監督 リサ・チェンデンコ 出演 アネット・ベニング、ジュリアン・ムーア、ミア・ワシコウスカ、マーク・ラファロ、ジョシュ・ハッチャーソン
女性の同性愛が映画できちんと描かれるようになったのはいつごろからだろうか。最近は「ブラックスワン」「クロエ」と過激な描写を含んだ映画も多い。ヒラリー・スワンクが主演の「ボーイズ・ドント・クライ」は同性愛というよりは性同一性障害の問題を描いていた。
男性の同性愛を描いた映画は「ブロークバック・マウンテン」よりも前、「真夜中のパーティー」だとか、「ベニスに死す」とか、いろいろある。同性愛の世界もやっと「男女同権」になってきたということかもしれない。
いや、「男女同権」を通り越して、女性の同性愛は女性の優位性を軽々と確立したというところまできたのかもしれない。
この映画の女性カップルは「家族」をもっている。「夫婦」ではなく「家族」として成立している。精子提供バンクで精子を手に入れ、妊娠し、子供を産んでいる。二人がそれぞれ子供を産み、「家族」をつくっている。こういうことは男にはできない。男も卵子の提供を受け、その卵子を授精させるということはできるだろうが、その後がむりである。自分の力では妊娠、出産というのはむりである。どうしても女性の肉体を借りないとできない。男は、男だけでは「家族」を持てない。そこが男と女の違いである。
で、その「家族」。--これは「家庭」とは、どう違うのだろうか。この映画にそって見ていくと……。
「家族」というのは、いわば「血の繋がり」。だから、「精子提供者」の男は「家族」にはなりうる。二人の子供が「精子提供者」の男を探し出す。そして、会ってみる。親近感もあれば、反発もある。何かしら似たところもあり、「家族」であることを「実感」する。「また会いたい」という気持ちも生まれる。これは精子提供者の男も同じで、突然の「家族」の出現に驚きながらも、うれしい気持ちにもなる。このとき、子供たちにも、男にも「家庭」という意識はない。「家族=家庭」ではないのだ。
ところが、子供たちが「父親」と会ったということを知った二人の母親は、そんな具合に行かない。動揺してしまう。生物学的には精子提供者は「父」ではあるが「親」ではない。子供たちとは「親子」ではない。「親子」というのは、一緒に暮らしてきて、自然にできあがる「関係」である。「家庭」とは、血とは別の要素で作り上げられる「人間関係」なのである。
このことに一番敏感なのが、アネット・ベニンである。彼女は、「家庭」で「父」の役割を演じているからである。古い概念といえばそうなのだが、一家を統一し、いわば支配している。あらゆることにおいて、彼女の「考え」が「最良」のものとなる。彼女の考えに背くことはできない。そうすると「家庭」の「基準」が壊れてしまうのである。
ジュリアン・ムーアは「父」を演じていない。それは「夫」を演じてもいないということである。ずーっと「女」のままである。だから、かるがると「家庭」の枠、「家族」の枠を乗り越えて、女として精子提供者に向き合い、セックスまでする。
「家庭」--その作り上げる「人間関係」と、作り上げるものではない男と女の関係が、ここで衝突する。ジュリアン・ムーアは、そこまで深刻には考えていないのだが、だからこそ、問題が大きくなる。
つくりあげたもの、いわば人工的なものは、自然なものより耐性が弱いのである。「家庭」が男の出現によって踏み荒らされ、それが「家族」の関係をもギスギスさせる。「家族」であったのに、「家族」ではなくなる--そういう「危機」がアネット・ベニングとジュリアン・ムーアの間に生まれてくる。
これをどうやって乗り越えるか。
なかなかむずかしいのだが、この映画では、ジュリアン・ムーアが、自分のしたことが一番大切な人(アネット・ベニング)を傷つけてしまったと反省する。そして「家族」に謝る。アネット・ベニングに対してだけではなく、「家族」の前で、つまり子供たちのいるところで、はっきりことばにする。言いにくいこと、言わずにすむなら、言わないまますませたいことを、はっきりことばにする。
ここに、この映画と、この映画の描く「家族・家庭」の理想がある。
この映画では、すべてが「ことば」を通して「共有」されている。アネット・ベニングとジュリアン・ムーアがどのようにして夫婦になったか。そのことを精子提供者は質問するが、その話は、子供たちにとっては何回も何回も繰り返しきかされたことなので、少年の方はまたか、と「ぐーぐー」と空いびきまでしてみせるくらいである。セックスの問題も、全部、ことばにして説明している。アネット・ベニングとジュリアン・ムーアはセックスをするとき、なぜ男のゲイのビデオを見ているのか、なぜ女同士のセックス映画を見ないのか、という子供の質問にまで、正直に答えている。
隠さない。すべてを共有する。そうやって作り上げていくのが「家庭」なのだ。「家庭」を「家族」の上に置いた考え方なのだ。「家族」があって「家庭」があるのではなく、「家庭」があって「家族」がある。作り上げた「家庭」が「家族」を守るのである。
これは、うーん、すごい。ちょっと「新しすぎる」思想かもしれない。女同士のセックスも、男同士のセックスも(映画中映画の形ではあるけれど)、男と女のセックスもきちんと描写しながら、セックスを超えて、「家庭」とは何かを浮かび上がらせ、その基本的な考え方をしっかりと提出している。
「家庭/家族」という問題を考えるとき、この映画はきっと「教科書」のように引用されつづけるだろうと思った。感動する--という映画ではないのだが、とてもていねいにつくられた「大切な」映画である。これから「大切」にされる映画である。
