*
ありとあらゆるものが秘密。
石の影も、
鳥の爪も、
糸巻きも、
椅子も、
この詩も。
秘密とはなんだろう。秘密のままであるとき、秘密ではない。秘密でなくなったとき、秘密だったということが明らかになる。秘密にしていたことが明らかになる。
--こういう読み方、「意味」を求める読み方は、ことばを窮屈にする。だから、これ以上は書かない。
この詩の中にある「糸巻き」ということばにひかれた。リッツォスの詩に何度か出てくる。「石」も「椅子」も出てくるけれど、なぜが「糸巻き」ということばにリッツォスを感じる。ほかの詩人はあまり取り上げないのかもしれない。特に、こんなふうな、ことばが飛躍していく詩の場合は。なんらかの、それこそ秘密があるのかもしれない。このことばが好き、という理由が。その理由をわからないままにしておく。私は、そういう状態が好きだ。わからないままのものがそこにあり、ふっとしたときに、そのことばに自然に視線がいって、そこで立ち止まる瞬間が。
説明はできないけれど、詩を感じているのである。そういうときは。
*
この吐き気は
病にあらず、
一つの答えなり。
こうした箴言は、私にはよくわからない。箴言だけの断章がほかにあるかどうかわからない。なんとなくリッツォスらしくない、と私は感じる。
*
彼等は美しかった(覚えているか?)。
ひとたと前に歩いた。
ひたと前を見ていた。
歌を歌い、
槍を直立させてた、
高々と。
ただ旗がないのを知らなかった。
「ひたと」と「直立」がことば全体を引き締めている。その引き締まったことばの運動を、最後の欠如が、さびしいものにする。このさびしさにリッツォスの特徴がある。リッツォスのことばは、いつもさびしさと向き合っている。そして、さびしさと向き合ったものを「美しかった」と呼んでいる。
リッツォスにとって、「美」と「さびしさ」(孤独)はいつも同居している。「にぎやか」なものより、「さびしい」ものの方がリッツォスにとっては詩である。
*
荒い風の中、
高く、高く、
一等白い鴎の高みより、
自由が。
この中井訳には「動詞」がない。「自由が」の述語がない。リッツォスの詩そのものにないのか。あるいは、中井が省略したのか。私には中井が省略したように思える。まだ、その述語(動詞)にふさわしい日本語が見つからないのだと思う。訳すだけなら訳せるだろうけれど、その日本語では、日本語にならない--そう思っているのかもしれない。
荒い風--その厳しさのなかの、高さ。さらに高い高さ。このことばのなかにも、リッツォスの孤高とさびしさがある。孤独(孤高)とさびしさは、前の断章で「美」であった。それにいま、「自由」がくわわった。
「動詞」(述語)がないのは、そこに描かれたものが「ひとつ」ではないからだ。
孤高と美と自由が溶け合っている。いまは「自由」と書かれているけれど、それは「自由」だけを指してはいない。だからひとつの動詞(述語)でくくってしまうことはできないのだ。
--そう考えると、リッツォス自身が「動詞」を書いていないともみえるけれど。
この詩でおもしろいのは、そういう孤高、美、自由を、また「鴎」とも結びつけていることである。あらゆる概念は「もの」と結びついてたしかなものになる。「鴎」のなかに孤高、美、自由をみるとき、それは鴎が孤高、美、自由に見えるのか。それとも孤高、美、自由が、冬の鴎に見えるのだろうか。区別がつかない。書いてしまうと、よけいに区別がつかなくなる。
たぶん、この区別がつかなくなるという一瞬が詩なのである。
(今回で中井久夫訳「リッツォス詩集」の紹介はおわりです。)
ありとあらゆるものが秘密。
石の影も、
鳥の爪も、
糸巻きも、
椅子も、
この詩も。
秘密とはなんだろう。秘密のままであるとき、秘密ではない。秘密でなくなったとき、秘密だったということが明らかになる。秘密にしていたことが明らかになる。
--こういう読み方、「意味」を求める読み方は、ことばを窮屈にする。だから、これ以上は書かない。
