詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

香咲萌『私の空』

2013-10-09 12:50:54 | 詩集
香咲萌『私の空』(土曜美術社出版販売、2013年10月01日発行)

 香咲萌『私の空』の巻頭の作品は詩集のタイトルにもなっている。その書き出し。

覗き窓から 空を視る
この切り取られた空間
それ以外は全て余白

 この「余白」がとても気になる。覗き窓から空を見る。その青空(たぶん)の空間。それが「余白」ではなく、それ以外が「余白」。うーん、覗き窓を囲んでいる壁や何かがあると思うけれど……。でも、「間違い」という感じはしない。何か、私の知らないものがここに書いてある、という驚き、詩の「予感」のようなものがある。
 私の知らないものを香咲は知っている--という予感。
 何だろう。

伸ばせば手の届く 私だけの空

この空と向き合う
この空と 語り合う

私は交感する
空気の一粒一粒
雲の一粒一粒が
私の細胞と混じりあう

 空に手がとどくとは私は考えない。空と向き合う、語り合うはわかるけれど、「私は交換する/空気の一粒一粒/雲の一粒一粒が/私の細胞と混じりあう」は「意味」はわかるけれど、実感としてつたわってこない。香咲の「肉体」がつたわってこない。
 「それ以外は余白」の1行は、わからないのだけれど、わからないを超えて、何かを感じる。そこに香咲がいる、という感じがする。たぶん、空(空気/雲)と交感するということは、空気が細胞に混じりあうことだと、私はどこかで聞いたことがある(読んだことがある)からだと思う。「交感」を言いなおすと、きっとそうなる。花と交感するなら、花の美しさ、輝きが、色と匂いが自分の体のなかに入ってくる。そうして一体になる--そういう感じを「空」で言いなおしている、と私は感じる。香咲以外にもそういうことを書いてひとはいると思う。
 でも、覗き窓があり、空が見えるとき、その空以外は「空白」と書いたひとはいないのではないのか。私は、そのことに驚き、その瞬間、香咲がそこにいると感じたのだ。--その感じが、詩を読み進む内に薄まるのだけれど、ああ、でも、きっと何かあるぞという「予感」があって、次の詩を読みはじめる。「存在」という詩。
 香咲は地図をつくる仕事をしているらしい。道路や川や建物、田畑を描いていく。「地図上に存在しないものはない」と書いて、3連目。

でも ただひとつ 図面上に描かないものが在る
描けないものが在る 山は等高線で描き出し
高低をつける 建物と水がい線は陰影をつける
光は届いているのだ そこに必ず在るのに
視えないもの 暗渠は視えはしないが破線で示す

 空気だけは漂っている
 図面全体に漂っている

 「地図に描けないもの(描かないもの)」ということばから、私は瞬間的に「光」を思い浮かべたが、どうやら香咲は「光」を「描かないもの」とは感じていない。「空気」も同じ。それは「図面全体に漂っている」。私には見えないけれど、香咲には、それが見える。描き出している、という自覚がある。
 職業の力--というものを感じる。そうか、私の肉体と香咲の肉体は、「見えるもの」が違うのだと感じた瞬間。

それは空だ
図面全体は空から視た状態で描くからだ
図面全体を 空が覆っている

 あ、このことを香咲は「私の空」で書いていたのだな。
 「空」と「空気(あるいは光)」はどう違うか。「視点の位置」が違う。その「位置」のことを香咲は「肉体」で感じている。
 仕事をしているとき、香咲はいつも「空」にいる。それは、私たちが地上にいて仕事をするとき、そこが地上であると意識しないのと同じように、それを忘れている。何かを描くことは、その対象そのものになることだから、その瞬間「立ち位置」は消えてしまう。意識からなくなってしまう。

私は忘れていた 空の存在を 会社勤めの時は
残業続きで 見あげるのは 真っ暗な空だ
流れてゆく星を 空しい気持ちで見送ったが

一人で仕事を始めてからも 私は
空の存在を意識できていなかった
常に下を向き 地を見つめ 四角く狭い缶詰のなかで
這いつくばっていたから

私は仕事の手を止め 缶詰の蓋を抉じ開けて
明るい世界に飛び出した

そこに 空が在った
そして 制作者である私も ここにいる

 「空」のあり方が違う。その「空」は地図をつくっている香咲だけの空である。「伸ばせば手の届く 私だけの空」が、ここで始めてわかった。空がそこにあるというだけではなく、香咲くは空そのものなのだ。
 そして、空があるから、私もある。
 この「空」の意識があって、最初の詩の「余白」がある。何も書き込まれていない空白がある。余白のなかへ、香咲は空といっしょに広がっていく。空を広げることは、地図に描かれている領域を広げること、地図を大きくすることは空を大きくすること、そして香咲を大きくすること。
 わああ、気持ちがいいなあ。
 どんな仕事でもつらいものがあるけれど、仕事そのものになると、そこにはそれまで知らなかった「可能性」が出てくる。その「可能性」の「余白」のなかに、香咲は広がっていく。
 「存在」には「空気の一粒一粒」と「交感する」とは書いていないのだけれど、「交感する」香咲自身が別のことばで書かれている。引用しなかった第2連、

烏口・丸ペン・コンパス・回転烏口を駆使して
墨書きする地図 詩と黒の世界 測量された
道路・河川・田畑・山・建物・門柱一本・
マンホール一個・法・植生界に至るまで
地図上に存在しないものはない

 同じように、香咲が地図を描くとき、香咲と「交感」しないもの(一体にならないもの)は存在しない。香咲はあらゆるものになって存在し、地図が完成するとき、香咲自身が完成するのだ。
 具体的な仕事はなんと美しいのだろう。ひとを美しくするのだろう。



私の空
香咲 萌
土曜美術社出版販売

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