監督 宮崎駿
この作品は数日前に見たのだが、なかなか感想を書く気になれなかった。いまでも気乗りがしない。予想通り、韓国や中国から零戦をつくった技術者(設計者)を主役にしていることに対する批判が起き、それに対して宮崎駿が「ものづくりの現場」から反論するということが起きたのだが……。
嫌いな部分から先に書こうか、先に好きな部分を書いておこうか。
書くのをためらったのだから、嫌いな部分から先に書こう。書いたあと、まで好きな部分について書く気持ちが残っていたら、そのことを書こう。
何が嫌いかというと、「ものづくりの現場」にこだわるのなら、なぜ、堀辰雄の「風立ちぬ」を合体させたのだろう。堀辰雄の「小説家としてのものづくりの現場」に共感したというのなら、もっと具体的に小説家のこだわりに踏み込まないといけない。「ものづくり」をヒロインの死と組み合わせることで、「ものづくりの現場」をセンチメンタルなものにすりかえてしまっている。「ものづくり」に共感しないひとも、ヒロインの死んでゆくときの姿に共感するだろう、という思いがなかったかどうか。言い換えると、宮崎駿に、そういう「計算」がなかったかどうか。
私は、うさんくさく感じている。
うさんくさいもの、一筋縄ではゆかないもの--そういうものに私は体外の場合は共感するし、とても好きなのだが、今回の場合は違う。
「ものづくり」というものは、実は、それだけでうさいくさい。美しい零戦をつくるということは、それだけでうさんくさい。ひとが旅するためのものではなく、戦争のものだからね。映画のなかでも「笑い話」として出てくるが、「あと少し機体を軽くしなければならない。搭載する機関銃の重さの分を」というようなことを主人公は言う。きわどい話でしょ? うさんくさいでしょ? それこそ中国、韓国から「なぜ機関銃をのせなければならない?」という質問を誘い込む部分である。
その部分の苦悩をていねいに描かないと、いくら飛行機としての美しさを追求したといっても、うさんくささを乗り越えられない。組み立てのとき必要な留め鋲を軽くする話が出てくるが、それは設計者だけでできることがらではなく、たの技術者をまきこんで可能なことである。描かなければならないのは、設計とそれを可能にする技術--つまり、技術者との正確な交流、おなじ「ものづくりの現場」にいるひとたちとの共同作業のはずである。そういうものが濃密に描かれれば、あ、これは「ものづくりの現場」というものじたいがすばらしいファンタジーだとわかるはずである。
そこを省略して、ファンタジーを主人公の「個人」に収斂させ、そこにもうひとりのヒロイン(悲劇)を重ねることで、主人公の「ものづくり」とは別の場所手悲劇の主役にする。
これは工夫というより、手抜きだね。
こういうものをみると、私は、ちょっと感想を書きたくなくなるのである。
絵そのものとしても、「ものづくり」があまりつたわってこない。鯖の骨のカーブを美しいという部分にいちばん濃密にでているけれど、同じようなことがらが「留め鋲」でも技術者の側から描かれると、とてもおもしろいものになるのになあ。誰かがきっと同じようなことをしているはずなのになあ、それを探り当てない(嘘でもいいから、それを描いて見せない)といのうは手抜き以外のなにものでもない。
手抜き--なのかどうか、私はアニメ作家ではないのでわからないが、遠景のときの人物の線も手抜きだなあ。原画の大きさに限りがあるからどうしてもそうなるのかもしれないけれど、スクリーンのなかに人間の全身が登場するとき、それがあまりにもつたない。下書きの線のように見えてしまう。スクリーンに拡大されたときに、全身にみなぎる充実感がない。細部が細部になっていない。「ものづくり」のこだわりが、そこには欠けている。
好きなところは。
主人公の夢と、主人公が私淑しているイタリアの飛行機設計家の夢がまじりあうところ。同じ夢をもっているので、互いの夢に「侵入」しあう。それはほんとうに夢見るように美しい。この夢の侵入を、繰り返しになるけれど「技術者」との間でも描いてほしかったなあ。
(2013年07月24日、天神東宝1)
