詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(8)

2014-03-30 21:39:06 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(8)          2014年03月30日(日曜日)

 「老人の魂」の、肉体のとらえ方が私にはよくわからない。

擦り切れ、ボロになった身体の中に
老人の魂が座っている。

 この書き出しは、最終行で言いなおされている。

糸の見えるまですりきれた年代ものの皮膚の内側に。

 「身体の中」と「皮膚の内側」が重なり合う。そして、その皮膚は「糸の見えるまで」と具体的に「ボロ」の状態が説明される。
 布は新しいとき(若いとき)、目がつまっている。たしかに糸は見えない。
 「ボロ」というとき、私は、破れたりほつれたりしているものを想像するが、「糸の見えるまで」というのは、そういう状態とは少し違うようである。乱暴に扱ったためにボロになったのではなく、丁寧に扱ってきたけれど、だんだんやせて、糸そのものが細くなって織り目が見えてくる。それはほんとうにボロなのだろうか。年代物の貴重な品物のように思えてくる。

 そう思ったとき、詩のなかほどにある行が輝いて見える。

生活をいたく愛し

 「愛する」とは大切にすること。ただ愛するのではなく「いたく愛する」。「甚し」、激しく--これは真剣にということかもしれない。「とても」を超えている。「貴重なものとして」という価値判断が働いているかもしれない。
 そして、この「いたく」は「甚だしく」という意味を超えて、私には「痛く」という具合にも感じられる。自分の身体が「痛む」くらいに真剣にと読みたい。自分の肉体を犠牲にしても守り抜いた価値、という印象がある。
 肉体の痛みのように、魂の痛みを感じている。老人の魂の「痛み」が、老人の肉体をすかして見えると言いたくなる。

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