池井昌樹「みずうみ」(「現代詩手帖」2008年07月号)
池井は「一心に」書く。これはきのう書いたことだ。そして「一心に」書くがゆえに、ひたすら繰り返す。「一心に」は「繰り返し」と同じ意味である。
「みずうみ」には、その繰り返しが美しい形で結晶している。
繰り返しによって、繰り返すことによって、わかることがある。繰り返すことは確認することだからである。あるできごと、体験を、たとえばことばで繰り返す。語る。詩にする。そうすることは、体験を繰り返すことである。そして、体験をことばで繰り返すということは、体験の内部へと入ってゆくことである。
そして、池井は気づく。
ある声がちかづいてくると、それに誘われるように、それにつながる別の声が「さらに」とおくからちかづいてくる。「さらに」というのは、一種の繰り返しである。「さらに」というのは一義的には「強調」だが、ここでの強調は、繰り返しされるものの性質の強調である。やってくるものは「とおく」からやってくる。そう意識できたとき、「さらに」「とおく」が浮かび上がってくる。
池井は「とおく」を「一心に」ながめる。そうすると、「さらに」「とおく」が見えてくる。
「とおく」は距離をあらわす。その「距離」は、最初は「空間」である。「まどの/ひのきえたまぎわまで」というのは「空間」そのものをあらわしている。
ところが、そのことが繰り返され、「いっしんに」そのことに集中すると、「とおく」が少し変化する。「とおく」は「空間」だけをあらわすものではない。
「あのひ あれらのひび」。「あの」「あれら」という指示代名詞は、「距離」を含んでいる。「とおく」を浮かび上がらせている。そしてそれは「ひ」とつながる。「場所」(空間)だはなく、「時間」と結びつく。
「距離」の繰り返しが「時間」を引き寄せるのである。繰り返されることで、「ちかづいてくる」は「空間」と「時間」の結びついたものに姿をかえる。とても自然に。この「自然」な感じを引き出すのが「繰り返し」である。
そして繰り返しによって「場所」が「時間」といっしょになったように、「ふたつのこえ」「はは」と「こども」の「こえ」は「おおくのこえ」にかわってゆく。「おおく」を含むものへとかわってゆく。「すべて」にかわってゆく。
繰り返すことによって、池井は、「すべて」、つまり「全体」(宇宙)と一体になる。
ここには「一心に」「こえ」を聞こうとする池井が美しい姿で描かれている。
*
池井は「ひらがな」の詩を書いているが、ここでは一か所、漢字がつかわれている。「鹹湖」。塩辛い湖。苦い湖。「とおくから」「こえ」が「ちかづいてくる」。それは、池井にとって、「苦い」ことがらなのである。まだ、書き留めていないことばがある。まだ「一体に」なっていない「声」がある。
「一心に」、池井とつながるすべてのものと「一体に」なろうとするのだが、何かと「一体に」なったとき、さらに「とおく」のものが見えてくる。池井という宇宙が広がれば広がるほど、さらに「宇宙」の果てしなさが身に迫ってくる。
どうすればいいのだろう。
池井は、ただ「一心に」ことばを書く。詩を書く。それしかない。書けば書くほど、まだ書いていないもの(とどけたかったこえ、とどなかったこえ)がはっきりしてくるので、書きつづけるしかない。それは、「人生」を知るという「かなしみ」、「いのち」を知る「かなしみ」を深く深く「むね」に抱くことである。「かなしみ」は「悲しみ」であり「愛しみ」でもある。
この詩は、池井が詩を書く理由を語っている作品である。
*
池井は「一心に」書く。これはきのう書いたことだ。そして「一心に」書くがゆえに、ひたすら繰り返す。「一心に」は「繰り返し」と同じ意味である。
「みずうみ」には、その繰り返しが美しい形で結晶している。
ひそひそと またひそひそと
ふたつのこえがちかづいてくる
とおくから さらにとおくから
はもんのようにひろがってくる
ひとつのこえはははおやだろう
しゃくりあげるのはこどものこえだ