この詩の中にある「糸巻き」ということばにひかれた。リッツォスの詩に何度か出てくる。「石」も「椅子」も出てくるけれど、なぜが「糸巻き」ということばにリッツォスを感じる。ほかの詩人はあまり取り上げないのかもしれない。特に、こんなふうな、ことばが飛躍していく詩の場合は。なんらかの、それこそ秘密があるのかもしれない。このことばが好き、という理由が。その理由をわからないままにしておく。私は、そういう状態が好きだ。わからないままのものがそこにあり、ふっとしたときに、そのことばに自然に視線がいって、そこで立ち止まる瞬間が。
説明はできないけれど、詩を感じているのである。そういうときは。
*
この吐き気は
病にあらず、
一つの答えなり。
こうした箴言は、私にはよくわからない。箴言だけの断章がほかにあるかどうかわからない。なんとなくリッツォスらしくない、と私は感じる。
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彼等は美しかった(覚えているか?)。
ひとたと前に歩いた。
ひたと前を見ていた。
歌を歌い、
槍を直立させてた、
高々と。
ただ旗がないのを知らなかった。
「ひたと」と「直立」がことば全体を引き締めている。その引き締まったことばの運動を、最後の欠如が、さびしいものにする。このさびしさにリッツォスの特徴がある。リッツォスのことばは、いつもさびしさと向き合っている。そして、さびしさと向き合ったものを「美しかった」と呼んでいる。
リッツォスにとって、「美」と「さびしさ」(孤独)はいつも同居している。「にぎやか」なものより、「さびしい」ものの方がリッツォスにとっては詩である。
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荒い風の中、
高く、高く、
一等白い鴎の高みより、
自由が。
この中井訳には「動詞」がない。「自由が」の述語がない。リッツォスの詩そのものにないのか。あるいは、中井が省略したのか。私には中井が省略したように思える。まだ、その述語(動詞)にふさわしい日本語が見つからないのだと思う。訳すだけなら訳せるだろうけれど、その日本語では、日本語にならない--そう思っているのかもしれない。
荒い風--その厳しさのなかの、高さ。さらに高い高さ。このことばのなかにも、リッツォスの孤高とさびしさがある。孤独(孤高)とさびしさは、前の断章で「美」であった。それにいま、「自由」がくわわった。
「動詞」(述語)がないのは、そこに描かれたものが「ひとつ」ではないからだ。
孤高と美と自由が溶け合っている。いまは「自由」と書かれているけれど、それは「自由」だけを指してはいない。だからひとつの動詞(述語)でくくってしまうことはできないのだ。
--そう考えると、リッツォス自身が「動詞」を書いていないともみえるけれど。
この詩でおもしろいのは、そういう孤高、美、自由を、また「鴎」とも結びつけていることである。あらゆる概念は「もの」と結びついてたしかなものになる。「鴎」のなかに孤高、美、自由をみるとき、それは鴎が孤高、美、自由に見えるのか。それとも孤高、美、自由が、冬の鴎に見えるのだろうか。区別がつかない。書いてしまうと、よけいに区別がつかなくなる。
たぶん、この区別がつかなくなるという一瞬が詩なのである。
(今回で中井久夫訳「リッツォス詩集」の紹介はおわりです。)
括弧―リッツォス詩集ヤニス リッツォスみすず書房このアイテムの詳細を見る |
毎日、(非情にも、と思えるくらい)濃い文章があがっていて、読むのについていけないくらいでした。
いまでも、すこしづつ、何回も読んでいます。
読んでいるときは、ほんとうに至福の時間です。
ヤニス・リッツォス生誕百年の記念行事と言う新聞記事を見て、興味を覚えて、検索して、この御ブログを見つけました。私は、リッツォスを知りもしませんでした。
とても、参考になります、ありがとうございます。