*
シーツを被って
かろやかに呼吸する彼女。
(これは詩かい?)
ボートが出航する。
帆が風をはらむ。
私は触る、指一つで
風の一つ一つに、
沈黙の一つ一つに。
ふいに挿入される(ことは詩かい?)。「これ」とは何か。一群のことばか。それとも「シーツを被って/かろやかに呼吸する彼女」か。私は、後者だと思う。そして、そこから不思議な気持ちに襲われる。「シーツを被って/かろやかに呼吸する彼女」を「詩」だと断定するとき、「シーツ」が詩なのか。「かろやか」が詩なのか。「呼吸」が詩なのか。「彼女」が詩なのか。区別がつかない。その全体が詩であるというのは簡単だが、その全体には、細部がある。細部には詩がなくて、全体が詩であるとすれば、細部の意味は? それとも、細部を全体に統一している何かが詩? たぶん、そういうところに「思考」は落ち着くけれど、でも、細部を全体に統一している何かは、ここでは「ことば」として書かれていない。書かれていないのに、「これ」という指示代名詞で引き受けていいの?
こういうことをあれこれ考えるのは愚かなことかもしれない。ただ、ことばをそのまま味わえばいいのだ、という見方があるだろうと思う。
しかし、私は、あれこれ考えたい。
特に、最後の2行。「一つ一つに」ということばがあるので。
この詩では、「私」は「指」で触るのだが、リッツッスは「ことば」で「もの」に触る。「ひとつひとつに」。「シーツ」にも「被る」にも「かろやかに」も「呼吸する」にも「彼女」にも触ったのだ。そして、(これは詩かい?)と問いかけている。
「これ」って何?
ことばだ。ことばの動きだ。すべてのことばは動き、いつでも詩になるのだ。
*
私は影を青く塗ろう。
歯を磨いて、
ギターを鳴らそう。
きみはぼくのベッドの下に隠れている。
私は知らないふりをしよう。
「私は影を青く塗ろう。」はとても美しい行だ。ただし、私はこの詩の「私」を画家とは考えない。絵を描いているとは考えない。意識の中で、ことばで影を「青」く塗るのである。影はふつうは「黒」だが、「黒」ではなく「青い」影を思い浮かべる。
意識はいつでも「いま」「ここ」を「いま」「ここ」にないものにすることができる。わざと「いま」「ここ」には存在するものを考えることが好きだ。それは一種の可能性だからである。可能性は人間をはつらつとさせる。
意識はいつでも「いま」「ここ」から離れることができる。たとえ、きみがぼくのベッドの下に隠れているとしても、それを知らないものにすることができる。そういう、「いま」「ここ」から逸脱していくこと、「わざと」そういうことをすることのなかに詩があるのだ。
1行目と5行目の主語が「私」なのに、4行目が「ぼく」なのも、とてもおもしろい。「ぼく」と「私」はかき分けられている。中井の訳は、ふたつを区別している。
「私」はここでは意識の動きをしめす主語である。「ぼく」は意識とは関係がない。意識の主語ではない。「私」は意識であるからこそ、「影を青く塗」ることができるし、「知らないふり」をすることができる。現実とは違ったことをつくりだすことができる。
*
きみは期待し続けてる。
私は言うだろう、
「それはこうじゃないよ」と。
これはこうなのさ。
私にもそうなのだよ。
詰めを摘む時は御注意。
鋏が鋭く光ってる。
何が書いてあるかわからない作品だが、そのわからなさのなかにリッツォスの特徴があらわれている。
「それ」「こう」、「これ」「こう」が何を指すかは、どんな読者にもわからない。もしかするとリッツォスにもわからないかもしれない。詩は、そういう自分自身にもわからないことを書くことができる。あるいは逆に、自分にさえわからないからこそ書くのだとも言える。書くことで、はじめて見えてくるものがあるからだ。
この詩で見えてきたもの、書くことによって見えてきたものとは何か。
「それはこうじゃないよ」という言い方は誰もがする。そういうことばの動かし方が現実にある。それはなぜか、詩、あるいは文学の中では、あるいは「正式な」(?)文章の中では許されない。「それ」「これ」「あれ」と指示代名詞であるから、その対象を必要とする。対象を不在にしたまま「それ」「これ」あれ」と言ってもだれにもわからないから、それだけを独立させてつかうことは、文学にとっては一種の暗黙の了解事項手ある。その暗黙の了解を破って、リッツォスはことばを動かす。詩はいつでも暗黙の了解を破ってこそ詩なのである。
こういう作品を読むと、リッツォスは芝居のひとなのだ、劇の国のひとなのだ、という印象が強くなる。
書きことばでは、突然の「それ」「これ」「あれ」は禁じ手だが、こういう会話は日常ではだれもがする。それは生活の場においてであるけれど。文学で禁じられていることが日常で許されているのはなぜか。日常の場では「過去」が共有されている。「それ」「これ」「あれ」は「過去」と関係があるのだ。
文学で指示代名詞がつかわれるとき、そのことばより前、つまり「過去」に具体的なことが描かれており、それを受けて「「それ」「これ」「あれ」と言うのである。「それ」「これ」「あれ」は「過去」そのものだとも言える。
芝居(舞台)では、役者が、それぞれ「過去」を持っている。ふの「過去」が見えるとき、突然であっても「それ」「これ」「あれ」は通用する。流通する。そういう「過去」が存在するという事実を、詩の中に取り込み、リッツォスは過去があるということを暗示することで「事件」を暗示するのである。詩をドラマチックにするのである。
シーツを被って
かろやかに呼吸する彼女。
(これは詩かい?)
