詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

林嗣夫「朝」、増田耕三「四万十から四万十へ」

2016-12-16 10:37:02 | 詩(雑誌・同人誌)
林嗣夫「朝」、増田耕三「四万十から四万十へ」(「兆」172 、2016年11月05日発行)

 林嗣夫「朝」は感想を書くのがむずかしい。書きたいことがあるのだが、書くときっと「うるさい」感想になる。「この詩が好き」とだけ言えば十分なのかもしれないが。
 でも、書いてみる。
 読みながら思ったことを、整理せずに。思ったときのままに。

いつものように
暗い四時ごろ目が覚めて
布団の中でじっとしていたら

 一連目は単純な散文。つづきを読むのをやめようかな、と一瞬思う。目が斜めに走ってしまう。

牛乳や 新聞配達の
バイクの音 庭を来る足音
そして去っていく

 朝の「音」の描写も「定型」。
 でも、三行目で、私の目はとまる。「斜め読み」から、まっすぐ縦になる。読み返す。「そして去っていく」。「去っていく」がいいなあ。「来て、去っていく」。「来る」は「来る足音」と「連体形」のなかに隠れていて、ちょっと見にはわからない。「去っていく」があって、「来る」が鮮明になる。
 その意識の往復が、ことばのスピードを上げる。

やがて外の闇に
何か かすかな……
響きのようなものが満ち始める

 「去っていく」のあとに「満ち始める」。
 「去っていく」と「満ち始める」が呼応している。その「呼応」を確かめるように、私の目と完全にとまる。
 「去っていく」のあとの「余白」が八分休符だとしたら、ここは四分休符くらいか。(詩がつづいているので完全休符という感じではない。)
 二連目の「音」が「響き」に変わっているので、そんなふうに思うのだった。

吹くともない風の始まりだろうか
生き物たちのささやきかもしれない
静かな律動に耳を澄ませる

 ここでは「響き」が言いなおされている。「音→響き」が「律動」に。それは「静か」であり、「ささやき」のように小さい。「耳を澄ませる」ときにだけ聞こえる「響き」。
 「来る」は「始まり」と言いなおされている。
 「満ちはじめる」がさらに遡って「始まり(始源)」そのものをとらえようとしている。「響き」の最初の一瞬を思い描いているよう。

夜が明けると まず
近くの畑に降りてみた
目にも鮮やかなカボチャの花!

 あ、「音」が消えた。「響き」が消えた。「音」は「まず」という「静か」ではない響きによって破られる。「カボチャ」も「耳を澄ませ」て聞くような音ではない。
 そして、「音」のあとには「色」がやってくる。
 何色と書いていないが、カボチャの花の「黄色」が目に浮かぶ。「暗闇」とは対照的に明るい。明るい光の中にあって、さらに明るくなる色。
 世界が突然「転調」する。「聴覚」から「視覚」へ。

用意されていたいくつものつぼみが
羽化するように割れ
天に向かって開いている

 これは「視覚」を引き継いだ描写。
 しかし、私はなぜか「音」を聞いた。
 「羽化するように割れ(る)」
 その「割れる音」が聞こえた気がした。昆虫が「羽化する」そのとき、「音」が聞こえるわけではない。(私は「聞いた」ことがない。)しかし、「割れる」ものはたいてい「音」がする。「割れる」のなかには「音」がある。
 「肉体」がそれを覚えている。
 「天に向かって開いている」は「開いた」状態ともとれる。「開く」という動詞をつづけている、つまり「開き続けている」という具合にも読める。私は「開く」がつづいていると感じた。天に向かって「開く」は、点に向かって「伸びる」でもある。
 羽化するように、つまり成長するように、カボチャの花が成長している。その「成長の音」が聞こえる、と感じた。
 あ、ここ、いいなあ。
 三行を思わず、円で囲ってしまう。
 この三行について感想を書きたいなあ、と思ったのだ。

遠いものの声を聴こうと
震えながら受粉を待っていた

 最終連だけは二行。
 カボチャの花の描写だが、「聴く」という動詞が、それまでの林の「肉体」のつづきのように感じられる。「足音」を「聴き」、「風の始まり」の「響き」を「聴き」、「生きもののささやき」を「聴く」。「静かな律動」という「聞こえない音」を「聴く」。
 「聴こえない/静かな律動」とは「遠い音」でもある。「遠い」から「静か」、「遠い」から「聞こえない」。
 「音」はこのとき「声」になっている。世界のあらゆるものが「人間」のいのちの形としてとらえ直されている。
 林は、カボチャの花になって、それを「聴く」。カボチャの花も「人間」だから、そういうことができる。
 「受粉を待つ」は、ことばが受粉して詩という果実になるということかもしれない。こんなふうに「理屈」にしてしまうといけないのだけれど。
 知らず知らずに動いてきたことば、ことばによって動かされてきた「肉体」が、ぱっとカボチャにかわるような、新鮮な驚き。
 「音」と「色」が交錯するのもいいなあ。
 「音」が「声」に変わるのもいいなあ。



 増田耕三「四万十から四万十へ」は「兆」の仲間と同人会をしたときのことを書いている。

夜更けから雨になったが
飲み足りない私はその夜もまた寝つけなかった
林嗣夫さんや小松弘愛さんの寝息を聴きながら
私から一人の男が立ち上がった

 - 四万十川やきねえ、会いに行きたいろう

ふいにそんな林さんの声が聞こえた

 - 増田君。ぼくは手術後で、しょう、しん
   どいき。まあ、気をつけて行てきいや

今度は小松さんの声が聞こえた気がした

 「私から一人の男が立ち上がった」がいい。四万十川を見に行きたい「気持ち」が立ち上がっている。「気持ち」を「肉体」が追いかけていく。「肉体」が林さんの声を聴き、小松さんの声を聴く。
 外へ出ていく増田の動きが目に見える。


詩集 花ものがたり (林嗣夫  詩集)
林嗣夫
ふたば工房

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