ふたつのこえはよりそいながら
まだねむれないわたしのまどの
ひのきえたまぎわまできて
はたとやむ
ひそひそと またひそひそと
ふたつのこえがちかづいてくる
とおくから さらにとおくから
はもんのようにひろがってくる
繰り返しによって、繰り返すことによって、わかることがある。繰り返すことは確認することだからである。あるできごと、体験を、たとえばことばで繰り返す。語る。詩にする。そうすることは、体験を繰り返すことである。そして、体験をことばで繰り返すということは、体験の内部へと入ってゆくことである。
そして、池井は気づく。
とおくから さらにとおくから
ある声がちかづいてくると、それに誘われるように、それにつながる別の声が「さらに」とおくからちかづいてくる。「さらに」というのは、一種の繰り返しである。「さらに」というのは一義的には「強調」だが、ここでの強調は、繰り返しされるものの性質の強調である。やってくるものは「とおく」からやってくる。そう意識できたとき、「さらに」「とおく」が浮かび上がってくる。
池井は「とおく」を「一心に」ながめる。そうすると、「さらに」「とおく」が見えてくる。
「とおく」は距離をあらわす。その「距離」は、最初は「空間」である。「まどの/ひのきえたまぎわまで」というのは「空間」そのものをあらわしている。
ところが、そのことが繰り返され、「いっしんに」そのことに集中すると、「とおく」が少し変化する。「とおく」は「空間」だけをあらわすものではない。
あのひ あれらのひびのどこかで
とどけたかったおおくのこえが
とどかなかったすべてのこえが
まだねむれないむたしのむねの
まだねむらない鹹湖(みずうみ)に
おおきなくらいよぞらをうつし
ひそひそと またひそひそと
とおくから さらにとおくから
うちよせてくる
うちよせてくる
「あのひ あれらのひび」。「あの」「あれら」という指示代名詞は、「距離」を含んでいる。「とおく」を浮かび上がらせている。そしてそれは「ひ」とつながる。「場所」(空間)だはなく、「時間」と結びつく。
「距離」の繰り返しが「時間」を引き寄せるのである。繰り返されることで、「ちかづいてくる」は「空間」と「時間」の結びついたものに姿をかえる。とても自然に。この「自然」な感じを引き出すのが「繰り返し」である。
そして繰り返しによって「場所」が「時間」といっしょになったように、「ふたつのこえ」「はは」と「こども」の「こえ」は「おおくのこえ」にかわってゆく。「おおく」を含むものへとかわってゆく。「すべて」にかわってゆく。
繰り返すことによって、池井は、「すべて」、つまり「全体」(宇宙)と一体になる。
ここには「一心に」「こえ」を聞こうとする池井が美しい姿で描かれている。
*
池井は「ひらがな」の詩を書いているが、ここでは一か所、漢字がつかわれている。「鹹湖」。塩辛い湖。苦い湖。「とおくから」「こえ」が「ちかづいてくる」。それは、池井にとって、「苦い」ことがらなのである。まだ、書き留めていないことばがある。まだ「一体に」なっていない「声」がある。
「一心に」、池井とつながるすべてのものと「一体に」なろうとするのだが、何かと「一体に」なったとき、さらに「とおく」のものが見えてくる。池井という宇宙が広がれば広がるほど、さらに「宇宙」の果てしなさが身に迫ってくる。
どうすればいいのだろう。
池井は、ただ「一心に」ことばを書く。詩を書く。それしかない。書けば書くほど、まだ書いていないもの(とどけたかったこえ、とどなかったこえ)がはっきりしてくるので、書きつづけるしかない。それは、「人生」を知るという「かなしみ」、「いのち」を知る「かなしみ」を深く深く「むね」に抱くことである。「かなしみ」は「悲しみ」であり「愛しみ」でもある。
この詩は、池井が詩を書く理由を語っている作品である。
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