きょうアメリカ人と読んだ「1Q84」のなかに、次の文章がある。
(青豆は)ろくでもない三軒茶屋あたりで、首都高速道路三号線のわけのわからない非常階段をひとりで降りている。しみったれた蜘蛛の巣をはらい、馬鹿げたベランダの汚れたゴムの木を眺めながら。
「ろくでもない」「わけのわからない」「しみったれた」「馬鹿げた」を辞書で調べたがよくわからない、という。「しみったれた」は「ケチ」としか載っていなかったらしい。
私がした説明は、「それは英語で言えば全部FUCK(FUCKing)になる」。
日本語は、いわゆる放送禁止にあたるようなことばは少ないが、そのかわり様々な言い換えをしている。
だから、上記の文章、「ろくでもない」「わけのわからない」「しみったれた」「馬鹿げた」を入れ替えても「意味」は通じてしまう。
こんなぐあい。
「しみったれた」三軒茶屋あたりで、首都高速道路三号線の「ろくでもない」非常階段をひとりで降りている。「馬鹿げた」蜘蛛の巣をはらい、「わけのわからない」ベランダの汚れたゴムの木を眺めながら。
つくずく、村上春樹の日本語は、外国人が日本語を勉強するのに適した文体だと思う。かならず「言い換え」がある。そのために小説が非常に長くなっている。
だから、文章を読むのに慣れた人間なら、「退屈」としか言いようのないものになる。いつまでたっても終わらない。原稿料(金稼ぎ)の文体と言い換えてもいい。