-義姉さんは丈夫だから きっと人一倍
 泣くようになるわね-
畳紙につつみながら叔母がいったという

 「叔母」が「母」に語ったことばは、まあ、体の丈夫なひとは長生きするから、その分、ひとの死を見送る。何度も何度も葬儀に出て泣くことになる、という「意味」ではあるけれど--こういうときのことばは「意味」ではない。そんな「意味」をわざわざひとに言い聞かせる必要はない。もっと違うものがある。

息子を喪い
兄弟を亡くし
多くの友を見送り
夫に先立たれ…

丈夫という哀しみが
母のまなこをくぼませている

 青山は、なんとか「意味」を書こうとしている(意味にしようとしている)。けれど、やはり何かが「逸脱」していく。「丈夫という哀しみ」。その「矛盾」。
 この「矛盾」は、「意味」ではない。
 「意味」(辞書にある定義)を通り越して、「自分のもの」にするしかないことがらである。

 房内が「流れるということは 奪い去るという意味もある」と書いていたが、その「意味」は「意味」ではないのだ。「意味」ではなく、「意味」を超えて、房内が知ってしまった(自分のものにしてしまった)、ことばの「矛盾」である。
 「矛盾」のなかには、詩があり、「肉体」がある、と私は感じている。



水のように母とあるいた
房内 はるみ
思潮社


詩集 あかり売り
青山 かつ子
花神社

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