池井昌樹「虎」(「森羅」36、2022年09月09日発行)
池井昌樹「虎」は「大学進学のため上京し独り暮らしを始めた」ころのことを書いている。
私は初めて銭湯に浸り、初めて焼鳥で焼酎を
飲み、初めて酔心地というものを味わった。
銭湯には太初から湧き出した鬱蒼たる温みが
あった。裸の浴客たちもまた太初から湧き出
したもののように思えた。
私は「太初」ということばに目を止めた。理由はとても簡単で、私は「太初」というものを感じたことがないからだ。
しかも、池井は、この「太初」を、こう関連づけている。
銭湯
も焼鳥屋も実はか細い水脈を繋げてか細いな
がらもそれぞれのふるさとへ、私たちの心の
襞から襞へ深々と及んでいる
「いま」と「太初」がつながっている。「心の襞」でつながっている。それは「深い」ところにある。
池井のことばを支えるのは、この感覚である。池井自身が「太初」とつながっている。それは「心」でつながっている。
「論理」といえばいいのか「理念」といえばいいのかわからないが、書いていることの「意味」は「論理的」にはわかる。しかし、私はどうも実感することができない。長い間池井の詩を読んできて、いまごろになってこんなことを書くのは、ちょっと変かもしれないが。
銭湯の湯、そこにいる他の男たち、それが「湧き出したもののように思えた」は、とてもよくわかる。このとてもよくわかるは「ことばでは説明できない」であり「ことばで説明する必要がない」である。私は、そこにあるものを「そこに湧き出してきた」ものとして見ていた。いまも、見ている。だが、それが「太初から」かどうかと問われたとき、それがわからない。「いま」湧き出しているとしか実感できない。
だから、私には、池井の書いていることが「不気味」に見える。あるいは「汚く」見える。この「汚い」は何かによって予め汚れているということである。「太初」によって、私のたどりつけない時間によって、「汚れている」。もちろん、この「汚れている」を「清められている」と呼ぶこともできる。
たぶん、私が池井のことばを「好き」と書くときは「清められている」というベクトルで書いているのだと思う。書いてきたのだと思う。
でも、それで良かったのかな?
「汚れている」のまま、それを存在させた方がよかったのだろう、と思う。
それは、結局、私にはたどりつけない。たどりつけないものを、たどりつきやすいことば(「汚れている」よりも「清められている」の方が、肯定的?で接近しやすいだろう)で語るとき、私は、どこかで嘘をついているのだ。
池井はあるとき、たぶん、この詩が書かれた大学に入ったばかりの頃だと思うが、「何か汚いものを食おう」と私と誘った。本庄ひろしもいた。私と本庄はぎょっとした顔をしたと思う。池井はずんずん歩き、「汚い」店に入った。テーブルも椅子も床も汚かった。そこで池井は「汚いもの」を注文し、「うまい、うまい」と食っていた。
その「汚いもの」を、池井は「太初」そのものとして食らいついていたのだ。それを「清められたもの」と呼ぶのは間違っている。食らいつくことで、その「汚いもの」を「清める」というのも間違っている。
ただ「くらいつき、むさぼる池井」として、あのとき、そこに「湧き出してきた」のである。私の感覚では「太初」からではなく、ただ、そこにある場、そこにある時間のなから湧き出してきたのである。言い直せば、「定義できない」(名づけられない)ところから「湧き出してきた」。だから、私はうろたえたのである。
もちろん「太初」から「湧き出してきた」のだとしたら、それも驚きだが、「太初」と呼ぶとなんとなく安心できる。だが、「太初から」と定義することで、安心してはいけないのだ、と思う。
この詩で池井は「太初」ということばをつかっている。それは池井にとっては正しいことばなのだと思うが、私は、この「太初」をそのまま信じてはいけないぞ、と自分に言い聞かせるのである。「太初」を受け入れると、「汚れている/汚い」が「清められてしまう」。それでは、違う、間違っている、と思うのだ。
「汚い」ままにしておきたい。
私はまた池井の詩を好きになり始めているのかもしれない。
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