テリー・ギリアム監督「テリー・ギリアムのドン・キホーテ」(★★★★★)
監督 テリー・ギリアム 出演 アダム・ドライバー、ジョナサン・プライス、ステラン・スカルスガルド
「ドン・キホーテ」は二重の「誤読」の物語である。「二重の」というのは、騎士道物語の誤読と、現実の誤読ということだが、二重に誤読してしまうと、どちらを誤読したのかわからなくなる。騎士道物語を誤読したために、現実の世界で騎士道を発揮しようとしたのか、現実の世界を誤読したために騎士道精神を実現しようとしたのか。
しかし、それはどうでもいいことなのだ。
人間は「誤読」せずにはいられない存在なのである。他人が語ること、他人の行動は、あくまで他人のものであって、私のものではない。私には私のことば、私の現実がある。二つがぶつかったとき、かならず違いがあり、それを乗り越えるためには、いままでとは違うことをしなければならない。だから知らずに間違ってしてしまう誤読は「誤読」ではない。単なる勘違いだ。間違っていると知っていて、なおかつその間違いへ向けて動いていく誤読こそが「誤読」なのである。
ドン・キホーテ(ハビエル)は「間違い」であることを知っている。それが「物語」なのか「現実」なのか、簡単には言えないが、どちらかが間違っていると知っていて、その間違いのなかへ突入していく。間違いであることを引き受け、間違いの向こう側へ行こうとする。「誤読」しなければ「真実」というものには達することができないと知っているのである。
さて。
「間違い(誤読)」を引き受けることだけが「真実」だと知ってしまった人間に何ができるか。
この問題をテリー・ギリアムは映画づくりとからめてつきつめる。「誤読」を映画にすることで考え始める。映画というものは(あるいは文学というものは、と言ってもいいが)、「現実」ではなく「嘘/虚構」である。いわば「間違い」であり、「誤読」を増幅させたものである。一度、この「誤読」を引き受けてしまったものは、そこからは逃れられない。どこまでも「誤読」を生きるしかない。「わざと」誤読し、「誤読」を語ることで、自分の信じている「真実」に近づくのである。
それはだれのものでもない。「誤読」を引き受ける人間だけがふれることのできる「真実」である。
クライマックスの、ドン・キホーテが月へ旅立つシーンが象徴的だ。目隠しをして「偽」の天馬に乗る。まわりでドン・キホーテをたぶらかす人間が冷風を送り、さらに熱風を送る。それにあわせてドン・キホーテは、大気圏を抜け出した、太陽に近づいたと「ことば」を語る。それはもちろん「間違い(現実の誤読)」だが、そのことばを引き出した人間の方はどうか。「現実」を見ているのか。ドン・キホーテのことばにあわせて冷たい体験の外を思い、さらに熱い太陽の近くを思い描く。ドン・キホーテのことばにあわせて「現実」をつくりかえ(捏造し)、その想像力に加担する。このとき「真実」は、どこにあるのか。「真実」とは何なのか。大気圏の外は冷たい、太陽の近くは熱い、というのは「真実」ではないのか。もしそれが真実だとすれば、ドン・キホーテのことばは「真実」にならないか。
この問題に、簡単に答えを出してしまうことはできない。あるいは意味がない。
だいたいドン・キホーテが「だまされている」と自覚していないかどうかもわからない。目隠しをするのはなぜなのか。だまされたふりをして、周りの人間をだましているのかもしれない。知っていることを語るため、宇宙の「真実」を語るために、だまされたふりをしているのかもしれない。
ここに「誤読」のいちばんの醍醐味がある。知らないふり(無知のふり、狂気のふり)をして「真実」を語りたいと欲望しているのかもしれない。言い換えると、ひとは自分の言いたいことを言うためなら、進んで「誤読」をするのである。「誤読」というかたちで、自己主張する(自己実現する)。
そして、「誤読」は引き継がれていく。「真実」も引き継がれていくが、それ以上に「誤読」が引き継がれていく。だいたい「真実」を引き継ぐというのは「誤読」の最たるものであって、ほんとうは「誤読」しか引き継がれていないのかもしれない。
セルバンテスの書いた『ドン・キホーテ』は、いまも古典として残っているし、新訳も出たりする。しかしさまざまなドン・キホーテのどれが「真実」と呼べるものなのか、テリー・ギリアムの「誤読」がセルバンテスの考えていた「真実」なのか、だれにもわからない。(小説の「ドン・キホーテ」のなかにさえ、ニセモノの「小説・ドンキホーテ」が出てくる。)読者が、映画を見たひとが、自分に引きつけて「真実」を引き継ぐのである。つまり「誤読」するときだけ、「真実」が引き継がれるのだ。
ラストシーン。サンチョ・パンサを演じさせられ続けてきたアダム・ドライバーがドン・キホーテになる瞬間、うーん、涙が流れます。スペイン語の簡略版と文庫本で途中までしか読んでいなかったので、感動のあまり牛島信明訳の「ドン・キホーテ」(絶版)を古本で注文してしまった。
(2020年01月25日、ユナイテッドシネマキャナルシテイ、スクリーン11)