女性の同性愛が映画できちんと描かれるようになったのはいつごろからだろうか。最近は「ブラックスワン」「クロエ」と過激な描写を含んだ映画も多い。ヒラリー・スワンクが主演の「ボーイズ・ドント・クライ」は同性愛というよりは性同一性障害の問題を描いていた。
男性の同性愛を描いた映画は「ブロークバック・マウンテン」よりも前、「真夜中のパーティー」だとか、「ベニスに死す」とか、いろいろある。同性愛の世界もやっと「男女同権」になってきたということかもしれない。
いや、「男女同権」を通り越して、女性の同性愛は女性の優位性を軽々と確立したというところまできたのかもしれない。
この映画の女性カップルは「家族」をもっている。「夫婦」ではなく「家族」として成立している。精子提供バンクで精子を手に入れ、妊娠し、子供を産んでいる。二人がそれぞれ子供を産み、「家族」をつくっている。こういうことは男にはできない。男も卵子の提供を受け、その卵子を授精させるということはできるだろうが、その後がむりである。自分の力では妊娠、出産というのはむりである。どうしても女性の肉体を借りないとできない。男は、男だけでは「家族」を持てない。そこが男と女の違いである。
で、その「家族」。--これは「家庭」とは、どう違うのだろうか。この映画にそって見ていくと……。
「家族」というのは、いわば「血の繋がり」。だから、「精子提供者」の男は「家族」にはなりうる。二人の子供が「精子提供者」の男を探し出す。そして、会ってみる。親近感もあれば、反発もある。何かしら似たところもあり、「家族」であることを「実感」する。「また会いたい」という気持ちも生まれる。これは精子提供者の男も同じで、突然の「家族」の出現に驚きながらも、うれしい気持ちにもなる。このとき、子供たちにも、男にも「家庭」という意識はない。「家族=家庭」ではないのだ。
ところが、子供たちが「父親」と会ったということを知った二人の母親は、そんな具合に行かない。動揺してしまう。生物学的には精子提供者は「父」ではあるが「親」ではない。子供たちとは「親子」ではない。「親子」というのは、一緒に暮らしてきて、自然にできあがる「関係」である。「家庭」とは、血とは別の要素で作り上げられる「人間関係」なのである。
このことに一番敏感なのが、アネット・ベニンである。彼女は、「家庭」で「父」の役割を演じているからである。古い概念といえばそうなのだが、一家を統一し、いわば支配している。あらゆることにおいて、彼女の「考え」が「最良」のものとなる。彼女の考えに背くことはできない。そうすると「家庭」の「基準」が壊れてしまうのである。
ジュリアン・ムーアは「父」を演じていない。それは「夫」を演じてもいないということである。ずーっと「女」のままである。だから、かるがると「家庭」の枠、「家族」の枠を乗り越えて、女として精子提供者に向き合い、セックスまでする。
「家庭」--その作り上げる「人間関係」と、作り上げるものではない男と女の関係が、ここで衝突する。ジュリアン・ムーアは、そこまで深刻には考えていないのだが、だからこそ、問題が大きくなる。
つくりあげたもの、いわば人工的なものは、自然なものより耐性が弱いのである。「家庭」が男の出現によって踏み荒らされ、それが「家族」の関係をもギスギスさせる。「家族」であったのに、「家族」ではなくなる--そういう「危機」がアネット・ベニングとジュリアン・ムーアの間に生まれてくる。
これをどうやって乗り越えるか。
なかなかむずかしいのだが、この映画では、ジュリアン・ムーアが、自分のしたことが一番大切な人(アネット・ベニング)を傷つけてしまったと反省する。そして「家族」に謝る。アネット・ベニングに対してだけではなく、「家族」の前で、つまり子供たちのいるところで、はっきりことばにする。言いにくいこと、言わずにすむなら、言わないまますませたいことを、はっきりことばにする。
ここに、この映画と、この映画の描く「家族・家庭」の理想がある。
この映画では、すべてが「ことば」を通して「共有」されている。アネット・ベニングとジュリアン・ムーアがどのようにして夫婦になったか。そのことを精子提供者は質問するが、その話は、子供たちにとっては何回も何回も繰り返しきかされたことなので、少年の方はまたか、と「ぐーぐー」と空いびきまでしてみせるくらいである。セックスの問題も、全部、ことばにして説明している。アネット・ベニングとジュリアン・ムーアはセックスをするとき、なぜ男のゲイのビデオを見ているのか、なぜ女同士のセックス映画を見ないのか、という子供の質問にまで、正直に答えている。
隠さない。すべてを共有する。そうやって作り上げていくのが「家庭」なのだ。「家庭」を「家族」の上に置いた考え方なのだ。「家族」があって「家庭」があるのではなく、「家庭」があって「家族」がある。作り上げた「家庭」が「家族」を守るのである。
これは、うーん、すごい。ちょっと「新しすぎる」思想かもしれない。女同士のセックスも、男同士のセックスも(映画中映画の形ではあるけれど)、男と女のセックスもきちんと描写しながら、セックスを超えて、「家庭」とは何かを浮かび上がらせ、その基本的な考え方をしっかりと提出している。
「家庭/家族」という問題を考えるとき、この映画はきっと「教科書」のように引用されつづけるだろうと思った。感動する--という映画ではないのだが、とてもていねいにつくられた「大切な」映画である。これから「大切」にされる映画である。
愛する人 [DVD] | |
クリエーター情報なし | |
アミューズソフトエンタテインメント |