この作品は数日前に見たのだが、なかなか感想を書く気になれなかった。いまでも気乗りがしない。予想通り、韓国や中国から零戦をつくった技術者(設計者)を主役にしていることに対する批判が起き、それに対して宮崎駿が「ものづくりの現場」から反論するということが起きたのだが……。
嫌いな部分から先に書こうか、先に好きな部分を書いておこうか。
書くのをためらったのだから、嫌いな部分から先に書こう。書いたあと、まで好きな部分について書く気持ちが残っていたら、そのことを書こう。
何が嫌いかというと、「ものづくりの現場」にこだわるのなら、なぜ、堀辰雄の「風立ちぬ」を合体させたのだろう。堀辰雄の「小説家としてのものづくりの現場」に共感したというのなら、もっと具体的に小説家のこだわりに踏み込まないといけない。「ものづくり」をヒロインの死と組み合わせることで、「ものづくりの現場」をセンチメンタルなものにすりかえてしまっている。「ものづくり」に共感しないひとも、ヒロインの死んでゆくときの姿に共感するだろう、という思いがなかったかどうか。言い換えると、宮崎駿に、そういう「計算」がなかったかどうか。
私は、うさんくさく感じている。
うさんくさいもの、一筋縄ではゆかないもの--そういうものに私は体外の場合は共感するし、とても好きなのだが、今回の場合は違う。
「ものづくり」というものは、実は、それだけでうさいくさい。美しい零戦をつくるということは、それだけでうさんくさい。ひとが旅するためのものではなく、戦争のものだからね。映画のなかでも「笑い話」として出てくるが、「あと少し機体を軽くしなければならない。搭載する機関銃の重さの分を」というようなことを主人公は言う。きわどい話でしょ? うさんくさいでしょ? それこそ中国、韓国から「なぜ機関銃をのせなければならない?」という質問を誘い込む部分である。
その部分の苦悩をていねいに描かないと、いくら飛行機としての美しさを追求したといっても、うさんくささを乗り越えられない。組み立てのとき必要な留め鋲を軽くする話が出てくるが、それは設計者だけでできることがらではなく、たの技術者をまきこんで可能なことである。描かなければならないのは、設計とそれを可能にする技術--つまり、技術者との正確な交流、おなじ「ものづくりの現場」にいるひとたちとの共同作業のはずである。そういうものが濃密に描かれれば、あ、これは「ものづくりの現場」というものじたいがすばらしいファンタジーだとわかるはずである。
そこを省略して、ファンタジーを主人公の「個人」に収斂させ、そこにもうひとりのヒロイン(悲劇)を重ねることで、主人公の「ものづくり」とは別の場所手悲劇の主役にする。
これは工夫というより、手抜きだね。
こういうものをみると、私は、ちょっと感想を書きたくなくなるのである。
絵そのものとしても、「ものづくり」があまりつたわってこない。鯖の骨のカーブを美しいという部分にいちばん濃密にでているけれど、同じようなことがらが「留め鋲」でも技術者の側から描かれると、とてもおもしろいものになるのになあ。誰かがきっと同じようなことをしているはずなのになあ、それを探り当てない(嘘でもいいから、それを描いて見せない)といのうは手抜き以外のなにものでもない。
手抜き--なのかどうか、私はアニメ作家ではないのでわからないが、遠景のときの人物の線も手抜きだなあ。原画の大きさに限りがあるからどうしてもそうなるのかもしれないけれど、スクリーンのなかに人間の全身が登場するとき、それがあまりにもつたない。下書きの線のように見えてしまう。スクリーンに拡大されたときに、全身にみなぎる充実感がない。細部が細部になっていない。「ものづくり」のこだわりが、そこには欠けている。
好きなところは。
主人公の夢と、主人公が私淑しているイタリアの飛行機設計家の夢がまじりあうところ。同じ夢をもっているので、互いの夢に「侵入」しあう。それはほんとうに夢見るように美しい。この夢の侵入を、繰り返しになるけれど「技術者」との間でも描いてほしかったなあ。
(2013年07月24日、天神東宝1)
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