リッツォス「紙細工(1971年)」より(1)中井久夫訳
この詩集は「断章」でできている。それぞれの断章にタイトルはない。「*」で区切られているので3つずつ紹介していくことにする。
冒頭の「鏡の中の」がおもしろい。世界を「鏡の中」でとらえている。「卓」は鏡の片隅にあるのではなく、部屋のどこかにある。しかし、それを「鏡の中」にあるようにして世界をとらえ直す。
鍵を取りに行かされるのはだれだろう。
彼は(あるいは彼女は)鏡の中へ行かなければならない。けれども、鏡の「ガラス」の面は開かない。それを開くことはできない。どうやって鍵を取ってくることができるだろうか。
ここでは、現実ではなく、ことばが世界をつくりだしている。「鏡の中」というのは、ことばの世界である。鏡は現実だが、「鏡の中」の卓に鍵を忘れてきた--となると、それは現実ではなく、ことばの世界である。
一瞬の、乱反射のようなきらめき。
「風景が競走する」というこの冒頭の書き方も、ことばのなかでの世界である。風景は動かない。動くのは汽車である。
この一種の錯覚のあいだに「窓ガラス」が存在する。この「ガラス」は、冒頭の1連の「鏡の中」の鏡をつくっている「ガラス」と呼応している。(断章で構成されているが、それは互いに関係し合っているのだ。断章にみえて、1篇の詩としても読むことができるのだ。)
この汽車の「ガラス」もまた開かない。いや、開くかもしれないが、開かずに、そのままにしておく。そうすることではじめて、風景が競走することができる。だれと? 汽車の中にいる「私」とである。それは一緒に走っている。同じスピードで走っている。けれども、そこに「ガラス」があり、区切りがあることで違った存在として、競走することができる。これもまた、ことばがあって、はじめて成立する世界である。
この「ことば」の現実に対して、ポケットの中がおもしろい。そこにも、現実がある。「私」に密着した現実である。それは誰かと競走しているだろうか。競走はしていない。走るのではなく、逆に、戻っている。記憶へ。思い出へ。
「帽子の中に鐘楼を」見つける--とは、鐘楼(教会の?)を見たとき、「私」はたぶん帽子を取ったのだ。そういう肉体の記憶を「私」は見ているのだ。
1連目の「鏡の中」もそうだが、ここでのテーマは、いわば「記憶」ということができるかもしれない。
旅の途中の光景である。「トランクの上に薔薇。」--これは、絵のことだろうか。絵のことを言っているにしても、しかし、現実の薔薇と考えた方がおもしろい。絵を現実と薔薇と感じている人間を想定した方が、ことばがより大きく動く。
「私」はトランクのベルトの上に手をおいている。トランクを、その中身を守るように。
「私に何の用事?」--これは、だれのことば? 「私」とはだれ? 私には「トランク」そのものにみえる。あるいは「トランク」の中身に。それは書かれていない。何が入っているか、1行も書かれていない。だからこそ、想像力が刺激される。記憶のすべてが、「鏡の中」の部屋にある記憶のすべてが、そのトランクの中に入っているのだ、きっと。
この詩集は「断章」でできている。それぞれの断章にタイトルはない。「*」で区切られているので3つずつ紹介していくことにする。
鏡の中の
右隅の
黄色の卓に
鍵束を忘れた。
取っておいで。
ガラスの面は開かない。
開かない。
冒頭の「鏡の中の」がおもしろい。世界を「鏡の中」でとらえている。「卓」は鏡の片隅にあるのではなく、部屋のどこかにある。しかし、それを「鏡の中」にあるようにして世界をとらえ直す。
鍵を取りに行かされるのはだれだろう。
彼は(あるいは彼女は)鏡の中へ行かなければならない。けれども、鏡の「ガラス」の面は開かない。それを開くことはできない。どうやって鍵を取ってくることができるだろうか。
ここでは、現実ではなく、ことばが世界をつくりだしている。「鏡の中」というのは、ことばの世界である。鏡は現実だが、「鏡の中」の卓に鍵を忘れてきた--となると、それは現実ではなく、ことばの世界である。
一瞬の、乱反射のようなきらめき。
*
風景が競走をする、
汽車の窓ガラス越しに。
私はポケットに
妻楊枝を一つ見つけた。
帽子の中に鐘楼を。
「風景が競走する」というこの冒頭の書き方も、ことばのなかでの世界である。風景は動かない。動くのは汽車である。
この一種の錯覚のあいだに「窓ガラス」が存在する。この「ガラス」は、冒頭の1連の「鏡の中」の鏡をつくっている「ガラス」と呼応している。(断章で構成されているが、それは互いに関係し合っているのだ。断章にみえて、1篇の詩としても読むことができるのだ。)
この汽車の「ガラス」もまた開かない。いや、開くかもしれないが、開かずに、そのままにしておく。そうすることではじめて、風景が競走することができる。だれと? 汽車の中にいる「私」とである。それは一緒に走っている。同じスピードで走っている。けれども、そこに「ガラス」があり、区切りがあることで違った存在として、競走することができる。これもまた、ことばがあって、はじめて成立する世界である。
この「ことば」の現実に対して、ポケットの中がおもしろい。そこにも、現実がある。「私」に密着した現実である。それは誰かと競走しているだろうか。競走はしていない。走るのではなく、逆に、戻っている。記憶へ。思い出へ。
「帽子の中に鐘楼を」見つける--とは、鐘楼(教会の?)を見たとき、「私」はたぶん帽子を取ったのだ。そういう肉体の記憶を「私」は見ているのだ。
1連目の「鏡の中」もそうだが、ここでのテーマは、いわば「記憶」ということができるかもしれない。
*
トランクの上に薔薇。
手はベルトに置いて、
私に何の用事?
旅の途中の光景である。「トランクの上に薔薇。」--これは、絵のことだろうか。絵のことを言っているにしても、しかし、現実の薔薇と考えた方がおもしろい。絵を現実と薔薇と感じている人間を想定した方が、ことばがより大きく動く。
「私」はトランクのベルトの上に手をおいている。トランクを、その中身を守るように。
「私に何の用事?」--これは、だれのことば? 「私」とはだれ? 私には「トランク」そのものにみえる。あるいは「トランク」の中身に。それは書かれていない。何が入っているか、1行も書かれていない。だからこそ、想像力が刺激される。記憶のすべてが、「鏡の中」の部屋にある記憶のすべてが、そのトランクの中に入っているのだ、きっと。