監督 テリー・ギリアム 出演 アダム・ドライバー、ジョナサン・プライス、ステラン・スカルスガルド
「ドン・キホーテ」は二重の「誤読」の物語である。「二重の」というのは、騎士道物語の誤読と、現実の誤読ということだが、二重に誤読してしまうと、どちらを誤読したのかわからなくなる。騎士道物語を誤読したために、現実の世界で騎士道を発揮しようとしたのか、現実の世界を誤読したために騎士道精神を実現しようとしたのか。
しかし、それはどうでもいいことなのだ。
人間は「誤読」せずにはいられない存在なのである。他人が語ること、他人の行動は、あくまで他人のものであって、私のものではない。私には私のことば、私の現実がある。二つがぶつかったとき、かならず違いがあり、それを乗り越えるためには、いままでとは違うことをしなければならない。だから知らずに間違ってしてしまう誤読は「誤読」ではない。単なる勘違いだ。間違っていると知っていて、なおかつその間違いへ向けて動いていく誤読こそが「誤読」なのである。
ドン・キホーテ(ハビエル)は「間違い」であることを知っている。それが「物語」なのか「現実」なのか、簡単には言えないが、どちらかが間違っていると知っていて、その間違いのなかへ突入していく。間違いであることを引き受け、間違いの向こう側へ行こうとする。「誤読」しなければ「真実」というものには達することができないと知っているのである。
さて。
「間違い(誤読)」を引き受けることだけが「真実」だと知ってしまった人間に何ができるか。
この問題をテリー・ギリアムは映画づくりとからめてつきつめる。「誤読」を映画にすることで考え始める。映画というものは(あるいは文学というものは、と言ってもいいが)、「現実」ではなく「嘘/虚構」である。いわば「間違い」であり、「誤読」を増幅させたものである。一度、この「誤読」を引き受けてしまったものは、そこからは逃れられない。どこまでも「誤読」を生きるしかない。「わざと」誤読し、「誤読」を語ることで、自分の信じている「真実」に近づくのである。
それはだれのものでもない。「誤読」を引き受ける人間だけがふれることのできる「真実」である。
クライマックスの、ドン・キホーテが月へ旅立つシーンが象徴的だ。目隠しをして「偽」の天馬に乗る。まわりでドン・キホーテをたぶらかす人間が冷風を送り、さらに熱風を送る。それにあわせてドン・キホーテは、大気圏を抜け出した、太陽に近づいたと「ことば」を語る。それはもちろん「間違い(現実の誤読)」だが、そのことばを引き出した人間の方はどうか。「現実」を見ているのか。ドン・キホーテのことばにあわせて冷たい体験の外を思い、さらに熱い太陽の近くを思い描く。ドン・キホーテのことばにあわせて「現実」をつくりかえ(捏造し)、その想像力に加担する。このとき「真実」は、どこにあるのか。「真実」とは何なのか。大気圏の外は冷たい、太陽の近くは熱い、というのは「真実」ではないのか。もしそれが真実だとすれば、ドン・キホーテのことばは「真実」にならないか。
この問題に、簡単に答えを出してしまうことはできない。あるいは意味がない。
だいたいドン・キホーテが「だまされている」と自覚していないかどうかもわからない。目隠しをするのはなぜなのか。だまされたふりをして、周りの人間をだましているのかもしれない。知っていることを語るため、宇宙の「真実」を語るために、だまされたふりをしているのかもしれない。
ここに「誤読」のいちばんの醍醐味がある。知らないふり(無知のふり、狂気のふり)をして「真実」を語りたいと欲望しているのかもしれない。言い換えると、ひとは自分の言いたいことを言うためなら、進んで「誤読」をするのである。「誤読」というかたちで、自己主張する(自己実現する)。
そして、「誤読」は引き継がれていく。「真実」も引き継がれていくが、それ以上に「誤読」が引き継がれていく。だいたい「真実」を引き継ぐというのは「誤読」の最たるものであって、ほんとうは「誤読」しか引き継がれていないのかもしれない。
セルバンテスの書いた『ドン・キホーテ』は、いまも古典として残っているし、新訳も出たりする。しかしさまざまなドン・キホーテのどれが「真実」と呼べるものなのか、テリー・ギリアムの「誤読」がセルバンテスの考えていた「真実」なのか、だれにもわからない。(小説の「ドン・キホーテ」のなかにさえ、ニセモノの「小説・ドンキホーテ」が出てくる。)読者が、映画を見たひとが、自分に引きつけて「真実」を引き継ぐのである。つまり「誤読」するときだけ、「真実」が引き継がれるのだ。
ラストシーン。サンチョ・パンサを演じさせられ続けてきたアダム・ドライバーがドン・キホーテになる瞬間、うーん、涙が流れます。スペイン語の簡略版と文庫本で途中までしか読んでいなかったので、感動のあまり牛島信明訳の「ドン・キホーテ」(絶版)を古本で注文してしまった。
(2020年01月25日、ユナイテッドシネマキャナルシテイ、スクリーン11)