ボートが出航する。
帆が風をはらむ。
私は触る、指一つで
風の一つ一つに、
沈黙の一つ一つに。
ふいに挿入される(ことは詩かい?)。「これ」とは何か。一群のことばか。それとも「シーツを被って/かろやかに呼吸する彼女」か。私は、後者だと思う。そして、そこから不思議な気持ちに襲われる。「シーツを被って/かろやかに呼吸する彼女」を「詩」だと断定するとき、「シーツ」が詩なのか。「かろやか」が詩なのか。「呼吸」が詩なのか。「彼女」が詩なのか。区別がつかない。その全体が詩であるというのは簡単だが、その全体には、細部がある。細部には詩がなくて、全体が詩であるとすれば、細部の意味は? それとも、細部を全体に統一している何かが詩? たぶん、そういうところに「思考」は落ち着くけれど、でも、細部を全体に統一している何かは、ここでは「ことば」として書かれていない。書かれていないのに、「これ」という指示代名詞で引き受けていいの?
こういうことをあれこれ考えるのは愚かなことかもしれない。ただ、ことばをそのまま味わえばいいのだ、という見方があるだろうと思う。
しかし、私は、あれこれ考えたい。
特に、最後の2行。「一つ一つに」ということばがあるので。
この詩では、「私」は「指」で触るのだが、リッツッスは「ことば」で「もの」に触る。「ひとつひとつに」。「シーツ」にも「被る」にも「かろやかに」も「呼吸する」にも「彼女」にも触ったのだ。そして、(これは詩かい?)と問いかけている。
「これ」って何?
ことばだ。ことばの動きだ。すべてのことばは動き、いつでも詩になるのだ。
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私は影を青く塗ろう。
歯を磨いて、
ギターを鳴らそう。
きみはぼくのベッドの下に隠れている。
私は知らないふりをしよう。
「私は影を青く塗ろう。」はとても美しい行だ。ただし、私はこの詩の「私」を画家とは考えない。絵を描いているとは考えない。意識の中で、ことばで影を「青」く塗るのである。影はふつうは「黒」だが、「黒」ではなく「青い」影を思い浮かべる。
意識はいつでも「いま」「ここ」を「いま」「ここ」にないものにすることができる。わざと「いま」「ここ」には存在するものを考えることが好きだ。それは一種の可能性だからである。可能性は人間をはつらつとさせる。
意識はいつでも「いま」「ここ」から離れることができる。たとえ、きみがぼくのベッドの下に隠れているとしても、それを知らないものにすることができる。そういう、「いま」「ここ」から逸脱していくこと、「わざと」そういうことをすることのなかに詩があるのだ。
1行目と5行目の主語が「私」なのに、4行目が「ぼく」なのも、とてもおもしろい。「ぼく」と「私」はかき分けられている。中井の訳は、ふたつを区別している。
「私」はここでは意識の動きをしめす主語である。「ぼく」は意識とは関係がない。意識の主語ではない。「私」は意識であるからこそ、「影を青く塗」ることができるし、「知らないふり」をすることができる。現実とは違ったことをつくりだすことができる。
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きみは期待し続けてる。
私は言うだろう、
「それはこうじゃないよ」と。
これはこうなのさ。
私にもそうなのだよ。
詰めを摘む時は御注意。
鋏が鋭く光ってる。
何が書いてあるかわからない作品だが、そのわからなさのなかにリッツォスの特徴があらわれている。
「それ」「こう」、「これ」「こう」が何を指すかは、どんな読者にもわからない。もしかするとリッツォスにもわからないかもしれない。詩は、そういう自分自身にもわからないことを書くことができる。あるいは逆に、自分にさえわからないからこそ書くのだとも言える。書くことで、はじめて見えてくるものがあるからだ。
この詩で見えてきたもの、書くことによって見えてきたものとは何か。
「それはこうじゃないよ」という言い方は誰もがする。そういうことばの動かし方が現実にある。それはなぜか、詩、あるいは文学の中では、あるいは「正式な」(?)文章の中では許されない。「それ」「これ」「あれ」と指示代名詞であるから、その対象を必要とする。対象を不在にしたまま「それ」「これ」あれ」と言ってもだれにもわからないから、それだけを独立させてつかうことは、文学にとっては一種の暗黙の了解事項手ある。その暗黙の了解を破って、リッツォスはことばを動かす。詩はいつでも暗黙の了解を破ってこそ詩なのである。
こういう作品を読むと、リッツォスは芝居のひとなのだ、劇の国のひとなのだ、という印象が強くなる。
書きことばでは、突然の「それ」「これ」「あれ」は禁じ手だが、こういう会話は日常ではだれもがする。それは生活の場においてであるけれど。文学で禁じられていることが日常で許されているのはなぜか。日常の場では「過去」が共有されている。「それ」「これ」「あれ」は「過去」と関係があるのだ。
文学で指示代名詞がつかわれるとき、そのことばより前、つまり「過去」に具体的なことが描かれており、それを受けて「「それ」「これ」「あれ」と言うのである。「それ」「これ」「あれ」は「過去」そのものだとも言える。
芝居(舞台)では、役者が、それぞれ「過去」を持っている。ふの「過去」が見えるとき、突然であっても「それ」「これ」「あれ」は通用する。流通する。そういう「過去」が存在するという事実を、詩の中に取り込み、リッツォスは過去があるということを暗示することで「事件」を暗示するのである。詩をドラマチックにするのである。