詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

リッツォス「紙細工(1971年)」より(3)中井久夫訳

2009-02-16 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)

風が鳴る。
夜。
港のあかりがちらちら揺れる。
税関の廊下で
掃除婦が
ひっそりと箒で掃く。
閉めてあるスーツケース。
ラベルは「禁制品」。
風は仲間だ。
帆よ、大きい帆よ。

 リッツォスの詩が劇(ドラマ)を感じさせるのは、「もの」の取り合わせが少しずれているからである。たとえば「税関の廊下」と「掃除婦」。それは日常的に存在する取り合わせだが、ふつうは「税関」といえば「官吏」である。そこに実際の業務とは無縁の、しかし日常的には全体に必要な仕事をするひと「掃除婦」を組み合わせるとき、あたらしい何かが顔を覗かせる。本来の業務とともにある「意識」が攪拌される。一瞬、ほんらいの業務を忘れ、意識が宙吊りになる。ニュートラルになる。
 その瞬間を狙ったようにして、もうひとつ別のものがあらわれる。「スーツケース」。「禁制品」。
 それは税関の廊下に「掃除婦」がはさまれないまま登場したときは、そんなに違和感はないはずである。一度、意識が宙吊りになっているから、「禁制品」が強く前面に出てくるのである。
 リッツッスは、ことばを宙吊りにして、そのあと新しく動かしはじめる。
 この断章自体をとってみても、「風」で書き起こし、税関を経て、もう一度風に戻る。そういう径路を通ると、風は、異質なものに洗われて、新鮮に見えてくる。
 ものをいままで見えなかった形、新鮮な状態にしてみせるのが詩である。リッツォスの詩は、ことばの構造として、そういう新鮮な「もの」を生み出す装置のようになっている。
 新しい何かが生まれる--そういう印象があるから、ドラマを感じるのだ。


この明かり。
ただ一つ、
山の高みに。
死者が運んだ。
覚えているか?

 リッツォスの詩には説明がない。この説明がない--という構造も、意識をニュートラル、宙吊りにする。説明があると、私たちは、そこに書かれていることを、その説明に従属させて読んでしまう。説明がないので、私たちはそれを、ただ、そこにほうりだされてあるものとして読まなければならない。
 説明がないので、なんのことかわからない。そう思ってしまえば、その読者には、詩は見えて来ない。「意味」を探していては、詩は見えて来ない。
 なんのために書かれているか、何か言いたいのかわからなくても、このことばを読んで、その瞬間、山の高みに明かりが一つ、孤独に燃えているのが見えれば、それでいい。その具体的なイメージが詩なのであって、それ以外は「説明」になってしまう。


大理石も、
かくも裸わに、
かくも白くて、
彫像になることなど待ってはいない。

 白い大理石が見えるか。見えれば、これは詩である。そして、その大理石が「彫像になることなど待っていない」ということばを読んだ瞬間、意識が動くか。動けば詩である。読者にとって、その瞬間が詩である。
 大理石は、自然に(おのずと、つまり芸術家が彫るからではなく、自分で望んで)彫像になる--そうかもしれない。その美しい白さだ芸術家をだまくらかして、自分の望む形に彫らせているのかもしれない。そこには芸術家の思いではなく、大理石の思いこそが反映しているのかもしれない。
 --これはもちろん錯覚である。そんなことなどありえない。そういうありえないことを考えさせる。日常の考えから私たちを解放し、逸脱させるのが詩である。詩を読むのは、日常から逸脱し、いま、ここにはない新しいことばの運動--精神の運動の可能性を知るためである。

 そういう可能性としてのことばの運動を教えてくれるもの、暗示してくれるもの、そういう危険に導いてくれるものが詩である。



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