菊池祐子『おんなうた』(港の人、2017年12月20日発行)
菊池祐子『おんなうた』は「幸せの鳥」の一連目が印象的だ。
「心臓のように」「胸に抱く」。「心臓」は「肉体」の内部にあるので、これを「抱く」ということはできない。不可能なのだけれど、この不可能は、とても「強い」。ふつうに抱くのではない、ということを強く感じさせる。「力を込めて」とか、「やさしく」とかではない、「特別な」抱き方だ。「特別」ということがつたわってきて、ほーっと思う。
つづくに連目の「海よりも もっと遠い永遠の場所」というときの「海」は、どこだろうか。たとえば長野県や岐阜県のような海に隣接していな場所なら「海」そのものが「遠い」。けれど、ここに書かれている「遠い」は「海から隔たっている」「海が隔たっている」という「遠さ(距離)」ではないだろう。岸に立って見える海でもない。岸に立って海をみつめながらも、なお、そこからは見えない「遠い海」だ。それは「思い描く」海だ。
「思い描く」から、「心臓」にもどろう。
「心臓のように」「胸に抱く」というのも「思い描く」光景である。「抱く/抱かれる」が現実であっても「心臓のように」が「思い描く」のだ。「思い描く」ことで、「わたし」は「心臓」になる。
「遠い永遠の場所」としての「海」。それも「思い描く」とき、「私」は「遠い海」そのものになっている。
「思い描く」とは「わたし」が「わたし」でありながら「わたし以外」になることだ。
そういうふうに読んでいって、
あ、「あなた」と「わたし」が「思い描き」のなかで入れ代わった、と感じる。
「あなたは 心臓のように/わたしを 胸に抱いている」は「思い描いた」情景である。そして、思い描いていると、「わたしは 心臓のように/あなたを 胸に抱いている」にかわる。「心臓」は「少女のわたし」(少女時代の思い出)である。「思い出の少女」だから、それは「胸に抱く」ことができる。
「少女」はいつか、こういうときが来ることを知っていた。「少女」は、いつかおとなになって、「少女だったわたし」を「思い出し」、思い出すことで「胸に抱く」。同時に、そのとき「少女」が「大人のわたし」を「抱く」ということも起きる。「少女」が、いま、ここにやってきて、「大人のわたし」を抱いている。そうなることを、「予感」していた。このとき「いま/ここ」とは「心臓(こころ)」であり、「思い描く」という「動詞」でもある。
センチメンタルかもしれない。けれど、センチメンタルもいいなあ。美しいなあ。
*
「詩はどこにあるか」2月の詩の批評を一冊にまとめました。
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目次
小川三郎「沼に水草」2 岩木誠一郎『余白の夜』8
河邉由紀恵「島」13 タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」18
マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」再考21 最果タヒ「東京タワー」25
樽井将太「亜体操卍」28 鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37 若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47 佐伯裕子の短歌54
石井遊佳「百年泥」64 及川俊哉『えみしのくにがたり』67
吉貝甚蔵「翻訳試論――漱石のモチーフによる嬉遊曲」72
西岡寿美子「ごあんない」76
*
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(上)83
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注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
*
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嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
菊池祐子『おんなうた』は「幸せの鳥」の一連目が印象的だ。
あなたは 心臓のように
わたしを 胸に抱いている
海よりも もっと遠い永遠の場所を思って
わたしは どきどきしながら 目を閉じています
「心臓のように」「胸に抱く」。「心臓」は「肉体」の内部にあるので、これを「抱く」ということはできない。不可能なのだけれど、この不可能は、とても「強い」。ふつうに抱くのではない、ということを強く感じさせる。「力を込めて」とか、「やさしく」とかではない、「特別な」抱き方だ。「特別」ということがつたわってきて、ほーっと思う。
つづくに連目の「海よりも もっと遠い永遠の場所」というときの「海」は、どこだろうか。たとえば長野県や岐阜県のような海に隣接していな場所なら「海」そのものが「遠い」。けれど、ここに書かれている「遠い」は「海から隔たっている」「海が隔たっている」という「遠さ(距離)」ではないだろう。岸に立って見える海でもない。岸に立って海をみつめながらも、なお、そこからは見えない「遠い海」だ。それは「思い描く」海だ。
「思い描く」から、「心臓」にもどろう。
「心臓のように」「胸に抱く」というのも「思い描く」光景である。「抱く/抱かれる」が現実であっても「心臓のように」が「思い描く」のだ。「思い描く」ことで、「わたし」は「心臓」になる。
「遠い永遠の場所」としての「海」。それも「思い描く」とき、「私」は「遠い海」そのものになっている。
「思い描く」とは「わたし」が「わたし」でありながら「わたし以外」になることだ。
そういうふうに読んでいって、
古い帆船が わたしたちの横に そっと着いています
不幸せも 幸せも
孤独 という言葉さえ知らず
ひとり佇んでいる少女 だから
あなたがすき
あ、「あなた」と「わたし」が「思い描き」のなかで入れ代わった、と感じる。
「あなたは 心臓のように/わたしを 胸に抱いている」は「思い描いた」情景である。そして、思い描いていると、「わたしは 心臓のように/あなたを 胸に抱いている」にかわる。「心臓」は「少女のわたし」(少女時代の思い出)である。「思い出の少女」だから、それは「胸に抱く」ことができる。
「少女」はいつか、こういうときが来ることを知っていた。「少女」は、いつかおとなになって、「少女だったわたし」を「思い出し」、思い出すことで「胸に抱く」。同時に、そのとき「少女」が「大人のわたし」を「抱く」ということも起きる。「少女」が、いま、ここにやってきて、「大人のわたし」を抱いている。そうなることを、「予感」していた。このとき「いま/ここ」とは「心臓(こころ)」であり、「思い描く」という「動詞」でもある。
センチメンタルかもしれない。けれど、センチメンタルもいいなあ。美しいなあ。
*
「詩はどこにあるか」2月の詩の批評を一冊にまとめました。
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目次
小川三郎「沼に水草」2 岩木誠一郎『余白の夜』8
河邉由紀恵「島」13 タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」18
マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」再考21 最果タヒ「東京タワー」25
樽井将太「亜体操卍」28 鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37 若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47 佐伯裕子の短歌54
石井遊佳「百年泥」64 及川俊哉『えみしのくにがたり』67
吉貝甚蔵「翻訳試論――漱石のモチーフによる嬉遊曲」72
西岡寿美子「ごあんない」76
*
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(上)83
オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
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(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
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ぱっと読んで、私は「あなた」の胸の中にある心臓を思い浮かべてしまう。もしくはあなたが心臓のようなのだと思って、心臓そのものの大きな存在感、生々しさを感じる。
ところがこのあと
「わたしを」と続く。ここで、えっ!と思う。
「胸に」→心臓を胸に
「抱いている」→戻している
というふうに一瞬錯覚してしまう。
文章というのは固定されているもののはずなのに、パラパラ漫画を見たように、文章によってここでイメージされた人物の動きが見える。
さらにその動きは自分の心臓を胸に抱き戻している体の動きに見える。それほどに「わたしを」慎重に大切にそして強く抱きしめているのが見える。
だから、特別な言葉を使っていないし、普通の文のようなのに、またそれだからなおいっそう、とてもインパクトのある二行になっている、ように思いました。驚きました。たった二行で物語みたいだと思いました。
でもそれは初読時の魔法で、繰り返し考えているうちに、その光景は見えなくなってしまいました。魔法よ、戻ってきてください。